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0.003%の残滓  作者: れーやん


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第七章 0.003%の不条理

深夜二時十三分。


事務所のデスクで、私は老人の遺言書を見つめていた。


完璧な余白の中に、完璧な言葉が並んでいる。


「遺言者は、遺言者の有する下記の財産を、遺言者の妻である山田花子に相続させる」


法的には、一点の曇りもない。


届かない言葉だ。


「先生は、伝えたい人、いないのかい?」


あの問いに、私は答えられなかった。


答えられなかったのは、いなかったからではない。


答えたくなかったからだ。



私は遺言書を脇に置き、別のファイルを開いた。


AIが生成した「完璧な再会」の物語。


私は、この文章を三度読んだ。


一度目は、泣いた。


二度目は、吐き気がした。


三度目の今、私は何も感じない。


これは、完璧な文章だ。しかし、これは嘘だ。


私は「あの人」と再会していない。


私は「あの人」に、何も渡せていない。


「続き」を。



「続きは?」


あの声が、脳裏に響く。


二十五年前の声だ。中学二年の夏。図書室の、窓際から三番目の席。


私は目を閉じた。


光だ。午後の光。窓から斜めに差し込む、埃っぽい光。その光の中で、誰かが頁をめくっている。


そして、匂い。


消しゴムの匂い。ゴムとも薬品ともつかない、形容しがたい匂い。


私は目を開けた。



私は、深夜の事務所で、自分自身に問いかけていた。


なぜ、私は十年間、一文字も書けなかったのか。


忙しかったから? 違う。


才能が枯渇したから? 違う。


時間がなかったから? 違う。


本当の理由は——


私は、目を閉じた。


認めたくなかった。


認めたくなかったが、認めるしかなかった。



私は、恐れていたのだ。


「あの人」に、不完全な自分を見られることを。


「あの人」に、陳腐な言葉を読まれることを。


私の想いが、「類型」として処理されることを。


私は、「完璧な言葉」を届けたかった。


しかし、「完璧な言葉」は存在しない。


だから、書けなかった。


書けないまま、十年が経った。


二十五年が経った。



私の想いは、何だったのか。


「あの人」への想い。


窓際から三番目の席に座っていた、あの人への想い。


私は、その想いに名前をつけることを、避けてきた。


「恋」という言葉を使うことを、避けてきた。


「恋」と言った瞬間、それが陳腐になる気がした。


「思春期の淡い恋心」というカテゴリに分類される、よくある感情になってしまう気がした。


だから、私は「恋」とは言わなかった。


「あの人への想い」とだけ言っていた。


しかし——


しかし、それは嘘だ。


私は、「あの人」に恋をしていた。


恋をしていたからこそ、書けなかった。


恋をしていたからこそ、「完璧な言葉」を届けたかった。


恋をしていたからこそ、「不完全な自分」を見せたくなかった。


私の完璧主義は、防衛本能だった。


恋という「傷つきやすいもの」を守るための、鎧だった。



時計を見た。


深夜三時四十七分。


窓の外は、まだ暗い。しかし、夜の色が変わり始めている。


私は、デスクに戻った。


老人の遺言書が、画面に表示されている。


老人は、妻と初めて会った日のことを話してくれた。電車の中で、隣り合わせになったこと。何を話したのか、もう覚えていないこと。ただ、彼女が持っていた本のタイトルだけは覚えていること。


『雪国』。


川端康成の、『雪国』。


老人は言った。


「それだけですか、と妻に聞かれたことがあります。それだけです、と答えました」


それだけだ。本のタイトルと、たった一言の会話。それだけで、四十年。



私は、老人の遺言書を書き直した。


「四十年間、ありがとう」——陳腐だ。削除した。


代わりに、私は書いた。


『雪国』という二文字。


そして、「ありがとう」。


「四十年間、ありがとう」ではない。ただ、「ありがとう」。


それが、老人の妻に届く言葉だ。私はそう信じた。



老人の遺言書を書き直しながら、私は自分自身の「遺言」について考えていた。


私が死ぬとき、誰に何を伝えたいか。


答えは、すでに出ていた。


「あの人」に、「続き」を。


二十五年間、渡せなかった「続き」を。


完璧ではない。陳腐かもしれない。類型的かもしれない。


それでも、私は書きたい。


「あの人」に向けて。



私は、AIが生成した「完璧な再会」の物語を、すべて削除した。


画面には、白紙だけが残った。


カーソルが、点滅している。


十年前、私を絶望させたあの白紙。


今、私はその白紙を見つめている。


恐怖は、まだある。


この想いを言葉にした瞬間、それが陳腐になるという恐怖。


しかし、もう一つの恐怖を、私は知った。


書かないことの恐怖。


沈黙の中で、想いが干からびていく恐怖。


どちらの恐怖が大きいか。


答えは、出ている。


十一


窓の外が、白み始めていた。


深夜四時十二分。


三郷の夜が、終わろうとしている。


私は、キーボードに手を置いた。


まだ、何も打っていない。


白紙のまま、カーソルが点滅している。


打とう。


何を打つか、決まっていない。


完璧な一行ではないだろう。


陳腐な一行かもしれない。


それでも、打つ。


「あの人」に向けて。


届くかどうか分からない言葉を。


それでも。


私は、キーボードを叩いた。


十二


私は、一行を打った。


その一行を、ここに記すことはしない。


それは、「あの人」だけに向けた言葉だから。


陳腐だろうか。


たぶん、陳腐だ。


類型的だろうか。


たぶん、類型的だ。


それでも、私は消さなかった。


その一行は、「あの人」に向けて書かれている。


届かないかもしれない。


それでも、私は書いた。


書き始めた。


窓の外が、明るくなっていた。


江戸川の向こうから、朝の光が差し込んできた。


オレンジ色の、柔らかい光。


図書室の、あの午後の光に、少しだけ似ていた。


私は、二行目を打ち始めた。

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― 新着の感想 ―
投稿ありがとうございます。 久しぶりに小説で、泣けました。 このような文章を書いてくださり、感謝です。 ありがとうございました。 今後も、読ませて頂きます。
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