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0.003%の残滓  作者: れーやん


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第五章 類型の発見

老人が帰った日の夜、私は事務所に残っていた。


「先生は、伝えたい人、いないのかい?」


その問いが、頭から離れなかった。


私は、数日前にAIが生成した「再会の物語」を思い出していた。


あの物語は、類型だった。「図書室での出会いと再会」という、使い古されたパターン。


しかし、私の記憶の中には、類型ではない部分があるのではないか。



私は、PCを開いた。


AIサービスにログインした。


AIに、新しいプロンプトを入力した。


「図書室で誰かと出会った」という設定の小説に共通するパターンを教えてください。


AIは、回答した。


「図書室での出会い」は、文学における普遍的なモチーフです。共通するパターンを挙げます。


静寂と孤独:図書室は、静かな場所として描かれます。


窓際の席:窓際の席は、「日常から離れた特別な空間」を象徴します。


午後の光:午後の斜光は、ノスタルジアを喚起する視覚的イメージです。


私は、その回答を読んだ。


すべて、当てはまっていた。


私と「あの人」の物語は、これらのパターンを、一つ残らず踏襲している。



私は、立ち上がり、窓際に歩いた。


三郷の夜景が見える。マンションの灯り。国道を流れるトラックのヘッドライト。


私の経験は、「類型」だ。


無数の作家が、無数の物語で、繰り返し描いてきたパターンだ。


私の「あの人」への想いは、「思春期の淡い恋心」というカテゴリに分類される、よくある感情だ。


特別ではなかった。


唯一無二ではなかった。


——本当に、そうだろうか。



私は、AIに新しいプロンプトを入力した。


「窓際から三番目の席」という表現を使った小説を、探してください。


AIは、回答した。


「窓際から三番目の席」という具体的な表現を使った作品は、私の学習データの中には見つかりませんでした。


「窓際の席」という表現は多数ありますが、「三番目」と特定した作品は、検索できませんでした。


私は、その回答を見つめた。


「窓際から三番目の席」は、類型ではなかった。


AIの学習データには、存在しない。


それは、私だけの記憶だ。



私は、もう一つのことを思い出した。


消しゴムの匂い。


「あの人」が使っていた消しゴムの匂い。ゴムとも薬品ともつかない、形容しがたい匂い。


私は、AIに入力した。


「消しゴムの匂い」を描写した小説を探してください。


AIは、回答した。


「消しゴムの匂い」を描写した作品はいくつかあります。一般的な表現としては、「ゴムの匂い」「懐かしい、学校の匂い」などがあります。


私は、その回答を読んだ。


AIは、「消しゴムの匂い」の一般的な表現を教えてくれた。


しかし、「あの人」が使っていた消しゴムの、あの具体的な匂いは、ここには書かれていない。


「ゴムとも薬品ともつかない、形容しがたい匂い」


その表現は、私が作ったものだ。「あの人」の消しゴムの匂いを、なんとか言葉にしようとして、作った表現だ。


それは、類型ではない。


AIには、生成できない。



私は、理解し始めていた。


私の経験は、「類型」だ。


図書室での出会い。窓際の席。午後の光。別れと喪失。


それらは、すべて類型だ。


しかし、類型の中には、「類型化できない細部」がある。


窓際から「三番目」という数字。


「あの人」が使っていた消しゴムの、あの具体的な匂い。


頁をめくる指先の、あの動き。


「続きは?」という声の、あの抑揚。


それらは、私だけの記憶だ。


AIには、生成できない。



0.003%。


その数字が、頭に浮かんだ。


私は、笑った。


声に出して、笑った。


深夜の事務所に、私の笑い声が響いた。


馬鹿みたいだ。


私は、二十五年間、「類型」を恐れていた。


私の経験が「よくある話」に見えることが、怖かった。


「あの人」への想いが、「ありふれた恋心」に見えることが、怖かった。


しかし、「窓際から三番目」という数字は、類型ではなかった。


AIにも生成できない、私だけの記憶だった。


それだけで、十分ではないか。



類型の中の「不備」。


それが、0.003%だ。


AIは、類型を完璧に生成する。


「図書室での出会い」「窓際の席」「午後の光」——それらは、AIが学習データから抽出した、「ありそうな風景」だ。


しかし、類型の中の「不備」——個人的で、不完全で、説明不足な細部——は、生成できない。


「窓際から三番目」という数字。


「ゴムとも薬品ともつかない」という形容。


それらは、文学的には「不備」だ。


説明不足であり、独りよがりであり、読者に不親切だ。


しかし、それらこそが、「あの人」に届く可能性を持っている。


なぜなら、それらは、「あの人」と私だけが共有している記憶だからだ。



老人の言葉が、頭に浮かんだ。


「この言葉では、妻に、私の気持ちが届かない」


「『ありがとう』じゃ、足りないんです」


老人が求めているのは、「類型」ではない言葉だ。


「誰にでも当てはまる」言葉ではなく、「妻だけに届く」言葉だ。


それは、私が求めているものと、同じではないか。



窓の外が、白み始めていた。


いつの間にか、夜が明けようとしていた。


私は、一晩中、考えていた。


類型の中の0.003%。


それを言葉にすれば、「あの人」に届くかもしれない。


しかし——


しかし、「あの人」は、私のことを覚えているだろうか。


「窓際から三番目」と書いて、「あの人」は分かるだろうか。


「消しゴムの匂い」と書いて、「あの人」は思い出すだろうか。


分からない。


二十五年前のことだ。


「あの人」にとって、私は、忘れてしまった些細な出来事かもしれない。


それでも、書くべきなのだろうか。


私は、まだ答えを見つけていなかった。

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