第一章 触れない男
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1
僕は人を殺した。
三年前の話だ。当時中学一年生だった僕は、それまで知りえなかった様々な知識や経験を貪り、学生生活というものを十二分に楽しんでいる頃だった。電車に乗って都心へ赴き、映画や買い物に勤しむ。友人たちとカラオケに入って、好きなバンドの曲を喉が枯れるまで歌い尽くす。そんな、ごく普通のありふれた生活を送っていた。
全てが変わったのは、ある一人の少女のせいだった。
彼女とは小さな公園の中で出会った。駐車場や町工場に囲まれた狭い路地を抜けた先にある、地元民でなければ絶対に発見できない場所。設置されている遊具はブランコと砂場、そしてジャングルジムの三つだけ。それは、何故そこに作られたのか理由を疑いたくなるようなくたびれた公園だった。
絵を描くことが趣味だった僕は、よくその公園を利用して花や草木、鳥や猫などを模写していた。別に他に公園がなかったわけでもないけれど、人に描いている姿を見られたくなくて、そこを選ぶことが多かった。
「何を描いてるの?」
彼女は僕の横に立ち、いきなりそう声をかけてきた。
黒い絹のような長い髪が、風に押されて僕の顔を撫でた。自分一人だけだと思っていた僕は、思わずぎょっと顔を後ろに回した。
「ねえ。何を描いてるの?」
再び同じ質問をする彼女。僕は見えない力の強制を受けたかのように、すらりと答えを漏らした。
「コンクリートに囲まれた場所から見える空の絵だよ。真下から見上げているように描きたいんだ」
「空の絵? へえー、すごいね。鉛筆だけなのに、すごくリアルに見える」
肩越しにこちらの手元を覗き、彼女はそう微笑んで見せた。大きな黒真珠のような瞳に僕の描いた絵がうっすらと映る。まだ愛だの恋だのとかいう感情がよくわかっていなかった僕だけど、そのとき、彼女の笑顔に見惚れてしまったことだけは、今でもよく覚えている。太陽の光を浴びて鮮やかに咲く向日葵。僕の目には、彼女の姿がそう映っていた。
その日以後、僕が公園を訪れるたびに彼女は遅れてやってきた。昼の十五時に行こうとも、平日の夕方に行こうとも、いつも必ず知らない間に横に立っていた。
最初は変に思ったけれど、彼女と接する時間が長くなるにつれて、僕はそのことを意識しなくなった。今思えば明らかに妙な話だとわかるのに。
彼女はとにかく変わった子だった。歳は僕と同じくらいに見えたけれど、流行のものや若者が知っているはずの知識に酷く疎かった。芸能人も知らない。ドラマも知らない。映画も知らない。まるでひとつ前の時代に取り残されているかのようだった。
だから、彼女とコミュニケーションをとることは中々に大変だった。僕は毎日必死に笑い話を考え、彼女に披露してみたけれど、彼女はいつも「つまんない」と、それを無情に斬り捨てた。
僕も別にお人よしではない。こうも冷たくあしらわれれば嫌にもなった。いい加減彼女と関わるのをやめようかと思い始めたころ、偶然彼女が興味を示すものを見つけた。僕の描いた絵だ。
元々僕は絵を描くためにその公園を訪れていたのだから、自然と毎回手元にはそういった未熟な絵が並べられていた。
彼女はそれをよく眺めていた。きっと元々絵が好きだったのだろう。絵を見ているときの彼女の表情は、他の何をしているときよりも楽しそうだった。
だから僕は、彼女のために絵を描き続けた。あの笑顔を見るために、その真剣な感想を聞くために。
気がつけば出会ってから三ヶ月も経ち、僕たちはまるで親友のようにお互いの気心を知り尽くしていた。いつの間にか学校の友人たちよりも、彼女といる時間のほうが長くなっていたほどだ。
僕はある程度彼女の身の上を知ったつもりだった。性格も把握したつもりだった。だけど、ひとつだけ違和感を感じることがあった。
彼女と一緒にいるとき、僕は何故か知り合いに会うことがまったくなかった。いや、知り合いどころか、通行人の姿すら見たことがなかった。まるで僕と彼女がいるこの場所を避けているかのように、不自然なほど人の気配がなくなることが多々あったのだ。
彼女自身は非常に明るく話しやすい人間だったけれど、僕にはその空気が少し怖かった。
「私が幽霊? そんなわけないでしょ。幽霊がアイスなんか食べる?」
僕がふざけてぶつけた言葉を、彼女は優しく一笑した。ぺロリと手に持ったアイスを舐め上げ、満足そうに微笑んでみせた。彼女の言葉を聞き、確かにと僕は納得した。あまりに人を寄せ付けないから、僕は悪霊にでも憑かれたのかと疑ってみたけれど、幽霊にしては、彼女の行動には現実味がありすぎた。駄菓子屋で一円単位まで値下げに勤しむその姿は、とても死人だとは思えなかった。だから余計に、彼女と一緒にいるときに感じる不気味な空気が、気になって仕方がなかったのだ。
ある日、僕たちは暴漢に襲われた。その男は僕と彼女がその公園で目にする、初めての来訪者だった。男は僕たちの姿を見つけると、何の躊躇いもなく真っすぐに襲いかかってきた。僕は無我夢中で反撃したけれど、所詮大人と中学一年の小僧とでは体格も力も違う。あっさり殴り飛ばされ、僕は壁に頭を打ちつけ血を流した。
泣き叫ぶ彼女に迫る男を見て、僕は怖くなった。酔っ払いや追剥なんかとは違う、明らかに殺意の篭った目。男は本気で彼女を殺そうとしているようだった。
僕は彼女を守ろうとした。男にしがみつき、歯を立て、爪を立て、必死に抵抗した。けれど、男はまるでそんな抵抗など蟲が止まる程度の障害だとでも言うように、僕を強引に払い落とそうとした。
頭から血を流し暴れる僕の姿は、彼女の恐怖心をかき立てるのには十分過ぎるほどのスパイスだったことだろう。
やられそうな僕を見て彼女が一際大きな叫び声を上げた瞬間――それは起こった。
無我夢中で前に伸ばした僕の手。その手が“歪んだ”。いや、正確には手の周囲の空間が揺れていた。半透明の、水面に小石を落としたときの波のような揺れ。“その何か”が胸に接触した瞬間、男は悲鳴をあげ動きを止めた。苦しそうに眼を見開き、僕をきつく凝視した。
無我夢中だった。とにかく彼女を助けねばと、必死だった。
胸を押さえ、何か言いたげに彼女を睨む男。僅かに僕の肩を掴む力が緩くなった。何も考えず、僕は本能のままに、もう一度“それ”を男の胸に押し付けた。
目の前が真っ赤に染まる。
頬の横を柔らかい塊が飛び抜けたけれど、まったく目に入らなかった。ただ、とんでもないことをしてしまったという実感だけは、あった。
膝を折り、倒れる男。僕は掴んでいた彼の体に引っ張られるように、その上に倒れ込んだ。慌てて体を起こすと同時に、絵の具のような鮮やかな“赤”が僕のズボンへ染み込んでいく。妙に温かく、気持ち悪かったけれど、たった今目の前で起きた出来事のせいで気が動転し、思うように足が動かなかった。
何が起こったのかまったく理解できなかった。頭の中で嵐が起きているかのようだった。
手を震わせる僕を視界に収め、男は悔しそうに、それでいてどこか残念そうに目を細めて、ゆっくりと息を引き取った。
今のは、一体なんだったのか。何がどうしてこんなことになったのだろうか。今でもよくわからない。
僕は首だけを動かし、背後を見た。彼女は驚愕に溢れた目で僕と男の遺体を交互に見返した。
何か言わなくては――
そう思い、喉を動かそうとした途端、彼女は走り出した。悲しそうに涙を流しながら、僕と正反対の方向に向かって。
「――カナラ!」
僕が名前を叫んでも、彼女の足が止まることはなかった。まるで何かから逃げようとしているかのように、遠ざかろうとしているかのように、必死にその場から離れていった。僕は呆然と死体の上に座り、ただ彼女の消えた姿を見続けることしか出来なかった。
2
クラクションの音が聞こえ、意識が現実に立ち返った。急に出てきたオートバイに向かって、御奈が警笛を鳴らしたらしい。
外の様子を確かめるために顔を動かそうとすると、景色の流動が示し合わせたかのように停止する。正面に赤いライトを点滅させている信号機が見えた。
僕はゆっくりと息を吐いた。
窓の向こう側には穏やかな緑が広がっている。道路沿いに置かれた看板には国立公園という文字が書かれていた。横にある、草原にも見える広い場所で、小学生くらいの子供たちが元気そうにボールを蹴っている。
昔を思い出してしまったのは、やはり彼らの姿を目にしたからだろう。立地条件や面積は天と地ほどの差があるけれど、子供たちの笑顔や風に揺れている草木の姿は、三年前の僕と彼女、真方カナラの姿を自然と連想させたから。
「――結構渋滞になってるね。出る時間を間違えたかな?」
バックミラー越しに運転手の姉、御奈 と視線が合う。彼女の長い茶髪を見て、僕は当たり障りのない言葉を返した。
「土日だからね。こっちは車での移動が基本みたいだし、仕方ないんじゃないかな」
「まったくこれだから田舎は……お父さんもよく暮らす気になったものだね」
呆れるように渋滞の先を見つめつつ、御奈はため息を吐いた。
「御奈はいいよ。まだあっちに住んでいられるんだから。高校生の転校なんて、めったにないのに」
「穿だってあと二~三年我慢すれば大学生じゃない。そんなに悲観的になることは無いでしょ。逆に、これまでとは違う新鮮な生活を楽しんでみれば?」
「新鮮って……別に今までとそんなに変わらないだろ。ただ都会から出ただけじゃないか。新幹線を使えば一時間もかからずに戻れる距離なんだし」
僕は自分に言い聞かせるようにそう言った。
「まあ、覚悟するんだね。実際に住んでみると、色々と不便なことが多くてびっくりするから」
都内から出たことがないはずなのに、美奈はまるで自分が多くの世界を見てきたかのごとく圧力的な笑みを浮かべた。三歳年上の彼女は、いつもそうやって上から目線で僕に接する。年頃の僕には、それがたまらなくうっとうしかった。
「見えた。あの建物。もうすぐ着くよ」
御奈は顎を左斜め前へ向けた。僕が釣られてそちらに視線を合わせると、山を背にして、ひし形状の物体が最上階に乗っかっている、奇妙な建物が目に入った。
「何だ、あれ?」
まるで巨大な宝石だ。僕は訝しむようにそれを見つめた。
「文化センターなんだって。この近辺の歴史を説明するための資料館や、コンサート会場、図書館なんかが入ってるらしいよ。この街の象徴なんだとさ」
「ふーん」
僕は明らかに興味のない声を出した。見た目からもっと面白いものを期待していたのだが、どこにでもある渋い建物だとわかりがっかりしたのだ。
「何その態度? あんたが暮らす町の象徴なのに」
僕が住む? ということは、ここがそうなのか。
その台詞を聞いたことで、いよいよ実感が湧いてきた。僕が今までとは違う街に、家に住むという実感が。
父がこの街に住むことを決めたのは、海が近いことが理由だった。
病気で療養を必要としていた母のために、適度に都会に近く自然の多い引越し先を探していた父は、たまたま出張で訪れたこの街をいたく気に入り、住むならここしかないと判断したらしかった。僕や 御奈の言い分など気にもせずにほぼ勝手に準備を進め、あっという間に転居は決定してしまった。まるですぐにでも引越しをしなければならないという、妄執にでも取り付かれていたかのようだった。
その性急すぎる決定のせいで、知人たちに別れをいう暇もほとんどなく、直接事実を伝えられたのも、当時よくつるんでいた二人の友人だけだった。きょとんとした表情を浮かべている彼らに見送られ、僕は風のように、生まれ育った街を後にした。
だから、正直この引越しにはあまり納得していない。不満はいっぱいあるし、何より田舎暮らしになることが嫌だった。喧騒の中で育ってきた僕にとって、こっちは酷く静かで、寂しく見えたから。
次第に渋滞が解消され、幾分周囲の景色がよく見えるようになってきたころ、僕の目はとある張り紙に釘づけになった。通り過ぎる電柱のいくつかに同じものが貼り付けられている。
“触れない男出没、注意!”
紙面にはそう表記されていた。
触れない男? 一体なんだ? 新手の変質者か何かか?
イメージ画として下に描かれている人物の絵は、レインコートのようなものを被った長身の男だった。手描き感溢れる不格好なその姿からは、どういう人物なのか、何が危険なのかまったく想像もできない。僕は意味がわからず首を傾げた。
「何かところどころに貼ってあるね。この変なポスター」
同様に気になっていたのだろう。御奈は不思議そうに小首をかしげ、バックミラーから僕を覗いた。
「今夜近所の人と一緒にバーベキューするらしいし、そのときに聞いてみる? 何だか気味が悪いいもの」
「バーベキュー?」
そんな話は初耳だ。彼女の釣り目をミラー越しに見返し、僕は少し迷惑そうな顔を作った。
「あれ? 聞いてなかった? お父さんが出張中に仲良くなった人がお隣さんなんだって。穿と同じくらいの子供もいるらしいよ」
「……面倒くさい」
ふて腐れたようにだらりと腰を砕けさせる。
普段は無口で何を考えているかわからないあの父に、そんな社交性があったとは驚きだ。いつもは漫画を読んでいるか寝ているかといった、干物のような活動しかしていないというのに。
そういえば、僕は父のことをほとんど知らないなと、今更のように思った。母が病気で入院するまで、会話をしたことすら数えるほどしかなかったような気がする。記憶に一番新しい父との会話だって、五日ほど前に聞いた、「その棚の一番上、十四巻を取ってくれ」程度のものだ。
御奈が東京で一人暮らしを続ける以上、これから僕は高校を卒業するまでずっとあの父と二人っきり。その生活を想像すると、言いようのない不安感に襲われてしまった。
3
僕が住むことになったのは、一階建ての一軒家だった。海沿いの道路を突き進み、少し坂を上がった先にある小さな白い家。一見するとかなりおしゃれな外観だったけれど、中は間取りが悪く、個人用の部屋もちょうど三つしかなかった。父は現在仕事で家に居ない。荷物の少ない姉をリビングに残し、とりあえず僕は新たに自分のものとなる部屋を見てみることにした。
扉を開けてまず目に入ったのは、広大な海の姿だった。
道路を挟んだ向かい側にある崖。その先に無限に続く青い世界が広がっている。ちょうど夕刻時ということもあり、水面が渋柿のような色へと染まりかけ、見事な美しさを醸し出していた。
僕は自然とその景色に見とれてしまった。どこまでも続く地平線を眺めているうちに、自分の存在が何だかちっぽけなものになってしまったかのような、そんな気分になる。別に海を目にするのは初めてではないはずなのに、不思議なほどその光景は素晴らしく感じることができた。
「穿、お隣さんが来たよ。こっち来て」
御奈の声で我に返り、僕はそっと視線をその別世界から遠ざけた。引きずられそうになる目の筋肉を抑え、カーテンを無造作に閉める。
眩しかった光は、それっきり姿を消してしまった。
僕がリビングに顔を出すと、御奈の向かいに座っていた人物がこちらを振り返った。スチールウールを束ねたような髪型をした、化粧の濃い年配の女性だ。彼女は僕の顔を眺め僅かに体を傾けた。
「こんにちは。お隣の玉木です。はるばるご苦労だったね。疲れたでしょ」
どうやら、先ほど車内で御奈が言っていた人物のようだ。僕はぎこちない笑顔をつくり、
「――こんにちは。いえ、そんな大した距離ではないですし、大丈夫ですよ」
お決まりのような挨拶を返した。
「ここの左隣に住んでいるから、困ったことがあったら何でも言ってね。昼はあれだけど、十八時以後なら私はいつでも居るから」
「わかりました。お世話になります」
軽く頭を下げ、彼女から視線を逸らす。自分で作った知り合い以外から親しげな言葉をかけられるのは、何だかやりにくい。こちらの性格や感情を勝手に決め付けられているような気がするからだ。
僕が黙っていると、彼女――玉木さんは、御奈のほうへ向き直り会話を続けた。
「それでバーベキューの話なんだけど、予定よりも人が多くなっちゃって、庭じゃできそうにないからちょっと歩くことになるけど、いい?」
「そんなの気にしないで下さい。付近の様子も確認できるし、いい運動です」
「じゃあ、十九時前に外に出てて。一緒に行きましょう」
「わかりました。十九時ですね。楽しみにしてます」
母譲りの社交性と明るさを持つ御奈は、そう元気よく答え、席を立った彼女のために扉を開けた。僕はあまり行きたくなかったけれど、父や母の建前もある。仕方がなく適当に会釈をし、彼女を見送った。
4
海辺の街は、蝉の声が聞こえない。何でも漂ってくる空気に多数の塩気が含まれているからだそうだ。道中、僕はそんな嘘か本当かわからない豆知識を、玉木さんから一方的に教えられた。
「ほら、あそこよ。もうみんな来てるみたいね」
数十メートル先の川沿い。縦長の草原のようなその場所から、数時間前に見た夕焼けを連想させる灯火がいくつかちらついている。どうやら既に調理に入っているらしく、十人近い影がその輝きに群がっていた。
御奈は「ただ酒やっほぉー……!」と卑猥な笑みを浮かべ、その中へ飛び込んでいく。最初は乗り気でなかったものの、こうも肉の焼ける香ばしい匂いを押し付けられれば、流石に気分も高揚する。僕は一番人の少なそうな台を選び、その輪に加わった。隣に立っていた少年がこちらを振り返った。
「――お、例の引越しの人? ちょっと風を送ってくれ。火が弱いんだ」
ろくに挨拶もしていないのに、いきなり馴れ馴れしく指示を飛ばされる。その頭部のもじゃもじゃを見て、僕はすぐに彼が玉木さんの親族だと悟った。
紙製の団扇を受け取り、左手の平に叩き付ける様に仰ぐ。僕のほかにも二人、同じように真顔で仰いでいる者たちが居た。
「悪いな。早く焼かないとすぐに具材がなくなっちまうんだよ。ここは戦場だから、新人だからって、遠慮はしないぜ」
「戦場って……」
これは確か、僕たちの引越しを歓迎するための催しだったはずだ。獲物を狙う猛獣のように網上の供物を凝視する彼らを見て、僕は思わず苦笑いを浮かべた。
「右、火力が弱い!」
もじゃもじゃ頭が叫び、向かいの少女が団扇をより大きく動かす。
「ほら、左、左!」
僕は慌てて手に力を込めた。
ころころと変わる火の向きとオーバーな指示は、まるでオーケストラーの演奏のようだ。こいつもしかしてふざけているんじゃないかと、一瞬本気で疑ってしまった。
「よし、いい感じだ。もうすぐ焼けるぞ」
嬉しそうに舌なめずりする“もじゃもじゃ”。僕の視線に気がつくと、思い出したように顔を上げた。
「――玉木緑也っていうんだ。よろしく。多分同い年だから、気軽に接していいぜ」
「佳谷間穿。……よろしく」
名乗り返す僕を、物珍しそうに向かいの少女が見つめる。居心地が悪かったけど、彼女の気持ちは何となく理解できる。いつでも新しい顔というものは興味の対象だ。僕は軽く彼女とその隣の少年に微笑み、もじゃもじゃに向き直った。
「玉木ってことは……隣の?」
「そうだよ。母さんが案内してきたんだろ? 五月蝿かったろ。あの人しゃべるの好きだから」
「そんなことないよ。色々聞けて楽しかった」
僕は本心からそう答えた。
「えと、穿の家族は?」
「父は仕事で今日は来ない。姉ならあそこに居るけど……ちょうど、玉木のお母さんの隣に……」
「――緑也でいいよ。呼び分けずらいだろ。母さんたちも居るし」
もじゃもじゃ改め緑也は、和気藹々(わきあいあい)たる顔で白い歯を覗かせた。
「美人なお姉さんじゃないか。大学生?」
「ああ。今年高校を卒業したばかりなんだ。今日は僕を送ってきてくれただけで、明日の昼にはもう帰ることになってるけど」
「ええ? 帰っちゃうのかよ。せっかくあんな美人と知り合えると思ったのに……」
本気か冗談か、緑也は無念そうに肩を落とした。
「美人ならここにもいるでしょ?」
そう言って微笑んでみせたのは、焼き台を挟んだ向かいにいる少女だ。彼女はポニーテールの髪を左右に揺らし、扇ぐ手を止めた。
「古瀬瑞樹っていうの。よろしくね、穿くん」
「ああ、うん。よろしく」
僕がそう返すと、彼女は育てていた肉を持ち上げ、僕の小皿へと置いた。
「一応今日はお客さんだしね。好きなだけ食べていいよ。味は微妙かもしれないけど……」
「あっ、ずるい!」
物欲しそうに唸る緑也。彼女はそれを無視し、次の肉を網に乗せる。
「ありがとう」
僕は素直にお礼を言い、早速その肉を摘まんだ。
最初はぎこちなかったものの、しばらく会話を繰り返すうちに、僕たちはすぐに打ち解けることができた。強制的な付き合いが苦手なだけで、元々人と話すことは嫌いではない。ある程度肉も野菜も消費し切り、話題が少なくなったところで、僕は気になっていたことを尋ねてみた。
「そういえば……“触れない男”って何なの? 来る途中に何度かポスターを見たんだけど」
「ああ、都市伝説だよ。最近ここらで流行ってるんだ」
「都市伝説?」
緑也の言葉を僕は繰り返した。
「ここ数週間で話題になった噂なんだけど、夜な夜な変なコート姿の男が目撃されているらしいの。何でもその人に触れようとしたら、まるで幽霊みたいに避けられちゃうんだって」
「その男が姿を見せると、次の日必ず近所の誰かが行方不明になるって話だ。面白いだろ?」
瑞樹さんの言葉を緑也が補足した。まだ食べたりないのか、その口はリスのように膨らんでいる。どうやら酒盛りに入った隣の台から具材をかっぱらってきたようだった。
僕は彼の口元から滴るタレを眺めながら、
「実際にいなくなった人がいるの?」
「俺の知り合いにはいないな。でも、近所の中学じゃ二人ほど行方不明者が出たらしい。あのポスターもそこの生徒が作ったんだとよ」
二人も生徒がいなくなる。それはかなり大きな事件なのではないだろうか。僕が面食らっていると、緑也は説明を続けた。
「でも、実際はただの家出だったって話だ。二人とも三日後には戻ってきたし、特に怪我もしてなかったそうだぜ。ちょっと気になる点はあるけどな」
「気になる点?」
「戻ってきた二人とも、何故かその間の記憶がないそうなんだ。それにどこか様子がおかしいんだと。急に部活に顔を出さなくなったかと思えば、夜な夜な町を徘徊し始めるとかさ。な、変な話だろ?」
「……確かに、それは妙だね」
僕は神妙な顔を作った。“触れない”という噂の真実はわからないけれど、もし本当にその中学生たちが誰かと知り合ってから様子がおかしくなったのなら、その原因は十中八苦その男に関係しているはずだ。急に活動しなくなった部活に、夜の行動。弱みを握られているのか、危ない仕事に巻き込まれているのか、それとも……――
「でもさあ――」
瑞樹さんの声で、僕は我に帰った。
「確かにここ最近、変な事件が多いよね。事故死だとか、転落死だとか、自殺だとか、不自然なほどに死ぬ人が多い気がする。まるで幽霊が隠れて殺しまわってるみたい」
「幽霊とか、そんなわけあるかよ」
馬鹿にするように緑也は笑った。
「天国とか地獄とか、幽霊とか悪霊とか、そんなに“人間だけ”に都合のいい存在があるわけねえだろ。馬鹿馬鹿しい」
「でも、そうじゃなきゃ説明がつかないじゃない。あたしのクラスメイトには人面犬を見たって子も居るんだよ」
「妄想だよ、妄想。ただの錯覚さ。人はちょっと怖い気分になれば、そこら辺の電柱やゴミすら人の顔に見えてくるもんだ。噂に過敏になり過ぎて幻覚を見たんだろ。女子はそういう話が好きだからな」
「もう、緑也はいつもそうなんだから。全然他人の話を信じない」
むっとした表情を浮かべ、瑞樹さんはパイプ椅子に座り込んだ。体重に押され土が小さく窪む。
ちょっと変な空気になったところで、緑也は僕のほうを向いた。
「まあとにかく、怪しい奴には気をつけろってことだ。お前は引っ越してきたばかりだし、ここの地理に慣れていないから尚更な。何かあったらいつでも頼ってくれよ」
「そうだね。気をつけるよ」
僕は素直に、そう頷いてみせた。
炭酸飲料を飲みながら緑也たちと適当な会話をしていると、一匹の蟲が目に入った。
燃え盛る炎の色香に引き付けられたのか、ゆらゆらと近寄って来る。僕が見ている前で、その蟲は立ち上った火柱に捕まり業火の中へと身を落とした。
蟲は一~二秒ほど激しく暴れたけれど、すぐに動かなくなり真っ黒に染まる。僕はその死体を見て、三年前の光景を思い浮かべた。
あの日、僕とカナラを襲った男の死体は、すぐに警察に回収された。
“人を殺してしまった”という後悔と不安感に押しつぶされかけていた僕だったけれど、それが罪に問われることはまったくなかった。もっともいくら僕が殺したと言い張ったところで、決して信用はされなかっただろう。その男の死に方はあまりに異常だったから。
検死の結果では、内臓のあちらこちらが勝手に破れたとしかいいようのないような、奇妙な破壊のされ方をしていたそうだった。
どんな道具を使っても再現できず、ましては子供の手では絶対に出来ないような、そんな傷。
結局事件は薬物による中毒死ということで幕を閉じ、僕は偶然巻き込まれた被害者ということで立場が落ち着いた。
警察も法律家も、誰一人僕の殺人を立証することができなかった。僕にはそれが逆にたまらなく辛かった。夜な夜な男の悪夢にうなされ、何度も何度も跳ね起きた。“人を殺してしまった”という事実が恐ろしくて仕方がなかった。怖くて仕方がなかった。いっそ牢獄に入れてくれたほうがマシだと、何度も思ったほどだ。
カナラを失い、名前も知らないあの男を殺したその日から、僕は“死”というものを酷く恐れるようになった。家族や友人のことだけではなく、知らない人間が事故で死にかけたという話を聞くだけで、嫌な気分になり、落ち着かなかった。
自分でも病的なことはわかっている。でも、どうしても勝手にそう反応してしまうのだ。カナラを失い何かを押し付けられたあの日から、僕はずっと“死”に捕らわれている。命の終わり。全ての終点。誰もがいずれ行き着くはずの、あの現象に――。
5
片づけを終え、僕らは帰路についた。瑞樹さんも方向は同じらしく、楽しそうに口笛を吹きながらついてくる。彼女の横にいた真面目そうな少年やその他の同年代の若者たちは、既に別れてこの場にはいない。御奈や玉木さんたちは遅れて歩きながら談笑している。僕は急に世界が静かになったような、そんな錯覚を覚えた。
「……暗いね」
都内に住んでいた頃、道路はいやというほど明るさに満ち溢れていた。しかしここでは、視界の大部分が闇に包まれ景色を曇らせている。そのあまりの差に、僕は少しだけ恐怖心を抱いた。
「そうか? こんなもんだろ、道なんて」
目を細める僕をよそに、緑也はずんずんと突き進んでいく。臆しているとは思われたくない。僕は慌てて彼の横へ戻った。
「穿、お前明日暇だろ? 町を案内してやろっか?」
次の日は土曜日。転校予定の学校のスケジュールでは休日に当たる日だ。断る理由もないし、近所の道なりを知るいい機会でもある。僕は快く頷いた。
「ありがとう。だけど、緑也はいいの?」
「どうせ暇だからな。ここら辺何もないし、ちょうどいい退屈しのぎだよ。お前も行こうぜ、瑞樹」
「うーん、別にいいよ。買い物に行こうと思ってたし。何時に集合にする?」
「穿は色々と片付けもあるだろうから、十一時でどうだ? とりあえずその時間に俺の家の前に集合ってことで」
「わかった。寝坊しないでね」
きつめに言葉を返す瑞樹さん。遅刻の常習者なのか、緑也はバツが悪そうに頬を掻いた。
「ってことで、お前もちゃんと起きろよ。そして俺を起こしてくれよ」
「君が起きていないことは確定なのか」
「し、仕方ないだろ。昔かっら朝に弱いんだよ、俺は」
若干恥ずかしそうに頬を赤らめる緑也。その姿を見て、僕は少しだけ口元を緩めた。
最初は不安だったものの、どうやら何とか上手くやっていくことができそうだ。父との二人暮らしや、母の病状のことが気がかりではあるが、そっちはなるようになるしかない。彼らと知り合ったことで、僕は少しだけ気持ちが楽になった気がした。
もう間もなく川沿いから離れ、海岸沿いに出るといったところで、不意に瑞樹さんが足を止めた。先ほどまでスキップでもしそうな勢いだったのに、ぴったりと靴の裏を地面に押し付けている。すかさず緑也が彼女に問いかけた。
「どうした、瑞樹?」
「ねえ、あの人何やってるのかな……」
緑也の顔を見もしないで、まっすぐに一点を見つめている。僕はすぐに彼女と同じ方向を向き、その場所を探してみた。
最初はよくわからなかったものの、じっと目を凝らしているとある男の姿が目に入った。十字路の中心で、ふらふらと腹部を抱えながら歩いている。
「酔っ払い?」
僕はそう思ったけれど、どこと無く嫌な予感がしていた。何か不吉な気配が周囲に漂っている。何となく、頭の中にあのポスターの絵が浮かんだ。
“触れない男”。
見ると誰かが必ず姿を消す、怪しい都市伝説……――
「い、行こうぜ」
暗闇の中蠢く姿はまるで妖怪のようだ。緑也のその言葉に、僕も瑞樹さんも素直に従った。反転し、大人たちと合流しようとする。道路の先十数メートル先の場所から、御奈の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。まだ相も変わらずのテンションで話題に花を咲かせているらしい。
一旦彼女たちのところへ戻り、別の道から帰ればいい。僕がそう思ったところで――
「なあ、お前……俺のこと見たろ。見たよな」
突如、肩をわし掴みにされた。
「ひっ!?」
心臓が跳ね上がる。僕は思わず悲鳴を上げ、男の手を振り払った。
「な、何だよお前……!」
顔を引きつらせ、緑也が身構える。男は構わずにのろのろとこちらを見上げた。
「な、なあ。お前ら……」
虚ろな眼差しで再び手を伸ばす。僕は冷や汗を流し男から離れようとしたが、
「――助けてくれ」
そう男が懇願するのを聞き、動きを止めた。
「え?」
間抜けな声を僕が漏らしたその瞬間、いきなり――男の体が燃え上がった。
先ほどまで味わっていた新鮮な肉の焼ける匂い。それが、目の前で広がり鼻腔を直撃する。
「な、何だ……!?」
激しい熱と空気の振動。それは紛れも無く本物の炎だった。男は絶叫を上げ一歩こちらへ近づく。
燃える肉。流れては蒸発する涙。まるで先ほど目の前で死んだ蟲のような、そんな姿。
焼死。熱死。窒息死。ショック死。
あのときの、僕とカナラを襲った男の死に顔が蘇る。
――助けてくれ。
男の口が再びそう動いたような気がした。
「ちょっつ、何やってんの!?」
瑞樹さんに押し飛ばされ、僕は地面に強く体を打ちつけた。視界の端に、前に出したまま固まっている僕の腕が見える。知らないうちに伸ばしていたらしかった。
最後にもう一度強く火が燃え上がった途端、男はその場に倒れこんだ。ちょうど僕が先ほどまで立っていた位置に、うつ伏せの状態で転がる。
これは一体……何なんだ? 何が起こった?
猛烈な恐怖と驚きの中で、激しい疑問が巻き起こる。僕は体を起こそうとしたけど、瑞樹さんが上に乗っていることに気が付き、断念した。彼女も理解が追いつかないらしい。呆然と炭になっていく男の死体を見つめている。
既に男の全身は黒く染まり、不快きわまる臭いがあたりを満たしていた。とてつもない火力だった。とてもこんな短時間で生まれたとは思えないほどの炎だった。
事態を察知し、駆けつけてくる大人たち。彼らの金切り声を背景に、僕の前で先ほど「助けて」と発した男の唇が、ゆっくりと恨めしそうに崩れ落ちた。