第五章 類型の発見
老人が帰った日の夜、私は事務所に残っていた。
「先生は、伝えたい人、いないのかい?」
その問いが、頭から離れなかった。
私は、数日前にAIが生成した「再会の物語」を思い出していた。
あの物語は、類型だった。「図書室での出会いと再会」という、使い古されたパターン。
しかし、私の記憶の中には、類型ではない部分があるのではないか。
二
私は、PCを開いた。
AIサービスにログインした。
AIに、新しいプロンプトを入力した。
「図書室で誰かと出会った」という設定の小説に共通するパターンを教えてください。
AIは、回答した。
「図書室での出会い」は、文学における普遍的なモチーフです。共通するパターンを挙げます。
静寂と孤独:図書室は、静かな場所として描かれます。
窓際の席:窓際の席は、「日常から離れた特別な空間」を象徴します。
午後の光:午後の斜光は、ノスタルジアを喚起する視覚的イメージです。
私は、その回答を読んだ。
すべて、当てはまっていた。
私と「あの人」の物語は、これらのパターンを、一つ残らず踏襲している。
三
私は、立ち上がり、窓際に歩いた。
三郷の夜景が見える。マンションの灯り。国道を流れるトラックのヘッドライト。
私の経験は、「類型」だ。
無数の作家が、無数の物語で、繰り返し描いてきたパターンだ。
私の「あの人」への想いは、「思春期の淡い恋心」というカテゴリに分類される、よくある感情だ。
特別ではなかった。
唯一無二ではなかった。
——本当に、そうだろうか。
四
私は、AIに新しいプロンプトを入力した。
「窓際から三番目の席」という表現を使った小説を、探してください。
AIは、回答した。
「窓際から三番目の席」という具体的な表現を使った作品は、私の学習データの中には見つかりませんでした。
「窓際の席」という表現は多数ありますが、「三番目」と特定した作品は、検索できませんでした。
私は、その回答を見つめた。
「窓際から三番目の席」は、類型ではなかった。
AIの学習データには、存在しない。
それは、私だけの記憶だ。
五
私は、もう一つのことを思い出した。
消しゴムの匂い。
「あの人」が使っていた消しゴムの匂い。ゴムとも薬品ともつかない、形容しがたい匂い。
私は、AIに入力した。
「消しゴムの匂い」を描写した小説を探してください。
AIは、回答した。
「消しゴムの匂い」を描写した作品はいくつかあります。一般的な表現としては、「ゴムの匂い」「懐かしい、学校の匂い」などがあります。
私は、その回答を読んだ。
AIは、「消しゴムの匂い」の一般的な表現を教えてくれた。
しかし、「あの人」が使っていた消しゴムの、あの具体的な匂いは、ここには書かれていない。
「ゴムとも薬品ともつかない、形容しがたい匂い」
その表現は、私が作ったものだ。「あの人」の消しゴムの匂いを、なんとか言葉にしようとして、作った表現だ。
それは、類型ではない。
AIには、生成できない。
六
私は、理解し始めていた。
私の経験は、「類型」だ。
図書室での出会い。窓際の席。午後の光。別れと喪失。
それらは、すべて類型だ。
しかし、類型の中には、「類型化できない細部」がある。
窓際から「三番目」という数字。
「あの人」が使っていた消しゴムの、あの具体的な匂い。
頁をめくる指先の、あの動き。
「続きは?」という声の、あの抑揚。
それらは、私だけの記憶だ。
AIには、生成できない。
七
0.003%。
その数字が、頭に浮かんだ。
私は、笑った。
声に出して、笑った。
深夜の事務所に、私の笑い声が響いた。
馬鹿みたいだ。
私は、二十五年間、「類型」を恐れていた。
私の経験が「よくある話」に見えることが、怖かった。
「あの人」への想いが、「ありふれた恋心」に見えることが、怖かった。
しかし、「窓際から三番目」という数字は、類型ではなかった。
AIにも生成できない、私だけの記憶だった。
それだけで、十分ではないか。
八
類型の中の「不備」。
それが、0.003%だ。
AIは、類型を完璧に生成する。
「図書室での出会い」「窓際の席」「午後の光」——それらは、AIが学習データから抽出した、「ありそうな風景」だ。
しかし、類型の中の「不備」——個人的で、不完全で、説明不足な細部——は、生成できない。
「窓際から三番目」という数字。
「ゴムとも薬品ともつかない」という形容。
それらは、文学的には「不備」だ。
説明不足であり、独りよがりであり、読者に不親切だ。
しかし、それらこそが、「あの人」に届く可能性を持っている。
なぜなら、それらは、「あの人」と私だけが共有している記憶だからだ。
九
老人の言葉が、頭に浮かんだ。
「この言葉では、妻に、私の気持ちが届かない」
「『ありがとう』じゃ、足りないんです」
老人が求めているのは、「類型」ではない言葉だ。
「誰にでも当てはまる」言葉ではなく、「妻だけに届く」言葉だ。
それは、私が求めているものと、同じではないか。
十
窓の外が、白み始めていた。
いつの間にか、夜が明けようとしていた。
私は、一晩中、考えていた。
類型の中の0.003%。
それを言葉にすれば、「あの人」に届くかもしれない。
しかし——
しかし、「あの人」は、私のことを覚えているだろうか。
「窓際から三番目」と書いて、「あの人」は分かるだろうか。
「消しゴムの匂い」と書いて、「あの人」は思い出すだろうか。
分からない。
二十五年前のことだ。
「あの人」にとって、私は、忘れてしまった些細な出来事かもしれない。
それでも、書くべきなのだろうか。
私は、まだ答えを見つけていなかった。




