第二章 十年の空白
その夜、私は十年ぶりに、小説を書こうとした。
なぜそう思ったのか、分からない。
いや、分かっている。分かりたくないだけだ。
昼間、文房具店の前を通りかかった。消しゴムの匂いが、微かに漂っていた。
それだけだ。それだけのことで、私は十年前に封印したノートパソコンを、押し入れから引っ張り出した。
二
電源を入れた。
起動に三分十七秒かかった。OSが古いせいだ。アップデートの通知が大量に表示された。私は、それをすべて無視した。
ワープロソフトを開いた。
白紙の画面が、表示された。
カーソルが、点滅している。
三
私は、キーボードに手を置いた。
何を書くか、決めていなかった。
冒頭の一文を、考えた。
「彼は」——誰が? 主人公の名前は? 性別は? 年齢は?
「ある日」——いつ? 季節は? 時間帯は?
「窓の外を」——どんな窓? 何が見える?
一文字書く前に、無数の選択肢が現れる。その選択肢の中から、「正しい」ものを選ばなければならない。
しかし、「正しい」選択肢が分からない。
私は、一文字も打てなかった。
四
指が、動かない。
カーソルが、点滅し続けている。
一分が経った。
二分が経った。
三分が経った。
画面は、白いままだった。
五
十年前も、同じだった。
大学を卒業し、就職し、ブラック企業で消耗し、逃げるように行政書士の資格を取り、独立した。
独立したばかりの頃、私は「今度こそ書ける」と思った。
自分の時間ができた。上司もいない。締め切りもない。
私は、ノートパソコンを買った。
そして、ワープロソフトを開いた。
白紙の画面。点滅するカーソル。
何も書けなかった。
一週間が経ち、一ヶ月が経ち、一年が経った。
私は、ノートパソコンを押し入れの奥にしまった。
「いつか書く」
そう思いながら、十年が経った。
六
今夜も、同じだった。
白紙の画面。点滅するカーソル。動かない指。
私は、十年前と同じ場所に立っていた。
三十九歳になっても、私は書けない。
「神童」だった頃の自分は、どこに消えたのか。
七
私は、ノートパソコンを閉じた。
時計を見た。午後十一時四十二分。
明日も仕事がある。
私は、布団に戻った。
しかし、眠れなかった。
白紙の画面が、まぶたの裏に焼き付いていた。
八
翌日も、その次の日も、私は同じことを繰り返した。
夜、ノートパソコンを開く。
白紙の画面を見つめる。
何も書けない。
閉じる。
眠れない。
朝が来る。
仕事に行く。
その繰り返しだった。
九
四日目の夜、私は諦めた。
ノートパソコンを、押し入れの奥に戻そうとした。
「書けない」
その事実を、私は再び確認しただけだ。
十年前も書けなかった。今も書けない。これからも——
そのとき、スマートフォンが光った。
ニュースの通知だった。
十
「AI小説、文学賞受賞後に取り消し——選考委員会が『人間の創作ではない』と判断」
私は、その見出しをタップした。
記事を読んだ。
ある新人賞の最終選考に残った作品が、AIによって書かれたものだと判明し、受賞が取り消された。作者は、AIに詳細なプロンプトを与え、生成された文章を編集して提出していた。
選考委員のコメント:「完成度が高く、最終選考まで人間の作品と見分けがつかなかった」
「そんなレベルで書けるのか……」
私は、声に出してそう呟いた。
十一
その時、私の中で何かが動いた。
微かな脈動。
それは、興味とも、嫉妬とも、恐怖とも、違う何かだった。
99.997%の私は、「関係ない」と思っていた。
しかし、0.003%の何かが、動いた。
十二
翌日、私はAIについて調べ始めた。
「AI 小説 執筆」で検索した。
AIによる小説執筆サービス。月額課金で利用できる。テーマや設定を入力すると、AIが小説を生成してくれる。
「あなたのアイデアを、AIが形にします」
「執筆の苦しみから解放されましょう」
最後のフレーズが、目に留まった。
「執筆の苦しみから解放されましょう」
私は、十年間、その苦しみの中にいた。
書きたいのに、書けない。
白紙の画面を見つめて、何も浮かばない。
その苦しみから、解放される?
十三
私は、あるAIサービスのウェブサイトを開いた。
無料トライアルがあった。三回まで試せる。
私は、アカウントを作成した。
画面に、チャットウィンドウが表示された。
白い入力欄。点滅するカーソル。
「何でも聞いてください」
AIは、そう言っていた。
私は、キーボードに手を置いた。
今度は、指が動いた。
十四
「小説を書いてほしい」
AIは、即座に返答した。
「もちろんです!どのような小説をお望みですか?」
私は、試しに入力した。
「ファンタジー小説。主人公は若い冒険者。魔王を倒す話」
AIは、数秒後に、文章を生成した。
陳腐だった。誤字もあった。
「この程度か……」
私は、失望した。そして、同時に、安堵した。
これなら、脅威ではない。
十五
しかし、何かが引っかかった。
記事には、「詳細なプロンプトを与え」と書いてあった。
私のプロンプトは、詳細ではなかった。
私は、プロンプトを書き直した。今度は、詳細に。
舞台設定。主人公の年齢、性格、過去。文体の指定。
AIは、その指示に応じて、新しい文章を生成した。
今度は、さっきよりもましだった。
私は、さらにプロンプトを調整した。
何度かやり取りを繰り返すうちに、文章のクオリティが上がっていった。
十六
私は、気づいた。
AIは、「書く」のではない。
AIは、「私の指示に従って生成する」のだ。
詳細な指示を与えれば、詳細な文章が出てくる。
つまり、AIを使いこなすには、「何を書きたいか」を、自分で明確にする必要がある。
「これなら書けるかもしれない」
私は、そう思った。
十年間、白紙の画面に向かって、一文字も打てなかった私。
AIを使えば、「一文字目」の壁を越えられるかもしれない。
十七
その夜、私は月額二千円のサブスクリプションに登録した。
これで、無制限に使える。
私は、AIと「対話」を続けた。
様々なプロンプトを試した。様々な設定を入力した。
気づくと、午前二時を過ぎていた。
十年ぶりに、「物語」に触れていた。
自分で書いたわけではない。AIが生成した文章だ。
しかし、その文章の「設定」は、私が考えたものだ。
それは、「書く」こととは違う。
しかし、「書けない」状態よりは、ましだ。
私は、そう思い込もうとしていた。




