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0.003%の残滓  作者: れーやん


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第四章 遺言書の依頼

その依頼が来たのは、十一月の終わりだった。


電話が鳴った。


「行政書士の矢島事務所ですか」


「はい、矢島です」


「遺言書を作りたいのですが」


老人の声だった。かすれた、しかし落ち着いた声。



翌日、午前十時。


老人が、事務所に来た。


七十代後半だろう。白髪。背筋は伸びているが、足元がやや不安定だ。杖をついている。


「山田と申します」


「矢島です。どうぞ、お座りください」


老人は、ソファに腰を下ろした。


上着のポケットから、メモ帳を取り出した。角が擦り切れた、古いメモ帳だった。表紙には、何かの数字が書かれていた。


「早速ですが、遺言書の件を」



定型の質問を、順番に聞いていった。


氏名。山田正一。七十八歳。


住所。三郷市内。


家族構成。妻が一人。七十五歳。子供はいない。


相続財産。自宅の土地建物。預貯金。合計で約三千万円。


「遺言の内容としては、すべての財産を奥様に相続させる、ということでよろしいでしょうか」


「はい」


老人は、メモ帳を見ながら答えた。



私は、ヒアリングシートの最後の項目に目を落とした。


「遺言書を作成される理由を、お聞かせいただけますか。もちろん、お答えいただかなくても結構です」


老人は、窓の外を見た。


しばらく、沈黙があった。


「末期癌です」


老人は、静かに言った。


「膵臓癌。余命三ヶ月と言われました」


私は、ペンを止めた。


「妻には、まだ詳しく言っていません」


老人は、私を見た。


「だから、遺言書を作っておきたいんです。私がいなくなった後、妻が困らないように」



遺言書の作成は、難しくなかった。


財産をすべて妻に相続させる。遺言執行者は妻。付言事項として、妻への感謝の言葉を添える。


私は、一週間後に遺言書の草案を完成させた。



老人が、確認のために事務所に来た。


「草案ができました。ご確認ください」


私は、遺言書を老人に渡した。


付言事項


花子へ。


四十年間、本当にありがとう。


君と過ごした日々は、私の人生の宝物でした。


どうか体に気をつけて、元気でいてください。


老人は、遺言書を読んだ。


ゆっくりと、一行ずつ。


読み終えると、老人は遺言書を私の前に置いた。


「先生、これは正しいですか」


「はい。法的には、問題ありません」


「法的には」


老人は、その言葉を繰り返した。



「先生、これじゃ、届かないんです」


「届かない、とは」


「この言葉では、妻に、私の気持ちが届かない」


老人は、遺言書の付言事項を指さした。


「『四十年間、本当にありがとう』。これは、本当のことです。感謝しています。でも——」


老人は、首を振った。


「『ありがとう』じゃ、足りないんです」


私は、黙って聞いていた。


「四十年間、一緒にいたんです。毎日、朝起きて、顔を見て、ご飯を食べて、また寝て。その繰り返しを、四十年間。『ありがとう』の一言で、それを表現できるでしょうか」


私は、答えられなかった。


「先生が書いてくれた文章は、法的には完璧です。でも、これを読んだ妻が、『ああ、夫は私に感謝していたんだな』と思うかどうか——」


老人は、遺言書を見つめた。


「思わないと思うんです。この文章は、誰にでも当てはまる。だから、妻には届かない」



「山田様、具体的に、どのような言葉をお望みですか」


老人は、首を振った。


「分からないんです。分かっていたら、自分で書いています」


老人は、あの古いメモ帳を取り出した。


「妻に、『ありがとう』と言いたい。でも、『ありがとう』では足りない。じゃあ、何と言えばいいのか」


老人は、メモ帳をめくった。


「三十分、考えたんです」


「三十分?」


「妻と初めて会った日、電車の中で、話しかけるかどうか、三十分迷いました。結局、話しかけた。たった一言。それだけで、四十年です」


老人は、私を見た。


「先生は、伝えたい人、いないのかい?」


私は、言葉を失った。


「四十年は経っていなくても、誰かに、何かを伝えたいと思ったことは、ないですか」


私は、答えられなかった。


老人は、微笑んだ。


「すみません。変なことを聞きました。遺言書のことは、もう少し考えさせてください」


老人は、杖をついて立ち上がり、事務所を出ていった。



老人が帰った後、私は長い時間、椅子に座っていた。


「先生は、伝えたい人、いないのかい?」


その問いが、頭から離れなかった。


コーヒーを淹れようと、給湯室に向かった。


棚の上に、誰かが置き忘れた消しゴムがあった。


私は、それを手に取った。


匂いを嗅いだ。


ゴムとも薬品ともつかない、形容しがたい匂い。


「あの人」の消しゴムとは、違う匂いだった。当然だ。同じ消しゴムであるはずがない。


しかし、私は、しばらくその消しゴムを握っていた。



伝えたい人。


伝えたい言葉。


私には——


窓際から三番目の席。


頁をめくる指先。


「続きは?」という声。


その記憶が、ふと浮かんだ。


二十五年前の記憶。


私は、その記憶を、すぐに振り払った。


今は、仕事中だ。


老人の遺言書を、どうするか考えなければならない。


十一


数日後、老人から電話があった。


「遺言書の件ですが、もう少し時間をいただけますか」


「はい、もちろんです」


「妻に伝えたいことを、もう一度考えてみます」


「分かりました」


電話を切った。


老人は、「届く言葉」を探している。


私は、何を探しているのだろう。

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