第15話 決断
十月の初旬、拓海は研究室に一人でいた。
午後三時。
窓から秋の光が入っていた。
コーヒーが冷めていた。
モニターには論文の草稿があった。
でも拓海はそれを見ていなかった。
今日、決める。
そう思って出勤してきた。
何を決めるのか——言葉にすれば単純だった。
「誰の俺を引き受けるか」を選ぶ。
でも実際に座って考えると、単純ではなかった。
男は——正しい。
合理的で、速くて、何かを達成する能力において、今の俺より確実に上だ。
犯罪者の自分は——本音だ。
欲しいものをそのまま欲しがる、抑圧のない自分だ。
無選択の自分は——安全だ。傷つかない。
失わない。ただそこにいる。
死んだ自分は——最悪の結果を知っている。
その知識は、価値がある。
どれも、俺だ。
どれかが偽物で、どれかが本物という話ではない。
全員が、選択の分岐から生まれた俺だ。
でも——全員を引き受けたまま生きることはできない。
量子コンピュータは、重ね合わせ状態のまま「出力」できない。
計算が終わった後、最終的に「読み出し」という操作が行われて、量子状態が古典的な確定値に変換される。
重ね合わせは、読み出しの瞬間に終わる。
それが「観測」だ。
俺の「読み出し」の瞬間が——今日だと思った。
重ね合わせのまま生きてきた半年だった。
男の声が来るたびに「違うかもしれない」と思いながら従い、犯罪者の声が来るたびに怖くなり、無選択の自分の空虚に半分沈みながら、美羽からのメッセージを既読にできなかった。
重ね合わせは、外からの力で崩れる——デコヒーレンスとして。
あるいは、観測によって崩れる——自分の意志として。
俺は今日、自分で観測する。
夢ではなかった。
昼間の研究室で、目を閉じた。
集中すると——声ではなく、気配として来た。
以前よりずっと薄くなっていたが、まだいた。
男。成功した自分。
「お前に言う」と拓海は心の中で言った。
「聞いている」と男の気配が答えた。
「お前は正しい。論文の速さも、判断の正確さも、感情の管理も——全部、俺よりお前の方が優れている。それは認める」
「……そうだ」
「でも——お前は俺じゃない。お前は、美羽の笑い方を思い出せなくなった。俺はまだ、思い出せる。その違いが——今の俺には、研究の速さより大きい」
男は何も言わなかった。
「俺の中から、出ていけと言っているのではない。お前が俺の一部であることは、変わらない。でも——お前が俺の全部になることを、今日から許さない」
次に、犯罪者の気配に向かった。
ずっと薄れていたが、まだどこかにあった。
「お前は本音だ」と拓海は言った。「欲しいものを欲しがる力は、俺に必要なものだ。ただ——俺が選ぶ欲しさは、お前が選んだ方向じゃない。俺が欲しいのは、成果ではなく——美羽の笑い方を見た朝の感覚だ。それは、盗んでは手に入らない」
犯罪者の気配が、ゆっくりと薄れた。
無選択の自分は——ほとんど残っていなかった。
でも、完全には消えていなかった。
どこかに、「どうでもいい」という揺らぎが残っていた。
「お前の安全さは、分かる」と拓海は言った。
「傷つかないことの楽さは、知っている。でも俺は——お前のところには戻らない。お前がいる場所は静かだが、何も起きない。美羽も来ない。ゼロポイントフィールドの揺らぎのように、あるが、動かない。俺は——動きたい」
無選択の気配が、宇宙の基底状態に静かに沈んでいった。
最後に、死んだ自分の気配があった。
今日はいつもより近かった。
輪郭が薄いのは変わらないが、声が遅延していなかった。
「お前に、礼を言う」と拓海は言った。
「……礼?」
「ゼロポイントフィールドのことを教えてくれた。消えるのではなく、沈むということを。それが——俺の全体を支えた。選んだ後に消える自分たちが、本当に消えるわけではないと分かったから——今日、選べる」
死んだ自分は少しの間、沈黙した。
「……良かった」と言った。
「最後に、何かあるか」と拓海は聞いた。
「……美羽に、ありがとうと言っておいてくれ。俺の世界では言えなかったから」
「伝える」と拓海は言った。
目を開けた。
研究室だった。
コーヒーが冷めていた。
窓に秋の光が入っていた。
拓海は、自分の手を見た。
変わっていないように見えた。
でも、内側で何かが決まった感覚があった。
静かな感覚だった。
爆発的なものではなく、長い方程式が解けたときのような——静かな確認。
波動関数の収縮は、暴力じゃない。
それはただ——一つを選ぶことだ。
スマートフォンを出した。美羽にLINEを打った。
*今日、早く帰れる? 話したいことがある*
送信した。
しばらくして、既読がついた。
*うん。何時ごろ?*
*七時くらい*
*待ってる*
三つのやりとりが、終わった。
以前なら「何の話?」「大事な話?」という問いが来たかもしれない。
でも美羽は聞かなかった。
「待ってる」とだけ言った。
美羽は——分かっていたかもしれない。
あるいは、分からなくても、信じていた。
どちらでも同じことだった。




