第三章 電脳の福音
数日前に見た記事のことが、頭から離れなかった。
「AI小説、文学賞受賞後に取り消し」——あの見出しを見てから、私はAIサービスに登録し、毎晩、プロンプトを入力していた。
0.003%。
99.997%は、「関係ない」「興味がない」と思っていた。しかし、0.003%の何かが、確かに動いていた。
二
最初の数日間は、試行錯誤だった。
漠然とした指示を出すと、漠然とした文章が返ってくる。詳細な指示を出すと、詳細な文章が返ってくる。
そのことに気づいてから、私はプロンプトの精度を上げていった。
三
ある夜、私は「架空の作家」を作ることを思いついた。
AIに、作家のプロフィールを入力する。その作家が書いたという設定で、小説を生成させる。
私は、プロンプトを打ち始めた。
以下の作家のプロフィールを読み、その作家が書きそうな小説の冒頭を生成してください。
【作家プロフィール】
名前:匿名
年齢:三十代後半
経歴:かつて「神童」と呼ばれ、学生時代に小説の賞を総なめにした。しかし、高校進学を機に書けなくなり、今は筆を折っている。現在の職業は——
私は、手を止めた。
「現在の職業は」
その先を、打てなかった。
これは、架空の作家ではない。
私は、自分自身を入力していた。
四
しばらく、画面を見つめていた。
点滅するカーソル。
「現在の職業は——」
打てば、私は自分の人生を、AIに委ねることになる。
それは、許されることなのか。
分からなかった。
しかし、指は動いた。
現在の職業は、行政書士。埼玉県の地方都市で、小さな事務所を営んでいる。
私は、送信ボタンを押した。
五
AIは、私の人生を元に、小説を生成した。
図書室の窓際に、いつも同じ席に座っている人がいた。
俺は、その人のことを、よく知らなかった。名前も、クラスも。ただ、毎日、同じ席で本を読んでいることだけは知っていた。
ある日、俺は勇気を出して、その人に話しかけた。
「面白いね」
その人は、そう言った。
「続きは、ある?」
私は、その一文を読んだ瞬間、息が止まった。
窓際。
図書室。
「続きは」。
私の記憶の中の図書室が、鮮明に蘇った。
午後の光。埃っぽい空気。本棚の間を抜ける風。
そして——あの匂い。
消しゴムの匂い。
AIは、なぜこれを書いたのか。私は、「図書室」とも「窓際」とも入力していない。
六
答えは、すぐに分かった。
AIは、私が入力したプロンプトを、すべて分析している。
「かつて神童と呼ばれた」「高校進学を機に書けなくなった」
これらの断片から、AIは「原風景」を構築したのだ。
図書室。窓際の席。本を読む誰か。「続きは」という問い。
これは、古今東西の文学作品に共通する「類型」だ。
AIは、その「類型」を抽出し、私の設定に当てはめた。
つまり、これは「私の記憶」ではない。
AIが学習データから導き出した、「ありそうな過去」だ。
しかし——
しかし、それは、私の記憶と、あまりにも似ていた。
七
私は、AIに続きを書かせた。
主人公と「その人」の関係を、発展させてください。二人は、図書室で会うようになります。主人公は、その人のために小説を書くようになります。しかし、高校進学で二人は離れ離れになります。最後に再会します。
AIは、応じた。
長い文章が、生成された。
二人の出会い。主人公が書いた小説。「その人」の反応。別れの日。
そして——再会。
二十年ぶりの再会だった。
図書室は、取り壊されていた。その跡地には、小さな公園が造られていた。しかし、木漏れ日の角度は、あの頃と変わらなかった。
俺は、その人を見つけた。
その人も、俺を見つけた。
二十年という時間が、一瞬で消えた。
「久しぶり」
その人が、そう言った。
俺は、鞄から原稿を取り出した。
二十年かけて、ようやく完成した「続き」。
「読んでくれ」
その人は、原稿を受け取った。
最後のページを読み終えたとき、その人は顔を上げた。
「……素敵」
その一言で、俺の二十年間は報われた。
八
私は、その文章を読んだ。
一度目は、泣いた。
涙が、頬を伝った。私は、二十五年間、こんなふうに泣いたことはなかった。
画面に映る文字が、滲んだ。
これは、私が望んでいた結末だ。
私が、二十五年間、書けなかった結末だ。
AIが、私の代わりに書いてくれた。
九
二度目に読んだのは、翌朝だった。
今度は、泣かなかった。
代わりに、吐き気がした。
「木漏れ日の角度は、あの頃と変わらなかった」
「二十年という時間が、一瞬で消えた」
「俺の二十年間は報われた」
美しい言葉だ。完璧な言葉だ。
しかし、それは嘘だ。
私は、「あの人」と再会していない。
私は、「続き」を渡していない。
私の二十五年間は、報われていない。
AIが書いたのは、「私が望んでいた結末」ではない。
「私が望んでいるかもしれない、ありそうな結末」だ。
類型だ。
無数の作家が、無数の物語で、繰り返し描いてきた「再会と和解」の類型だ。
十
三度目に読んだのは、その夜だった。
今度は、何も感じなかった。
泣きも、吐き気も、しなかった。
ただ、文字が並んでいるのを、見ていた。
「二十年ぶりの再会だった」
「素敵」
これらの言葉は、私のものではない。
AIが、学習データから抽出した、「感動を誘発する語彙」だ。
私は、その語彙に、一度目は騙された。
二度目は、嘘だと気づいた。
三度目は、何も感じなくなった。
十一
皮肉なことに気づいた。
私が書く文章は、AIの文章よりも、よほど「AIのような」文章だった。
行政書士として、私は毎日、「誰が書いても同じであるべき」文章を書いている。感情を排し、事実だけを記述し、法令に準拠した、完璧な文章。
一方、AIが書いた小説は、「人間らしい湿り気」を帯びていた。「涙」や「報われた」という言葉が、感情を喚起する。
私は、感情を排した文章を書いている。
AIは、感情を喚起する文章を書いている。
どちらが「人間らしい」のか。
どちらが「機械的」なのか。
私は、自分が「機械」になっていることに、気づいていなかった。
十年間、小説を書かず、「誰が書いても同じ」文章だけを書き続けた結果、私は、AIよりも「AIのような」人間になっていた。
十二
私は、AIに質問した。
あなたが書いた「再会の場面」には、何が欠けていますか?
AIは、応じた。
私が書いた「再会の場面」には、以下の要素が欠けています。
1. 具体性:「その人」の名前、外見、声の特徴など、特定の個人として識別できる情報がない
2. 唯一性:この物語は、「再会と和解」という類型に依拠している。この主人公にしか書けない、唯一の物語になっていない
これらの欠点を補うには、あなた自身の具体的な記憶や経験を、もっと詳しく教えていただく必要があります。
私は、その回答を見つめた。
「あなた自身の具体的な記憶や経験を、もっと詳しく教えていただく必要があります」
私の記憶を、もっと入力しろ、と。
そうすれば、もっと「私らしい」物語が書ける、と。
十三
しかし——
しかし、私は、それを入力できない。
窓際から三番目の席。
消しゴムの匂い。
頁をめくる指先。
「続きは?」という声。
それらは、私だけの記憶だ。
AIに入力した瞬間、それらは「データ」になる。学習材料になる。「類型」の一部になる。
私は、それが嫌だった。
私の記憶は、「類型」ではない。
私の「あの人」は、「類型」ではない。
十四
その夜、私は事務所で、長い時間、考えていた。
AIは、「感動的な物語」を書くことができる。
しかし、AIには書けないものがある。
「私だけの物語」。
「あの人だけに届く言葉」。
AIは、「誰にでも当てはまる表現」を生成する。だから、「誰かに特別に向けられた」感覚がない。
私が書きたかったのは、そういう文章ではない。
私が書きたかったのは、「あの人」だけに届く言葉だった。
窓際から三番目の席に座っていた、あの人。
消しゴムの匂いを漂わせていた、あの人。
「続きは?」と言った、あの人。
その人だけに届く、私だけの言葉。
AIには、それが書けない。
では、私には書けるのか。
十五
私は、十年間、書けなかった。
AIは、数秒で書ける。
しかし、AIが書いた文章は、「これは嘘だ」と、三度目に読んだときに、分かってしまう。
私が書けば、嘘にはならないのか。
分からない。
私が書いても、嘘になるかもしれない。陳腐になるかもしれない。
しかし、私が書かなければ、永遠に分からない。
私の中にあった0.003%の「何か」が、また脈動した。
書きたい。
AIではなく、私が。
「あの人」に向けて。
しかし、その衝動は、すぐに消えた。
私は、十年間、書けなかったのだ。
AIと対話したくらいで、書けるようになるはずがない。
私は、画面を閉じた。




