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0.003%の残滓  作者: れーやん


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終章 書記官の帰還

朝八時三分。


私は、老人に電話をかけた。


三コール目で、老人が出た。


「山田様、朝早くに申し訳ありません。矢島です」


「ああ、先生。どうかされましたか」


「遺言書の件で、お話ししたいことがあります。もう一度、書き直させてください」


電話の向こうで、沈黙があった。


「書き直す? 法的に問題があったのですか」


「いいえ。法的には、何の問題もありません」


「では、なぜ」


「届く言葉を、一緒に探しましょう」


私は言った。


「法的に正しい言葉ではなく、奥様に届く言葉を」


長い沈黙があった。


「……先生にも、いたんですね。伝えたい人が」


私は、答えなかった。


答えなかったことが、答えだった。



午前十時、老人が事務所に来た。


「先生、私は昨夜、ほとんど眠れなかったんです」


「体調が……」


「いや、体調じゃない。考えていたんです。妻に、何を伝えたいのか」


老人は、窓の外を見た。


「思い出したんです。妻と初めて会った日のことを」



老人は、語り始めた。


電車の中だったこと。中央線の、たぶん国分寺あたりだったこと。


「何を話したのか、もう覚えていないんです。四十年以上前のことですから。でも、一つだけ覚えていることがある」


「何ですか」


「彼女が持っていた本のタイトルです」


老人は、私を見た。


「『雪国』です」


私は、その言葉を、ゆっくりと受け止めた。


「川端康成の……」


「ええ。妻は、電車の中で『雪国』を読んでいたんです」


老人は、窓の外を見た。


「私は話しかけました。『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』——あの冒頭が好きでしてね、と言いました。彼女は顔を上げて、『ええ』と答えました。それだけです」


「それだけ……」


「それだけです。それだけのことで、私たちは四十年、一緒にいるんです」



私は、老人の話を聞きながら、自分の記憶を辿っていた。


窓際から三番目の席。


消しゴムの匂い。


「続きは?」という声。


老人にとっての『雪国』。私にとっての「続きは?」。


どちらも、当事者以外には意味のない言葉だ。


しかし、当事者だけに届く言葉だ。



「山田様」


私は言った。


「遺言書の付言事項に、『雪国』と書きましょう」


老人は、私を見た。


「『雪国』……?」


「はい。『雪国』という二文字と、『ありがとう』という言葉だけを」


老人は、しばらく黙っていた。


「……それだけで、いいのですか」


「それだけで、いいと思います。奥様には、それだけで届くと思います」


老人は、窓の外を見た。


長い沈黙があった。


「先生」


「はい」


「先生も、書くべきですよ」


「……え?」


「伝えたい人が、いるんでしょう」


私は、答えられなかった。


「私は余命三ヶ月です。でも、先生はまだ若い。書く時間は、まだある」


老人は、立ち上がった。


「書いてください。伝えたい人に、届く言葉を」



老人が帰った後、私はデスクに戻った。


昨夜から開いたままの画面。


第七章で打った、最初の一行。


その続きを、私は書き始めた。



午後一時二十三分。


私は、三行目を打っていた。


窓際から三番目の席のことを書いていた。


その数字を、私はAIに入力しなかった。「窓際から三番目」という情報は、AIに教えていない。


だから、AIには書けない。


私だけが書ける。


「あの人」だけが、その数字を見て、自分が座っていた席を思い出すかもしれない。


思い出さないかもしれない。


それでも、書いた。



午後二時五十六分。


私は、四行目を打っていた。


消しゴムの匂いのことを書いていた。


「ゴムとも薬品ともつかない、形容しがたい匂い」


言葉にした瞬間、それは「消しゴムの匂い」という一般名詞に変換されてしまう。「あの」消しゴムの匂いではなく、「消しゴム一般」の匂いになってしまう。


それでも、書いた。


「あの人」だけが、この言葉を読んで、自分が使っていた消しゴムを思い出すかもしれない。



0.003%の残滓。


AIは、完璧な言葉を生成する。


しかし、AIには「恥」がない。


私には、ある。


その「恥」こそが、0.003%の残滓だ。



時刻は午後三時四十二分。


私は、まだ書いている。


四行目。五行目。六行目。


遅い。


AIなら、この程度の文章を、数秒で生成するだろう。


私は、数時間かけて、まだ六行しか書けていない。


しかし、この六行は、私の六行だ。


「あの人」に向けて書かれた、私だけの六行だ。


十一


この小説は、「あの人」に届くだろうか。


分からない。


届かないかもしれない。


「あの人」は、もう私のことなど覚えていないかもしれない。


それでも、私は書く。


老人が、『雪国』と書いたように。


届くかどうか分からない言葉を。


それでも、「あの人」に向けて。


十二


窓の外で、夕日が沈み始めている。


オレンジ色の光が、江戸川の水面を染めている。


その色は、期限切れでシュレッダーにかけられる前の重要書類の色に似ていた。


いや、違う。


その色は、図書室の午後の光に似ていた。


窓際から三番目の席に差し込んでいた、あの光に。


私は、画面を見つめた。


カーソルが点滅している。


「——それでも、私は」


その先を、私は書き続けている。


完璧ではない言葉で。


届くかどうか分からない言葉で。


それでも、「あの人」に向けて。


0.003%の残滓。


それは、世界を救う力などではなく、ただ一人の男が、誰かを想い、その想いを言葉にする恐怖を超えるために残された、最後の、そして十分すぎるほどの「不備」だった。


三郷の夜が、ゆっくりと訪れる。


私は、まだ書いている。

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