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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

廃墟の少女

作者: すもももももんが

 蝉の声が聞こえる。

 二階へと続く、階段の踊り場の窓のあちら、窓際まで迫る生い茂った木々を、私は振り返り見上げた。窓には、かつて、花をデザインした色鮮やかなステンドグラスが嵌められてあったが、今は打ち割られ、踊り場に青や黄の、キラキラと輝くガラスの破片が散らばるばかりだ。

 私は向き直ると、腰かけた階段の踏み板の亀裂にそっと指を這わせた。階段に敷かれた赤絨毯も、今は黒ずみ、剥がれ、薄っすらと積もる埃に幾つもの足跡がついている。

 ここには誰もいない。

 私は、私が誰か知らない。

 名前も分からない。

 いつの頃からか、気づいたらここにいた。

 かつて、ここは、『青藍の館』と呼ばれた。白壁と青タイルで飾られた美しい洋館であった。ドイツから渡来した、青い目をした貿易商が夏冬を過ごす別荘として、山合いのこの地に建てたものだ。よく晴れた日には三階のバルコニーに上がると、遠く、海を望むこともできる。

 私が覚えているのは、白い髪を短く刈り上げた、がっしりとした体つきをした、背広姿の初老の外国人と、三十路だろうか、小柄な和服姿の女性が、一階の居間で何か立ち話をしている光景だ。私は、その時、居間に置かれた、背の低いキャビネットに飾られた写真立てを見ていた。

 誰も私に気づかない。

 私は鏡にも映らない。

 だから、私は、私が誰か知らない。

 写真立ての写真には、青い目をした背広姿の外国人と、小柄な和服姿の女性の他に、小さな一人の少女が写っていた。

 恐らく、十才は過ぎないであろう。クルクルと巻いた金髪が肩まで伸びている。ふっくらな頬と、小さな口を綻ばせながら、つぶらな黒い瞳をこちらに向けている。金髪黒瞳のビスクドールといった風情だろうか。

 三人は仲睦まじそうだ。

 少女が白いドレスに身を包み、麦わら帽子を抱え、目を細めてほほ笑む写真も飾られてあった。

 少女は、『咲』と呼ばれていた。洋館には、咲の姿は見当たらない。

 それでは、私が咲なのだろうか?

 そうだったら、いいなあ。

 だから、私は私のことを、咲と呼んでいる。



   1



 玄関の、重い両開きの扉がかすかに開いている。

 白い壁土が剥がれ落ちた隙間から、光が差し込む。

 館内は明るい。

 雨水が染み込み、降り注ぐ、壁や床は青く苔むしている。五本の腕木を備えた玄関口のシャンデリアは取り外され、留め具だけが残り、今は蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされている。扉のあちら側、門まで続く小さな庭園は、眩しい陽光の下、きっと草花が繁茂していることだろう。

 私は階段の踏み板に腰かけ、頬杖をついたまま、昔を思い返した。

 青い目をした背広姿の外国人と、小柄な和服姿の女性が館を去って間もなく、ある日、逞しい男の人たちが、大勢、館にやって来た。

 男の人たちは館の家具を梱包すると、次々と外へ運び出していく。

 引っ越しだろうか?

 一階の食堂のテーブルや食器棚、居間のソファ、二階の寝室のベッドも運び出された。

 キャビネットに置かれた写真立ても、他の置時計やアルバムと共に、木箱に詰められた。

「持っていかないで」

 作業をしていた男の人のシャツを引っ張り、そう言った。引っ張っても、手がすり抜けるだけだけど。

 写真は、私が私を知る、唯一の手がかりだから。

 まだ若い、二十才前後の男の人だった。真っ青な顔で私の方を振り向くと、大声で悲鳴を上げた。

「アッ、ヒャアアアーー」

 聞こえるはずがなかった。今まで、何度も試したから。

 茫然としていると、悲鳴を聞きつけた他の男の人たちも集まり、すぐに大騒ぎとなった。

 どうやら、ハッキリとは聞こえていないようだ。姿も見えてはいない。気配を感じているだけ。

 間もなく、責任者もやって来た。

 お腹が出張った、頭の薄い、丸々とした紳士服のおじさんだ。話を聞くと、おじさんも試しに写真立てを持っていこうとする。だから、同じように上着の裾を引っ張り、言う。引っ張っても、やっぱり、すり抜けるだけだけど。

「持っていかないで」

 おじさんはビクンと体を震わすと、俄かには信じられないという顔をした。

 おじさんは、『加藤』と名乗ると、キャビネットを向いたまま、事情を説明し始めた。

 つまり、この館を所有していた外国人の貿易商は本国ドイツへ帰ってしまったらしい。今は、加藤さんが館を管理しているそうだ。貿易商は、当分、ここには戻らないから、加藤さんも家具や調度品を処分するつもりらしい。ただ、私が望むのであれば、そのまま置いておくそうだ。

 私は、写真立ての写真さえあればいいから、黙っておいた。

 結局、すでに運び出したものは処分し、他は残しておくこととなった。

 一階や二階は、備えつけの家具を除き、あらかた運び出された。三階の書斎や子ども部屋は、今も昔のままだ。

 加藤さんは、館で事件や事故が起こる度に、度々、顔を出すこととなる。



   ◆



 玄関の扉がかすかに開いている。

 外の取っ手には鎖を巻きつけ、南京錠をかけているのだが、見知らぬ浮浪者がいつも鍵を開けてしまうのだ。

 浮浪者の風貌はどれもよく似ている。所々破れた、薄汚れた帽子を目深く被り、その隙間から、皺だらけの赤茶けた肌と、縮れた、白髪交じりの黒髪を覗かせ、襤褸を引き摺る。

 館に上がると、覚束ない足取りで、ニヤニヤと笑いながら部屋を見て回る。大抵、二階、日当たりがよく、見晴らしのいい、家具が運び出された後の、ガランとした客室に入ると、座り込み、持参した、使い古したビニール袋から、酒を取り出す。飲むと、夏場でもシャツ一枚のまま、床に寝そべる。辺りを虫が飛び回っても、気にもしない。

 そういう時、私も寝そべり、じっと浮浪者の顔を見つめる。

 方々に伸びた白髪交じりの眉や鼻毛を、呼吸にあわせてゆっくりと動かし、時折、薄く開いた瞼から、白く濁った瞳をチラチラと覗かせ、静かに眠る。

 彼らも、また、私に気づかない。

 ここは、街からは少し離れたところにあるから、浮浪者たちが長居することはない。持参した酒や食料が尽きると、またどこかへ去ってしまう。



   ◆



 野良犬が住みつくこともあった。犬は私に懐いてくれる。白い毛に黒いブチがついた雄犬と、冬を過ごしたこともあった。春になり、寒さも和らぐと、雌を探しにどこかへ行ってしまったけれど。



   ◆



 鍵が開くと、知らない人がやってくる。

 私は、他にすることがないから、誰かが来るのを階段に腰かけ、待っている。

 春先、ようやく雪が溶けた頃の昼下がり、大学生ぐらいの男の子が三人、女の子が二人、一緒に来たことがあった。

 スラリとした長身の男の子一人が女の子二人と仲良くしていて、他の男の子二人はオマケでついてきた感じだ。

 スラリとした長身の男の子は、佐々木くん。女の子二人がそう呼んでいた。他の男の子二人は佐々木くんを、『リョウ』と呼んでいた。

 女の子は、髪が短めで黒く、目が細い、小柄な子が西岡さん。セミロングの髪を茶色く染めた、目が大きな、細身の子が田中さん。佐々木くんは西岡さんを、『メグちゃん』、田中さんを、『リカちゃん』と呼んでいた。オマケでついてきた他の男の子二人は、西岡さんも田中さんも、苗字で呼んでいた。

 他の男の子二人は、どちらもモッサとしていた。

 廃墟はよく来るとはしゃいでいた、頑丈な登山靴を履いた男の子が、西田くん。みんながジャンパーやジャケットを着込むなかで、一人だけ、チェックのシャツを重ね着しただけの服装だったのが、後藤くん。二人ともメガネだった。佐々木くんは西田くんを、『ユウスケ』、後藤くんを、『ヨウヘイ』と呼んでいた。女の子二人は、西田くんも後藤くんも、苗字で呼んでいた。

 西田くん以外は、みんな、スニーカーを履いていた。汚れてもいい服装ということで、ジーンズを穿き、手には軍手をしている。そんな服装でも、西岡さんや田中さんは、佐々木くんの前では可愛らしかった。

 一行は一階をみんなで見て回ると、二階で二手に分かれた。スラリとした長身の佐々木くんと女の子二人、西岡さんと田中さんは先に三階まで上がっていった。オマケでついてきた男の子二人、西田くんと後藤くんは二階の部屋から見にいった。

 私は女の子についていった。

 三階、階段を上がった向かいの書斎に入る。

 書斎には、入り口から見た右の壁の中央に暖炉がある。暖炉を中心に、部屋の奥には机とソファーが置いてある。本棚は入り口を入った左の壁に三架、備えつけてある。雨戸は大半が外れ落ち、窓硝子も割れたため、風通しはよいが、埃っぽい。窓際には窓硝子の破片が散らばっている。

 西岡さんと田中さんは、蜘蛛の巣が張った、埃まみれの本棚から本を取り出すと、ワー、キャーと騒ぎながら、ページをめくる。

 私もそれを一緒に見る。

 長い間、することがなかったから、本棚の本はどれも読んだ。本に触れることはできなくても、本の気持ちは読むことができる。でも、書いてあることはあまりよく分からなかったけれど。

 佐々木くんは部屋の奥にある机の引き出しから万年筆を取り出すと、手に取って眺めていた。

 その時――

 ドゴッ!

「ギャアアアーー」

 階下から大きな悲鳴が聞こえた。

 西田くんの声だ。

 佐々木くんはユウスケと叫ぶと、すぐに部屋を飛び出していった。西岡さんと田中さんも佐々木くんの後を追った。田中さんは、一階では、西田くんと目も合わさなかったのに、この時だけは本気で心配していた。

 二階に下りると、裏山に面した寝室の床に穴が開いていた。穴の縁では後藤くんが青ざめた顔でへたり込んでいた。西田くんは穴の中で茫然と突っ立っていた。西田くんより、後藤くんの方が動揺しているように見えた。

 二階の寝室には、木製のベッドフレームと絨毯しか残されていない。どうやら、絨毯を敷いた床板が腐っていたらしい。西田くんは気づかずに床板を踏み抜いてしまい、一階、食堂の天井裏まで落ちてしまったらしい。幸い、怪我はないようだ。

 頑丈な登山靴を履いていて、よかったね、西田くん。

 西田くんを助け出した後は、みんなで一緒に館を見て回った。その後は何ごともなく、また、一階の居間に戻ってきた。キャビネットに置かれた、埃まみれの写真立てには、咲が変わらず、愛らしくほほ笑んでいる。

 後藤くんは写真立てを指で弾くと、ふざけた調子で言った。

「記念に、何か持って帰る?」

 私は佐々木くんが着ていたジャケットの裾をつかむと、首を振った。つかんでも、やっぱり、すり抜けるだけだけど。

「ううん、ダメ。持って行かないで」

 そう言うと、急にシンと静まり、みんな、ゆっくりとこちらを振り返ると、絶叫を上げて、一人残らず逃げてしまった。



   ◆



 秋の夕暮れ、木枯らしが吹く頃、高校生だろうか、男の子が一人、来たことがあった。

 恐らく、近くに住んでいるのだろう。

 遊んだ帰りにふと思いつき、立ち寄った雰囲気だ。

 短く刈った髪の下、褐色に焼けた肌に、まだ幼さが残る目がキラキラしていた。カーキ色をしたトレーナーに、ジーンズ、スニーカーという服装だった。

 私はいつものように、一緒に後についていった。

 一階、二階と見て回って、三階、廊下の突き当たりにある、裏山に面した子ども部屋に入った時だ。

 ドタン!

 部屋に入るなり大きな音がして、ドアが開かなくなった。押しても引いても、ウンともスンともいわない。知らない内に鍵が壊れていたのだろう。閉じ込められてしまった。

 荷物は門に留めた自転車のカゴに置いてきたから、手ぶらだ。

「ア、アアアーー」

 男の子はすぐに事態を悟った。大声で叫び、狂ったように体当たりするが、ドアはビクともしない。目を剥き、口をパクパクさせ、繰り返しコブシで叩く。

 その内、ひゃっくりのような、浅く速い呼吸をし始めると、そのまま痙攣し、倒れてしまった。

 日が暮れて、すっかり辺りが暗くなった頃、目が覚めた。外では、秋の虫がチリチリと静かに鳴いている。

 男の子は膝を抱えて床にうずくまると、暗闇の中で小さく震えて泣いた。

 私は何もできないけれど、一晩中、寄り添うようにずっとそばに居た。

 夜が明け、窓の外が白み始めると、部屋の中も明るくなった。

 子ども部屋は、窓際に机とベッド、ドアの近くに箪笥が置いてある。色褪せ、埃まみれとなり、蜘蛛の巣が張っているが、置いてあるものは昔と変わらない。

 男の子は窓を押し開けると、体を乗り出し、壁に這う蔦蔓につかまった。

 ガリッ、ガリガリッ、ダタン。

 驚いて窓から見下ろすと、男の子は、そのまま落下するように、壁を滑り落ちていった。

 落ちた後はしばらく動かなかったが、やがて、草むらの中から小さく足を引き摺り、門まで歩く男の子の姿が見えた。

 そして、門の外に止めた自転車に乗ると、二度と戻って来ることはなかった。



   2



 自殺をしに来る人もいる。

 彼らは見たらすぐに分かる。春から夏にかけて、ポツポツと来る。

 以前に来たのは女の人だった。

 骨の浮き出た、青白い手が玄関の扉を開けた。

 黒いドレスに黒のカーディガンを羽織り、艶がない、痛んだ黒髪を胸元まで真っ直ぐに流していた。所々、白髪も交じる。キューティクルが足りない。

 終始、うつむいていたため、顔は髪に隠れてよく見えなかったが、力ない目と薄い唇が印象的な人だった。恐らく、二十代後半だろうか。痩せ細った体と拙い化粧のせいで、酷く老けて見えた。

 小豆色のバッグを抱え、赤みがかった暗い色をした靴をコツコツと鳴らし、館に上がる。

 玄関ホールで、しばらく階上を見つめていた。恐らく、階段を上るかどうかで迷っていたのだろう。

 頬がこけた、表情が無い顔だった。いかにも、魔女といった風情だ。

 魔女はやがて左に向き直ると、居間へ入っていった。

 私も後へついていった。

 自殺をする人はいつも同じ場所で首を吊る。

 居間には、玄関ホールから入って左の壁に、装飾が施された真鍮製のフックが三つ並んでいる。

 みんな、そこで死ぬ。

 破れた窓から、爽やかな日射しが差し込む居間を、魔女はゆっくりと見て回った。

 中央の床にバッグを下ろし、中から白く太い紐と、鋏を取り出す。紐の封を鋏で切る。

 フックに蜘蛛の巣が張ってあることに気づき、また、バッグからティッシュペーパーを取り出す。

 ティッシュペーパーで蜘蛛の巣を拭き取り、壁を拭う姿に強固な意志を感じた。

 紐を鋏で切り、輪っかを作り、フックにかける。

 少しほほ笑んでいるように見えた。

 輪っかに首をかけ、壁にもたれる。

 どこか、具合が悪かったのだろうか?

 首から紐を外すと、紐の長さを調整し、首をかけ直す。今度は上手くいったようだ。

 魔女はゆっくりと目を閉じた。足を床につけたまま、お尻を壁から離し、紐に体重を預ける。

 しばらく、そのままの格好でぐったりしていた。

 間もなく、苦しいのだろうか、眉間に皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべ出した。手が引きつったように空を掻く。足も引きつり縮こまる。まるで、首根っこを掴まれた猫のようだ。

 やがて、縮こまった足は、またゆっくりと伸びていった。手も、しばらくは宙を泳いでいたが、その内、力を失い、お化けのようにダラリと垂れ下がった。

 力の抜けた体が首から吊るされた姿で、だらしなく伸びる。

 そして、失禁。

 折角の黒いドレスが台なしだ。

 心臓の鼓動も、段々弱くなり、終には聞こえなくなった。

 魔女は安らかに逝けたのだろうか?

 死体を見つけるのは、いつも、次に館に来た人だ。

 彼女の死体はそれほど日が経たない内に見つかった。

 見つけたのは、カメラを片手にした、二十代後半の男の人だった。

 その頃になると、青白く痩せ細った彼女の体も赤黒く膨れ上がっていた。

 顔は、半開きに開いた口に、目が今にも飛び出さんばかりに大きく見開かれていた。体中を小さな虫が這い回り、腐敗体液や汚物がドレスや床にいやらしい染みを作っていた。

 通報を受け、駆けつけた警察官も、彼女の首が膨れ上がり、紐が深く食い込んでいたため、紐を外すのに難儀していた。

 館の管理者ということで、連絡を受けた加藤さんのお孫さんもやって来た。加藤さんによく似た、頭の禿げた、でっぷりと太ったおじさんだ。以前はよく、加藤さんが来ていたが、いつの頃からか、代わりにお孫さんが来るようになった。

 加藤さんも亡くなったのだろうか?

 警察官が大勢で、彼女の死体やバッグを運び出す。それとともに、みんな、去ってしまう。

 後に残り、作業をしていた人も、やがていなくなった。

 また、館に静寂が戻る。

 彼女たちは自殺をしても、ここには残らない。

 私は一人だ。



   ◆



 草を踏む足音がして、ゆっくりと玄関の扉が開いた。

 夏の日差しが庭の草木を眩しく輝かせている。

 私は、夢見心地がする追憶から、目が覚めた。

 久しぶりの来訪だ。

 玄関ホールに立ったのは、日に焼けない白い肌をした、ほっそりとした体つきの少年だった。

 切れ長の目をした、鼻筋が通った顔だった。少しウェーブがかかる、癖のある髪が耳元まで伸びている。白い短袖のシャツに黒のジーンズ、スニーカーという格好で、灰色のリュックサックを一つ背負っていた。

 中学生だろうか?

 思い詰めた、光のない目をしていた。

 恐らく、この子も自殺をしに来たのだろう。

 少年は、しばらく玄関ホールで階上を眺めていたが、やがて左へ向き直ると、居間へ入っていった。

 居間へ入って左、真鍮製のフックが三つ並んだ壁や床には、黒い大きな染みがいくつもついている。

 それらをいぶかしげな顔で見つめると、少年は天井へ少し目をやった。天井の中央には、蜘蛛の巣がかかったシャンデリアの腕木が六本、残されている。それに目をやると、そのまま、奥のドアから食堂へ入っていってしまった。

 居間と食堂は壊れた半開きのドアで隔てられている。

 食堂に転がっていた木椅子を担ぐと、少年はまた居間へ戻ってきた。恐らく、ドアの隙間から、木椅子が見えたのだろう。

 居間の中央に木椅子を置く。

 シャンデリアの腕木で、首を吊るつもりなのだろうか? これまで、腕木で首を吊ろうとした人はいなかった。

 リュックサックを降ろし、細い白のロープを取り出すと、少年は腕木の一つにロープを掛けた。

 私はいつものように、しゃがんで事の成り行きを見守る。

 不安定な木椅子の上で、少年はロープを首に結わえた。

 勢いよく、木椅子を蹴飛ばす。

「グエッ!」

 ガチョウを絞めたような声を上げると、首に結わえたロープを掻き毟り、バタバタと足を躍らせ、少年は必死にもがき出した。もがく度に、宙ぶらりんの体がクルクルと回る。

 喘ぐように、ヒュッヒュッと喉を鳴らし、何とか息を吸おうとする。

 見苦しい。こんな無様な首吊りは初めてだ。

 ロープは固く結ばれているため、ほどける様子はなかったが、間もなく、ロープを掛けた腕木がギッギッと軋み出した。

 腕木がポキリと折れる。

 ドタンッ!

 少年は尻から落ちた。

 ケホケホと咳き込み、這いつくばりながら、首のロープを外す。折れた腕木が床に転がる。

 やはり、劣化した腕木では首を吊るのに無理があったのだ。

 尻をさすり、喉を押さえてうずくまる、少年の顔を覗き込んだ。

 少し、生に執着した光が目に宿っていた。

 ふと、少年が顔を上げた。目があった。

「大丈夫?」

 思わず、そう聞いた。

「君、誰?」

 少年は切れ長の目を大きく見開き、目を丸くした。



   3



 少年は語り出した。




  心臓が、心臓が苦しい。

  胸に穴が空いたようだ。

  僕には何もない。

  僕は無意味だ。

  死にたい。



  仲間が欲しかった。

  僕と同じ人が欲しかった。

  僕と同じ考え、感性の人が欲しかった。

  誰もいない。

  居場所がない。

  僕は誰からも必要とされていない。

  みんなが僕を責める。

  みんな、嫌いだ。死ねばいいのに。

  誰もいらない。

  寂しい。消えたい。消えてなくなりたい。



  僕は深い水底にいる。

  太陽が冷たい。

  世界には何もない。

  世界なんて、なくなればいいのに。

  いつも、目覚める度に悲しい。

  何もいいことがなかった。

  何も楽しめなかった。

  過去は苦痛だ。

  生きることが苦しい。

  僕の苦しみは誰にも分からない。伝わらない。

  僕は何者か? 分からない。

  辛い。人生は無意味だ。

  僕の人生は失敗だった。



  醜い。

  みんな、嘘つきだ。卑怯だ。汚らわしい。

  許せない。許したくない。

  僕は醜い。愚かだ。

  僕は人を呪いながら生きていくしかないんだ。

  僕はどうして生きているのだろうか?

  生きていて、ごめんなさい。

  いなくなればいい。

  僕なんて、いなくなればいい。



  自由が欲しかった。

  何ものにも束縛されない、自由が欲しかった。

  愛が欲しい。

  何ものにも代えがたい、愛が欲しい。

  この大空に翼を広げて、飛んでいきたいよう。

  僕は欲しいものが何も手に入らなかった。

  死にたい。

  死が眠りと同じならば、これほど安らげるものはない。

  死が僕を呼んでいる。

  死ぬことだけが僕の自由意志だ。



  疲れた。限界だ。

  心も体も重い。

  僕が間違っていたのだろうか? 分からない。

  生きたかった。もっと生きていたかった。

  ダメなんだ。僕は終わりだ。もう、終わりなんだ。

  僕は僕の存在を消したい。




 そういうことを語った。

 何だか、自分のことばかりだなあと思った。

 聞いていたら、腹が立ってきた。

「ダメだったら、死ぬの?」

「えっ?」

 少年は驚いた顔でこちらを見た。

「前にも後ろにも進めなければ、右か左へ進めばいいでしょ」

「プッ。……アーハッハハハハ」

 何か、おかしかったのだろうか。少年は額に手を当てて、弾けるように笑い出した。

 身を捩じらせ、体を震わせて笑う。

 それは、どこか病的な仕草に見えた。

 一頻り笑うと言った。

「ハハハ。君、おもしろいね。幽霊だよね?」

 幽霊? なるほど。そう言われると、そうかも知れない。

 うんと頷く。

「名前は?」

「咲。あなたの名前は?」

「来栖。……来栖拓哉」

 次の言を待ったが、それきり、来栖は膝を抱えてしゃがみ込むと、俯いたまま黙ってしまった。

 木板が剥き出しとなった床の一点を塞ぎ込んだ目で、じっと見つめる。

 木目に沿って蟻が走り回る。

 手持ち無沙汰だ。来栖に話しかけた。

「首切り土左衛門の話をして、いい?」

「いいけど、首切り土左衛門?」

「首切り土左衛門はね、介錯人なの。白州に連れてこられた罪人が腹を切ると、刀で首を切り落とすの。そうやって、毎日、首を切り落としていたから、土左衛門も、ああ、自分も最期は切腹して、死にたいものだなあと思っていたの。でも、土左衛門は、最期はちゃんと天寿を全うして、自分の屋敷で親しい人に看取られながら、静かに息を引き取ったのよ」

「うん、それで?」

「それだけ」

「?」

 来栖はよく分からないという風に首を傾げた。

 微妙な空気が場に流れる。

 もしかしたら、話が滑ったのかも知れない。

 こんなことなら、無理して話さなければよかったと思った。

 来栖はまた俯くと、フーッと深い溜め息をついた。

「僕は、幸せになれるのだろうか?」

「なれないんじゃないの。幸せになれる人は決まっているのよ。幸せになれる人は考え方や感じ方、生き方が、なれない人とは違うの。幸せになれる人は自殺なんてしない。あなたは、幸せになるのは諦めた方がいいと思うわ」

 私の言葉に、来栖は俯いたまま、少し口元を歪ませて笑った。

「自殺は、悪なのだろうか?」

「分からないわ。死にたければ、死ねばいいんじゃないの。いつ、自分が死ぬのかを自分で決めるのも、悪くはないわね。多くの人が怠惰で退屈な人生を過ごすのも、自分が、いつ死ぬのかが分からないからよ。自殺をすると、遺された人が悲しむから、自殺はするべきではないと言う人もいるけど、ナンセンスよね。自分が死んだ後のことを心配しても、仕方がないでしょ。生きている人の心配は生きている人がすればいいのよ。死んだ後まで生きている人の心配はしなくてもいいの。生きている人のことは、生きている人が何とかすればいいわ。死んだら、すべてを忘れて、楽になるといいわ」

 来栖はまた少し笑った。

 もう少し続けて言う。

「人生で一番、大切なことは最期まで生きることよ。愛や正義ではないわ。あなたは最期まで、一生懸命に生きなくてはならない。もしかしたら、幸せにはなれないかも知れない。でも、足掻いて、足掻いて、幸せになるために、最期まで、一生懸命に生きなくてはならないの。それが生きるということよ。生きることは美しいのよ」

 来栖は黙ったまま聞いている。

「一匹の蟻のように、意味もなく価値もない、ただ生きて死ぬだけの人生かも知れない。あるいは、孤独と絶望のなかで、怨嗟の叫びを上げながら、血反吐を吐き散らし、喉をかき毟ってのたうち回る最期かも知れない。でも、あなたの人生がどれほど報われないものだとしても、この世界は美しいの。人間は美しいのよ」

 来栖は顔を上げると、微笑しながら立ち上がった。

「矛盾していない?」

「そうかな?」

「うん。矛盾しているよ」

 そう言うと、両手を組んで伸びをした。

 グルッと一回りして、私の方を振り返る。口を開いた。

「咲は、ここではなく、僕の家に来ない?」

 一瞬、何を言われたのか、分からなかった。

 きょとんとしたまま、頭を振る。

「ううん、出られないの。館の外には行けない。そういうことになっているの。だから、あなたの家には行けない」

「そっか……」

 来栖は残念そうにうなだれた。

 地縛霊かと、呟く声が聞こえた。

 何となく、失礼なことを言われた気がした。

「あ、そうだ!」

 ふと思い出し、立ち上がる。キャビネットまで行き、写真立てを指さす。

 写真立てのなかでは、咲が、昔と変わらず、白いドレスに身を包み、麦わら帽子を抱え、愛らしくほほ笑んでいる。

 来栖に聞いた。

「これ、私?」

 来栖もきょとんとした顔をした。

「そうじゃないの?」

「そうなの?」

「だって、写真と同じ顔と服装をしている」

 もう一度、写真を見つめ直す。

 ぼんやりとした私の体に、はっきりとした輪郭が与えられた気がした。

 服装が同じだということは気がついていた。

 でも、顔が同じだということは分からなかった。

 もしかしたら、別人だったかも知れない。

「そっか。これが私か……」

 写真を見ながら、えへへと笑う。

「そっか、そっか」

 写真を見ながら笑う私に、来栖が背中から声をかけた。

 来栖の方を振り向く。

「ねえ。それじゃ、僕が大人になったら、この館を買い取るよ」

 来栖は私をじっと見つめて、言った。

 私も来栖を見つめ返す。

 きっと、この子は童貞だろうなあと思った。

「うん。期待しないで、待ってる」

 そう言った。



   4



 蝉の声が聞こえる。

 いつの頃からか、ミンミンゼミに交じり、ツクツクボウシが鳴き始めた。

 私は、いつものように階段に腰かけ、頬杖をつき、誰かが来るのを待っている。

 階段の踏み板に散ばる、ステンドグラスの欠片に手を伸ばした。欠片に触れても、やっぱり、すり抜けるだけだけど。

 チリン、チリン。

 居間の窓辺に飾られた風鈴が風に揺れた。

 風鈴は、来栖があの後、館を回った際に、二階の客室に落ちていたのを吊るしてくれたものだ。

 風のなかにも秋の気配が感じられる。

 夏も、もう終わりだ。

 私は、暑さも寒さも感じないけれど、夏から秋へと移り変わるこの季節が好きだ。

 また、チリチリと風鈴が鳴った。

 来栖が館を訪れてから、二週間が経つ。

 来栖はどうしたのだろうか?

 「友だちができた」とはしゃいでいた、あの様子では、また来るかなと思っていたのだが、来なかった。

 もしかしたら、死んだのかもしれない。

 やはり、たった一日では、彼の絶望は癒されなかったのだろう。

 その時――

 息を切らして、門から続く階段を駆け上がり、雑草を掻き分けて走ってくる足音が聞こえた。

 来栖だ。

 勢いよく玄関の扉が開く。

「咲、咲!」

 呼ばれたので、手を振って応える。

 以前よりは、年相応の目の輝きを取り戻しただろうか?

 来栖は、前に来た時と同じように、灰色のリュックサックを背負い、白い短袖のシャツに黒のジーンズという格好をしていた。

 額を伝う汗を拭いながら、背中のリュックサックを降ろした。

「ごめん。すぐに来るつもりだったんだ――」

 来栖は泣きそうな顔で弁解し始めた。

 来栖が言うには、親の監視が厳しく、一人では外へ出られなかったらしい。

 特に、先日、黙って館へ来て以来、監視がさらに厳しくなったらしい。

 この二週間は、親に連れられ観光名所を回るか、そうでなければ、部屋に閉じ込められ勉強をする毎日だったという。

 今日は、もう、都会へ帰らなくてはいけないらしい。

 来栖一家が避暑のために、夏の間だけ、都会からこの田舎へ来たことは、先日、聞いていた。

 宿泊先から引き上げる準備で、親の目が離れた隙に抜け出して来たらしい。

「ごめんね。もう行かなきゃいけないんだ。時間がないんだ。最後に会いたくて、走って来たんだ」

 来栖はそう言いながら、リュックサックから、商品が入ったレジ袋を取り出した。

「これ、前に言った、お菓子を持ってきたから。ああ、触れないか。居間に置いておくから。それと、手紙を書いたから、読んでよ」

 バタバタと居間へ行き、キャビネットの写真立ての隣に、お供え物のようにお菓子や飲料、封に入った手紙を並べた。

「さよなら。また、来るから。それまで、バイバイ」

 相変わらず、泣きそうな顔で手を振ると、大して話もしない内に、慌ただしく走っていってしまった。

 館にまた、静寂が戻る。

 私は居間へ行き、来栖が持ってきたお供え物を見る。

 ペットボトルに入ったお茶と、ポテトチップス、えびせん、饅頭、長崎カステラ、そして、封に入った手紙が置いてある。

 確か、「本が読みたい」とも言った気がするが、それは忘れたらしい。

 お茶とカステラの気持ちを手に取り、木板が剥き出しとなった居間の床に座る。

 食べ物には触れられなくても、食べ物の気持ちは食べることができる。

 カステラの気持ちを千切り、一口、口に入れた。

 ふんわりとした甘味が口のなかに広がる。

 舌先で転がすだけで、とろけていく。

 カステラ、うめえ。

 お茶の気持ちにも口をつけた。

 緑茶だ。お茶の香りが芳ばしい。

 「おーい、お茶」とでも言いたい気分だ。

 また立ち上がり、来栖が書いた手紙の気持ちを手に取る。

 手紙には触れられなくても、手紙の気持ちは読むことができる。

 封を開いた。




    咲へ



  何も見えない。何も分からない。

  僕はまだ暗闇のなかにいる。

  君は、生きることは美しいと言った。

  この世界は美しいと言った。

  人間は美しいと言った。

  でも、まだ僕には、生きることもこの世界も人間も、美しいものとは思われない。

  今でも、時々、死にたくなる。

  でも、君が人生で一番、大切なことが生きることだと言うのなら、僕は生きるよ。

  一匹の蟻のように、あるいは、首切り土左衛門のように、ただ生きて死ぬだけの人生を生きるよ。

  僕はもう何も望まないし、何も欲しがらない。ただ生きるために、生きるよ。

  もしかしたら、分からないかも知れないけれど、僕は君と会えて、初めて生きることが楽しいと思えたんだ。

  だから、君が生きることが大切だと言うのなら、僕は生きるために生きよう。

  でも、館はいつか必ず買い取るから。

  それぐらいの我が儘は許してくれるよね?

  それじゃ、また会う日まで、さようなら。そして、ありがとう。



    来栖拓哉




 そう書いてあった。

 やっぱり、自分のことばかりだなあと思った。

 風鈴が涼し気な音を立て、風に揺れた。

 私は、カステラの気持ちをもう一口、手に取ると、口に入れ、小さく笑った。


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