大魔術ショー
久しぶりの執筆となりました。
これは1960年代、長崎での「お話」である。
叔父から聞いた話である。
現在は老朽化が問題となってるらしい公会堂が新築になったばかりで、さすがに柿落しではなかったのだろうが、ドイツから魔術師を呼んで、マジックショーを演ったらしい。
当時はマジックショーという言い方も馴染みがなく、ましてやイリュージョンなんて言葉はなく、魔術ショーと銘打ってたようだ。
通訳も常に魔術師の傍らにいて、黒のタートルネックを着用し、眼鏡をかけた、ちょっと神経質そうな男であったというから、現在ではさしづめ アップル社の総裁に似たイメージの男ではなかったかと思う。
ただし、参加者は男女のペア‥‥これも当時のことだ、「アベック」と称してたに違いない‥‥に限るとなっていたそうで、僕の叔父は、どこかの小料理屋の女将と同伴したらしい。
大正生まれの叔父にとって、正妻と外出するのは冠婚葬祭に限るという哲学は当然だったようだ。
前後するが、今考えると、その年、叔父は還暦の前後で、勤務していた郵便局を勇退する前であったろうと推定できる。
おそらくは美人の女将と、完成して間もない公会堂に入場し 、今で言うイリュージョンを普通に楽しんだようだ。
で、ほとんど演目も終わりに近づき、魔術師は通訳を通じて、こう言ったそうだ。
‥‥私は長崎に来ることを心から楽しみにしていました。あの原爆が落とされた街が奇跡の復興を遂げていることを確認できました。かつての戦友として感無量であります。
そこで皆様の全員の願い事を叶えて差し上げたいのですが、余り時間も残されておりません。
お客様の中から一名だけ、このステージに上がっていただいて、その方の夢を叶えたいと思います。
皆様が、特に長崎の皆様が奥ゆかしい方々であることは承知していますが、どうかこのステージに上がっても構わないという勇気のある人は手を挙げてください。
叔父の性格は、だいたいのところは知ってが、決して出しゃばっることが好きではないし、黙って静観してたのだが、なぜか隣の女将が手を挙げてたそうである。
それを片目で追いながら、彼女との「付き合い」も考え直さなくてはいけないと叔父は思ったと、聞いた。
叔父は目立たぬことを最も愛す人だったようだ。
数人の観客が挙手したが、魔術師は通訳に小声で囁き、通訳は「そこの白い和服のお嬢さん、ステージに上がって来ていただけますか」と言い、エスコートの意味もあってだろう、通訳はマイクを持ったまま、叔父たちのところまで来た。
すると女将は通訳にマイクを借り、「私は決して皆様の前に立てるような人間ではございません。この、紳士の夢を叶えていただけたらと思いまして‥‥」
通訳も少し驚いたような顔をしたが、舞台の魔術師と目でコンタクトし、了解をとったようで、叔父を立たせて後ろを向かせた。
観客の拍手が起こり、叔父は心底仕方なく、通訳のあとを追い、舞台にあがった。
舞台中央には椅子が既に置いてあり、着席を求められた。
黒いマントを纏った魔術師は、近くでみると、威圧するような背の高さだったという。
魔術師は立ったまま、叔父に通訳を通じ、名前、その他を問うた。
そして、
「これからOOさんの夢を叶えて差し上げますが、最初にお断りしておきます。酒や、女性に関係する夢、お金に関係する夢は叶えてあげることは当局から禁止されています。因みに‥」と言いつつ魔術師は空中から札束を掴み出したそうである。
「こんなことは『朝飯前』なんですけども、駄目なんです。許されていないのです」
と、次の瞬間には折角の札束が消えた。
叔父は、ドイツ人の言う、朝飯前という表現に心の中で笑ったようだ。
「OOさんにとっては突然のことでしょうが、今から3つの夢を思い描いてください。一つ目の夢が私にとって無理なようでしたら次の夢を聞かせてください。それも困難であれば3つ目の夢に移ります。必ず、3つ目までには叶えて差し上げますので、いいですか?」
叔父はゆっくりと頷く。
しばしの間があって、「それでは第一の夢は何ですか」
「世界の平和‥‥」
まだ戦後を脱却したとは言えない60年代の初頭、そんなことを叔父は意識してたらしい。
叔父に魔術師は同意しながらも、「それは現在、国連がやってる仕事です。次の夢は‥‥?」
「小学生の子供がいるんだが、無事成長し、普通の家庭が築けること‥‥」
「それはむしろ貴方の息子さんご自身に関することです。貴方に関することではありません」
叔父は、息子とは言っていないのに、息子と言われ、魔術師への評価を高めたそうである。
次の、最後の夢を聞かれ、何を思ったのか、作家になりたい、小説を思いのままに定年後は書いて世に問いたい、と言った。
魔術師は、「約束です」と言って叔父の額に自らの手のひらをかざし、何事か低く、ドイツ語であろうが呟いて、「叶いました‥‥」
現在、最先端のイリュージョンショーの最後の演目がそのような形に終われば、ブーイングとなることは必至であろうが、まだ「ショー」というものすら慣れてない 、大昔の長崎であり、無事に魔術ショーは終了したようだ。
それから十年が経過し、高校生となっていた僕に叔父は以上の話をしてくれた。
「へぇー、そんなことあったんですね。それで小説のほうは書いたんですか?」
「仕事が定年となって諫早に引退したが、晴れたら農作業、天気が悪けりゃ作家をこなしてる」
まるで晴耕雨読を絵に書いたような生活を送っていたようだ。
村長にもなれたのかも知れないが、目立つことが嫌いな叔父は、村長との意見の相違による出来事を執筆中であると僕に伝えた。
村長に異義を申し伝える場面の描写も語ってくれて、
「ただいま村長殿から縷々(るる)ご説明いただきましたが‥‥」と言い、高校生の僕は初めて『縷々』なる言葉があることを知った。
叔父は常々自分の作品を鞄に入れて携帯してたようだ。
傑作の入った鞄という言い方を何回か聞いたことがある。
ヘビースモーカーだった叔父は、執筆に行き詰まると煙草をよく吸ったらしい。
煙草さえ吸うと、行き詰まりは直ちに解消され、再度すらすらと書ける状態になった、と言った。
高校の頃から作家に興味のあった僕は、どんな作品を読んだらいいか聞いてみた。
叔父は2、3年後に本になる自分の作品を読むべきだと先ず言って、次善の策としては、漱石の『夢十話』、芥川の『杜子春』、鴎外の『高瀬舟』、それらは読むべきだが、それら以外は「読むことぁ要らんぞ」と言った。
冗談半分、本気半分、まさにそんな感じであったろうか。
実は叔父は、その後しばらく経って亡くなった。
アル中により肝臓を痛めたものと僕は了解してる。
叔父の「傑作」は、果たしてどうなったのか気にもなる。
このサイトに作品を投稿してる皆さんなら、あるいはご納得いただけたることと思うのだが、物を書くという気質は、隔世遺伝とも少し違うのだろうが、家系上、ぽつんぽつんと現れる気質のようで、叔父の周囲の血族には「執筆する気質」はもとより、「読む」気質すら持ち合わせがなく、価値なきものとして即刻廃棄されたものと推定している。
少なくとも芥川に関しては、小学生の時分に「鼻」や「蜘蛛の糸」に始まり、ほとんど全作品を読んだように思うから、この点では叔父の助言を無視した格好となっている‥‥
現在の僕の作品は、叔父の傑作と較べて遜色あるのかどうかは永遠の謎である。
むしろ、それでいいのかも知れない。
最近、観客をステージに上げるショー、あるようですね。