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静寂のバス・ルーム~入浴剤は記憶の欠片~

作者: ゆったん。

初日

私は柔らかく波打つ風呂の湯に、さらさらとした入浴剤をまんべんなく広げるように投入した。

湯を足で軽くかき回し、無色透明だった湯が淡いピンク色に変わったのを見て、ゆっくりと湯船に浸かる。

ストロベリーの香りが私の体を包む。ふぅ、と息を吐き、掃除の手が隅から隅まで行き通った白い天井を見上げる。ストロベリーの香りは私の甘酸っぱい記憶を思い起こす。

・・・あまり、好きではない香りだ。


それは数年前のこと。今更思い出すのは自分でも馬鹿馬鹿しいと思うのだが、自然と頭の中に浮かび上がってくるその記憶は、水面に上がっては弾ける気泡のように簡単には消えてくれないようだ。

左手を目の前にかざしてみる。ピンクの液体をしたたらせるその指の中に、キラリと光る薬指の指輪。その日の誕生日に彼がプレゼントしてくれたものだ。

何かキレイな宝石や、豪勢な飾り付けがあるわけでもないただの指輪は、昔はどんな高価なジュエリーよりも美しく輝いて見えた。今やただの鉄の塊でしかない。その無意味なモノを、なぜ私は外せずにいるのだろう。


淡いピンクの色・・・。あの日のケーキのイチゴはもっと赤い色だった。あの味は今でも覚えている。甘酸っぱいイチゴ、それを包み込むクリームとスポンジは、甘過ぎず大人な味を出していた。

ケーキを頬張る私を優しい笑顔で見つめている彼。今は遠くへ行ってしまった、私の記憶の中の住人。

ロウソクが足りなかったんだ、と笑いながら言っていた。私はそれでも喜んで火を吹き消した。暗闇の中で彼が優しく私を抱きしめ、私は彼の胸に顔を埋めた。とても大きく、暖かかった。


一旦湯から出てシャワーを浴びる。あの頃よりも大人になった体に、心に、彼の感触は残ったまま、いくら洗っても取れない。シャンプーを泡立て髪をそっと撫でるように洗う。彼もよく私の頭を撫でてくれた。子供扱いは止めて、と言ってはいたが、内心はとても嬉しく思っていることを、彼はとっくに見抜いていたのだろう。


これ以上思い出したくはない。私はさっと泡を洗い流し、風呂から上がった。


二日目

昨日からどうも調子が悪い・・・彼のことを思い出したからだろうか。今日はバラの入浴剤を湯に入れる。バラの花びらのような形の入浴剤が溶け、ゆっくりと昨日のストロベリーよりも濃いピンク色に染まって、バラの香りが浴槽中に広がる。バラは、私が初めて彼にあげたプレゼントだ。そして、その日の彼の香水の匂いでもあった。


なぜ、私が入れる入浴剤には彼を連想させるものが入っているのだろう。いや、彼のことを勝手に考え、勝手に連想しているのは私の方なのだろうか。何が悪い、などとは言えないのかもしれない。だが思い出してしまう。それくらい、彼の存在は、私にとってはとても大きな物だったのだから。


その日は彼が食事に誘ってくれたのだ。とてもキレイなホテルで、一級品のレストランがあると、もっぱら噂だったが、私はそんな贅沢をするほどの余裕はなかった。日々の暮らしが精一杯、今とは大違いだ。

彼が誘ってくれた時はとても嬉しかった。だが、同時に申し訳ない気持ちでもあった。彼が奢ってくれると事前に言っていたからだ。彼は大手企業の社長の息子だった。


ダメだ。思い出したくはないのに、記憶の方が思い出せと言わんばかりに溢れ出てくる。そんな記憶を振り払うかのようにばしゃっと勢いよく湯から出て、ボディソープをタオルに付けて体を洗う。年のわりに締まった体をしているとよく言われる。膨らんだ胸も、少しくびれた腰まわりも、小降りなお尻も、あの頃より大きくなった。だが、心は成長せず、あの頃のまま。

誘われた夜は、指輪を渡され、結婚しようと言われた誕生日の少し前。あの夜の、ホテルから見た夜景は忘れてはいない。広いと思っていた町がとても小さく見え、星が夜空を彩り、その中に三日月が青い光を落としている。そんな美しい夜だった。


ワインのグラス越しにそんな夜景を見ていた私は、恥ずかしい思いだった。そのレストランの客たちは皆、女性は美しいドレスを纏い、男性はスーツに身を包んだいかにも裕福な人々。私もドレスとまでは行かなかったが、当時はデザイナーの端くれなりに、精一杯のオシャレをして来たのだが、やはり貧乏人では無理があったのだろうか。そんな私に気を使ってか、彼はホテルの一室に食事を運ばせ、今日は泊まっていくといいよ、と言った。宿泊費まで払わせるのはさすがに、と思ったが飲酒運転は出来ないし、終電にも恐らく間に合わないだろうから、彼の言葉に甘えることにした。

そんな夜だ。ワインに酔った勢いで、私は彼に告白してしまった。言ってから、私は何を言っているんだ、と慌てて取り消そうとしたが、彼は驚いた表情から笑顔になり、私を抱き締めた。一瞬何が起こったか分からなかったが、心はとても幸せな気持ちでいっぱいだった。彼は私をベットに押し倒し、キスをした。段々と激しく、抱きしめる腕にも力が籠り、お互い服を脱ぎ捨て、狂ったようにお互いを求めた。あの夜、彼が私のどこに触れ、どこにキスをしたかまで鮮明に覚えている。


気が付けば、体を洗うはずのタオルを落とし、シャワーにただ濡れている私がいた。すっかりあの夜の記憶に取り込まれてしまっていたのか。終わったことのはずなのに、記憶はいつも私を苦しめる。

ぼんやりとした意識が次第にはっきりしてくる。シャワーの暖かさが彼の腕の中に抱かれているようで、私はしばらく、そのまま動くことができなかった。


最終日

もう入浴剤を使うのは止めた。彼を思い出しそうなものは全て消し去ろう。私はお風呂の中でそんなことを考えた。すでに指輪は外し、写真は燃やし、彼の持っていたものもすべて売り払った。

これで大丈夫、もう記憶に縛られることはない。私は自分の腕で、自分を抱き締めた。風呂の中だというのに、急に寒気が私を襲った。もしかしたら、彼を忘れることを私は拒んでいたのかもしれない。それとも、まだ消すべき記憶があるのか。


私は無色透明な湯に目を落とした。私の体が湯の中でゆらゆらと揺れている。どこまでも透き通ったその湯は、まるで最後のあの日のようだ。

それはつい最近。私は今まで通り、彼との幸せな日々が続いていくものだと思っていた。事実、それまでは毎日が幸せだった。彼の家は大きく最初は戸惑ったものの、慣れてしまえばなんともない、二人の家だ。私が彼の帰りを待つべき場所。

だがその日、いつまで経っても彼は帰ってこなかった。彼のための夕食をテーブルに並べたまま、私は彼の帰りを今か今かと待っているうち、眠ってしまった。彼が殺されたと知ったのは、翌日のニュースだった。自分の目が信じられなかった。運ばれた病院の霊安室には、二度と微笑むことのない彼が、二度と私を暖めてくれない彼が、そこに眠っていた。

三日三晩、涙を流し続けた。涙が枯れてからも、嗚咽を漏らし続けた。何も食べず、何も飲まず。

あの日の彼の夕食も、片付けられることなく、テーブルの上に置かれたままだった。


ふと、自分が涙を流していることに気が付いた。ぽつぽつと涙が湯のなかに落ち、いくつもの波紋を作り出している。そして分かった。消し去っていなかった記憶は・・・私自身だ。

「すぐに、会いに行くからね」

そう呟いた私の声が、静寂の浴槽に響き渡って、消えた。

今作が初投稿となりました。ゆったん。と申します。


彼女が一体どうなってしまったのか・・・そこはご想像にお任せします。


次回作も予定していたりします。彼女がどうなったのか、なぜ彼女はこんなにも追い詰められたのか・・・。


真実解明編、とでも言うべきでしょうか。


ここまで読んでいただいた片、誠にありがとうございました。

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