名前_naming
「ぼく」は、世界が嫌いだ。
この、狭いせまい世界も、広い場所で伸びが出来るような奴らがみな不幸そうな目をして生きている、広い世界も。
勿論ぼくがもしそこで息を吸えているなら、そんな考えは持たず、彼らと同じように、しんだ目でのんびりと過ごすことになるのだろうが。
……ああ、しんだ目なんて今、現在進行系でしているのだから関係なかった。
むしろこんな歪んだ思いなど捨て、いっそ、壊れてしまう方が楽なのだろう。
この平和ボケした国では特に、だ。基本的に80いくらまで生き、傷ついたことも全て思い出となるのなら、或いは幸せだっただろうか。
笑い、泣き、怒り、苦しむ。そのどれも、ぼくは体験したことがない。
まあ あるのだが、それらの感情が起こった時、気づくのだ。正確には、気づいてしまうのだ。
「この感情」が、自分のものではないことを。
他の誰かが、全く同じ感情を持っている。全く同じことを考え、全く同じ趣味をし、全く同じの容姿で――
虫酸が走る。虫酸が走る。虫酸が走る。
今、ぼくはこの思考をどうにかしたいと考えた。
今、ぼくはお腹が空いたから何か小腹に入れたいと考えた。
……それは、ぼくが考えたことか?
ぼくが考えたことだと思っても、本当はコピー元の人が考えたことで。
きっとこれを考えて、1日を終える。
どれだけ考えても勉強しても、コピー元以上の学力など、持てやしないのだから、無駄なのは解っている。
暗くジメジメした、日常。それは、周りの環境は勿論、自分自身すら、真っ暗で何も見えない。
光を、自分で探すしかないのだ。
そうすれば、もっと自由になれる筈なんだ、と頭に染み渡らせるように、ゆっくりと。
気がつけば、一瞬だけ―――一筋の光は、真っ直ぐにぼくの方へ向かって来たのだった。
少女は、ぼくを恐れた。
暗闇だったからかも知れない。そうじゃないかもしれない。ぼくより大分とお姉さん、恐らくは13歳くらいだろう。灰色、鈍い色合いなのにも関わらず、とても美しい、今まで見たことのないような光だった。
いや、むしろ彼女自身が発光しているようにも見えた。勿論その筈はないのだが。雨宿りに来たのだろう、反射した雨水が輝いているのかもしれない。
少女は、ぼくに怯えた。
この包帯がいけなかったのか? それとも、真っ赤な、血の色―――首輪を見たからか? いや、しんだ目のせいかも知れない。
綺麗だ、とぼくは思った。サディストの気はないのだが、怯えた姿すらそう見えた。贔屓目でもなんでもない。その汚れなき姿は、きっと外の世界の人なら誰でも、持っているものなのだろう。
少女は、何かに躓き転んだ。
少女にとっては「何か」だが、ぼくには解る。それは、薬品の瓶だ。緑色の液体が外の光に反射して、ゆらゆらと揺れている。そして、それは彼女が膝を擦りむくと同時に、キン、と高い音を立て破損した。薬品はコポコポ、と不気味な音をたて、その半分以上ほどを床に零し出す。
ギイ……と、彼女が持っていたドアが手から離れた。
少女―――否、年上だろうからもう、お姉さんでいい。お姉さんは、ぼくと瓶以外に何も目に入っていないようだったが、それが割れる音よりも、鍵が閉まるガチャン!という音に驚き、怯えた。
ガチャガチャ
お姉さんは必死にドアを開けようと、押しては引き、また押して……しまいにはタックルをし、声にならない声を絞り出す。
ぼくは彼女があまりに惨めで、可哀想だったから、暫く呼吸以外に使わなかった口を開いた。
「無駄だよ」
出来るだけ無表情になって言ったつもりだった。だが、自然と口が三日月型になる。きっとコピー元もそんな性格をしているのだろう。
とはいうが、ぼくはコピー元に会ったことはないし、姿かたちすら存じていない。自分の顔にそっくりなのだから整形しない限り、姿を見れば解るだろう。だが、実は生まれてこの方、ぼくは鏡を見たことがない。それに、はっきりと自分の顔を認識出来るほど、澄んだ水を飲んだこともない。さらに言うと、包帯を頭から顔の上部にかけて巻いているので、見たとしてもいまいちピンと来ないだろう。
お姉さんはこちらを振り向いた後、視力が悪いのだろうか、薄く目を開いた。
そんな彼女に、追い討ちを掛けるように続ける。
「きみは、帰れない。二度と」
そう、二度とね……。もう一度呟いた時、お姉さんは息を飲み、いよいよ涙を流してしまった。
そう恐れることはないさ。ここには仲間がたくさんいる。君みたいな年代の子も、いくらか。楽しいよ。ぼくらのこの世界は……なんて、本当は抜け出したいのに、正反対のことを言ってしまった。
お姉さんはぼくをありったけの力で睨んだ。自分の全てを眼力に集中させたようだった。
そりゃあ、そうだよね。彼女にとっては、ぼくは貴女を閉じ込めた者。敵。エネミー。でも、ほんとうのことを言ったまでじゃないか。ぼくは、嘘をつかない。つくほどの人もいない。つくのは、自分にだけだ。
立ち上がり、お姉さんは肩から下げている黒い何かを取った。手探りでチャックを外す音がする。急いでいるようだった。
やがて、お姉さんは汗を流しながら(雨水や涙と一緒になっているが)、棒の先に楕円形の何かが繋がっている―――それを取り出す。
バドミントンのラケットだ。
唾を飲み込む音がし、一気にぼくに走り詰めると、小振りのラケットを両手で振り上げた。
ジリリリリ!
サイレンのけたたましい音は私の耳に、一直線に鳴り響く。
驚いて少年から飛び退き、何かから逃れるようにラケットを構えながら隠れる場所を探す。
ビチャビチャ、と体の部位や制服から、色々な液体の水溜まりが出来、撥ねる。
判断力が鈍くなっていた。
コツコツ、と人の足音がする。心臓の音が同調する。
逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ!!
その時、私は腕を掴まれた。
サッと青ざめ、悲鳴をあげようとする私の口を片手で彼は塞ぐ。
小さな手だった。
私はパニックを起こし、思考回路が停止しかけ、逆に動けなくなっていることに気づいた。
彼は私を棚のそばにある毛布へと誘導する。
「静かにして」
それは、さっきの少年の声だった。
それは、さっきの少年が私を、匿ってくれたということに等しかっのだ。
暫くムゴムゴ、と何か言おうとしたが、足音が近づいてくることに気づき、毛布をかぶりじっとしておくことにした。
足音は、人間ではなかった。人間にしては、規則正しすぎる。
ロボット。
脳内に、子供の時にちらりと見た、戦闘の際使用する、それがよぎった。
息を殺しながら、私は目をつむる。お願い、何も起こらないで。何事も無いかのように、早く去って。
ロボットは恐らく、私の真ん前まで来ている。が、素通りすると、少年に液体の入ったコップ―――氷のカランコロンという音から、飲み物用だろう―――と、ある程度の重量はある皿をテーブルにコトリ、と置く。
「どうも」
少年の無機質な声が、何故か耳に残る。
ロボットの足音が遠くなり、完全に消えた後も、私は毛布にじっとくるまっていた。
ラケットは強く握りすぎて、手汗、または雨水でじんわりと濡れている。
「オッケー。もう出て来ていいよ」
既に、暗さには目が慣れていた。少年は毛布を勝手に取ると、至近距離で私の目を見る。
近くだから解った事だが、ほんの少し充血しているようだった。目の色は包帯からわずかに覗く髪と同じ、ライトブラウン。しかし、明るい茶色というその色名も、その下にある隈のせいであまりその目にふさわしくなかった。
私も、水泳を習っていたのか、塩素のせいで色素が薄いが、彼はあまり水泳をやるようには見えない。
私がじっと見つめ返しているのに驚いたのか、少年は少し頬を染めて、別方向を睨む。
「・・・貴方は、誰?」
私は、ずっと気になっていたことを、なるだけ相手に不快感を与えないような当り障りのない言い方で訪ねた。
見た目で人を判断するとろくな目に合わないことを、何処かで経験していたのからだろう。
少年は、一瞬目を見開き、何かを考え込むように顎に手を添えながら、うーんと唸る。
しばらく待っていたが、あまりに遅いので気になって、もう一度同じ質問をした。
雨に濡れた筈の制服も、いつの間にか蒸発している。一刻も早くここから出なくてはいけないのだ。出られない、さっき少年はそう言ったが私には関係ない。脱出するのみだ。
彼が悩んでいる間、私はさっきは暗闇で見えなかった部屋を見渡した。
大理石で出来た床、幾らか並んで棚に収納されている薬品の瓶。近くにベッドがあり、先ほどの毛布はそこから取り出した物だろう。おそらく大理石で出来たテーブルは、暗闇の中でも壊したらウン十万という損害を受けることが予測できた。
意外に広い部屋をそこまで見たとき、少年はやっと答えた。
「人間だよ」
「知ってるよ?」
だが想像と少しずれた回答だった。もし人間じゃなかったら、私は今すぐラケットで撲殺しているところだ。
「解った、言い方を変える。貴女の名前は?」
真剣な瞳の私に、彼は困ったように、かつ悲しそうに、呟いた。
「……じゃあ、お姉さんが決めてよ」
少年はにっこりと笑うが、その表情に僅かに陰があるのを見て、言えないか、もしくは「無い」か―――そのどちらかだと理解した。
無い、なんてことはまずないとは思うが、呼び名が無いということは不便だ。少しだけ考える素振りをすると、やがてぱっと閃いた。
「私がユウラだから、ユウトで!」
「安直過ぎでしょ」
渾身のネーミングセンスは、少年のジトリとした目によって評価された。折角考えてあげたのに。
睨むでもない、しかし冷たい目は、嫌だということを率直に私に告げている。
「じゃあユウリで」
「女っぽい」
「それ全国のユウリって名前の人に謝った方がいいよ? うー、そうだなあ、ユウジとか」
「えー。ていうか、絶対『ユウ』は外す気無いんだね」
提案する度、少年の顔は苦くなっていく。何かにつけて文句を言い過ぎだ。だが、確かに自分の名前なのだから、じっくり考えたいというのは解る。ペンネームならまだしも、本名を自分で考えるのは小恥ずかしいだろう。
私は珍しく考え込む。
しばらく何も言わない私に何処か諦めたように、少年は はあ、とため息を吐いた。
「もういいよ、『ユウト』で」
「えっ、本当に? あー、さては実は気に入ってたなー?」
「はぁ!? ちが、そんなんじゃないし!」
ムッとしたように少しばかり赤面するユウトをここぞとばかりに弄ろうとしたが、長引くので止めておいた。
さっき殺意を覚えた相手にこんな言い合いをするなんて、変な話だ。取り敢えずユウトは決定、ということで話をすすめる。
「ねぇ、お姉さんは何か、死ぬか生きるか解らないのに脱出してまで、外でしたいことってあるの?」
無機質な声、無表情でかつ、無愛想に、淡々と彼は聞いた。
死ぬか生きるか解らない――舐めていたわけではないが、実はそこまで危険とは彼の今の発言を聞くまで知らなかった。
今のロボットに見つかっていたら、本当は殺されていたのだろうか? それとも、この少年のように……
それ以降を考えるのをやめた。怖い。前向きに考えないと、頭がどうかなりそう。
空気が薄く、外の雨のせいかジメジメしている。花誘う季節も もうすぐ終わり、梅雨の季節にはもっと酷いだろう。私はこの空気が嫌だ。雨でも、外へ飛び出したくなる。ゲームでもお喋りでも、したくなる。教室で、嫌だなあ雨って、蒸し暑いし、なんて、駄弁っていたい。ただ、それだけなんだと思う。孤独じゃなくて、でも自分は一人で、誰かと笑いあって、泣いて怒って、その「誰か」が特定の一人ではない。生きてるって、多分そういうこと。どの季節も、梅雨みたいにジメジメして、暗い部屋で、一人じゃないのに独りで、じっと膝抱えて暇を潰すのでは、死んだ方がましだ。私は、生きたまま死にたくない。だから、ここから脱出したいんだ。
ただそれを、この少年に言うのは気が引けた。だってユウトは、その意味を知らない。楽しいことの感覚が、きっと人とずれているからだ。
私は、ずっと折り畳んでいた足を伸ばした。びりびり、という気持ちの良い感覚が、膝を突き抜ける。
「私は、ユウトとここを出たい」
出て、普通に暮らそう? そう続けると、彼は目を丸くした。
恐らく、私が希望を持っていることに驚いているのだろう。確かに、一生出られないかもしれない。でも、やってみる価値はある。だってここは、ただの壁。何でもない、建物の壁じゃないか。
力ずくでも何かを使えば、壊れるかもしれない。
「でも、僕はここ以外に居場所がない。行く宛てがないじゃないか」
「なら、私んちに来ればいいんじゃない? 大丈夫、お母さん優しいよ」
「……よくそんなこと言えるね」
微笑んだつもりだったが、ユウトは俯いて涙を滲ませている。
それにはなるべく触れないようにした。
「それには、ここに灯りをつけないとね。目が慣れてきたとはいえ、もう遅いし。ランプとかないの?」
「今君が踏んでる物」
――え?
気づいた時にはもう、遅かった。暗闇を全く照らしていなかったランプは、パリんと意外と小さな音をたて、再起不能なまでの状態で破損した。
そのそばには、勿論自分の足……。
後悔先に立たず。青ざめた顔の先に、ユウトのやれやれと言った生意気な表情があった。
「……先が思いやられるや」