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0.003%の残滓  作者: れーやん


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第六章 老人の記憶

数日後、老人から電話があった。


午後六時過ぎ。事務所で残業をしていたときだった。


「矢島先生ですか。山田です」


「山田様、お電話ありがとうございます」


「遺言書の件で、少しお話ししたいことがあるのですが」


電話の向こうで、老人は少し沈黙した。


「……思い出したんです」


「何をですか」


「妻と、初めて会った日のことを」



翌日、午前十時。


老人が、事務所に来た。


前回よりも、少し元気に見えた。あの古いメモ帳を、大事そうに持っていた。


「昨日の電話で、奥様と初めて会った日のことを思い出された、とおっしゃっていましたが」


「ええ」


老人は、窓の外を見た。


「四十年以上前のことです。私が三十二歳、妻が二十九歳のときでした」



「どこで、出会われたんですか」


「電車の中です」


「電車」


「中央線の、たぶん国分寺あたりだったと思います。混んでいて、吊革につかまっていました。隣に、若い女性がいました」


老人は、目を閉じた。


「何を話したのか、もう覚えていないんです。四十年以上前のことですから。でも、一つだけ覚えていることがある」


「何ですか」


「彼女が持っていた、ものです」


老人は、目を開けた。


「それを見たとき、私は話しかけたんです。たった一言。彼女は、顔を上げて、『ええ』と答えました。それだけです」


老人は、微笑んだ。


「三十分、迷いました。話しかけるかどうか。結局、話しかけた。それだけのことで、私たちは四十年、一緒にいるんです」



私は、老人の話を聞いていた。


老人は、具体的な内容を語らなかった。


「彼女が持っていたもの」が何なのか、言わなかった。


「たった一言」が何だったのか、言わなかった。


しかし、老人の表情には、四十年分の重みがあった。


「山田様、その思い出を、遺言書に書くことはできますか」


「それを考えていたんです」


老人は、私を見た。


「あの日のことを、遺言書に書けば、妻に届くかもしれない。でも、どう書けばいいのか、まだ分からないんです」



「覚えているかどうか、分からないんです」


老人は、窓の外を見た。


「四十年以上前のことです。妻が、あの日のことを覚えているかどうか。私が見たものを、妻も覚えているかどうか」


老人は、私を見た。


「それでも、書くべきでしょうか」


私は、答えに詰まった。


老人の問いは、私自身の問いでもあった。


「あの人」は、私のことを覚えているだろうか。


「続きは?」と言ったことを、覚えているだろうか。



「山田様」


私は言った。


「私は、法律の専門家です。『届く言葉』の専門家ではありません」


「分かっています」


「でも、一つだけ、思うことがあります」


老人は、私を見た。


「書かなければ、届く可能性はゼロです」


「……」


「奥様が覚えているかどうか、分かりません。届くかどうか、分かりません。でも、書けば、届く可能性がある。書かなければ、可能性はゼロです」


老人は、しばらく黙っていた。


「先生も、同じことを考えているんですね」


「……え?」


「伝えたい人が、いるんでしょう」


私は、答えられなかった。



「前にも聞きましたね。『伝えたい人、いないのかい』と」


老人は、微笑んだ。


「先生の顔を見ていると、分かるんです。私と同じ顔をしている」


「同じ顔……」


「誰かに何かを伝えたいのに、伝えられない。そういう顔です」


私は、何も言えなかった。


老人は、立ち上がった。


「先生、私はもう少し考えてみます。あの日のことを、どう書くか」


「はい」


「先生も、考えてみてください。伝えたい人に、何を伝えるか」


老人は、杖をついて、事務所を出ていった。



老人が帰った後、私は長い時間、椅子に座っていた。


「先生も、同じことを考えているんですね」


同じこと。


誰かに何かを伝えたいのに、伝えられない。


私は、二十五年間、それを抱えてきた。


「あの人」に「続き」を渡したかった。


しかし、渡せなかった。


書けなかったからだ。


連絡できなかったからだ。


なぜ、書けなかったのか。


なぜ、連絡できなかったのか。


答えは——まだ見えなかった。



窓の外を見た。


夕暮れが近づいていた。


老人は、「書かなければ、届く可能性はゼロだ」という私の言葉を聞いて、「先生も、同じことを考えているんですね」と言った。


私は、自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。


「あの人」に向けて、書かなければ。


届くかどうか分からない。覚えているかどうか分からない。


それでも、書かなければ、可能性はゼロだ。



私は、事務所に残ることにした。


帰宅する気になれなかった。


老人の遺言書を、もう一度見直した。


「四十年間、本当にありがとう」


この言葉は、「誰にでも当てはまる」言葉だ。


老人が「届かない」と言った言葉だ。


老人の妻に届くのは、「完璧な言葉」ではない。


老人と妻だけが共有する、「不完全な記憶」を言葉にした、「不完全な文章」だ。


十一


私は、PCを開いた。


新しいファイルを作成した。


白紙の画面。点滅するカーソル。


何を書くか、決めていなかった。


ただ、「何か書かなければ」という衝動だけがあった。


指が、動かない。


「あの人」のことを考えると、書けなくなる。


なぜだろう。


なぜ、「あの人」のことを考えると、書けなくなるのだろう。


何かが、私の筆を止めている。


その「何か」の正体を、私はまだ見つめる勇気がない。


十二


時計を見た。


午後十一時を過ぎていた。


私は、PCを閉じた。


今夜は、書けない。


でも——


明日、老人に電話する。


「電車での出会い」を、もっと詳しく聞く。


「彼女が持っていたもの」と「たった一言」を、具体的に聞く。


それを、遺言書に書く。


老人と妻だけに届く、言葉を。


十三


私は、事務所の電気を消した。


帰宅しようとして、ふと立ち止まった。


いや、今夜は帰らない。


事務所に残る。


老人の遺言書を、もう一度考える。


「あの人」への言葉を、もう一度考える。


私は、電気を再びつけた。


椅子に座った。


深夜の事務所で、私は、長い時間を過ごすことになった。

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