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0.003%の残滓  作者: れーやん


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第二章 十年の空白

その夜、私は十年ぶりに、小説を書こうとした。


なぜそう思ったのか、分からない。


いや、分かっている。分かりたくないだけだ。


昼間、文房具店の前を通りかかった。消しゴムの匂いが、微かに漂っていた。


それだけだ。それだけのことで、私は十年前に封印したノートパソコンを、押し入れから引っ張り出した。



電源を入れた。


起動に三分十七秒かかった。OSが古いせいだ。アップデートの通知が大量に表示された。私は、それをすべて無視した。


ワープロソフトを開いた。


白紙の画面が、表示された。


カーソルが、点滅している。



私は、キーボードに手を置いた。


何を書くか、決めていなかった。


冒頭の一文を、考えた。


「彼は」——誰が? 主人公の名前は? 性別は? 年齢は?


「ある日」——いつ? 季節は? 時間帯は?


「窓の外を」——どんな窓? 何が見える?


一文字書く前に、無数の選択肢が現れる。その選択肢の中から、「正しい」ものを選ばなければならない。


しかし、「正しい」選択肢が分からない。


私は、一文字も打てなかった。



指が、動かない。


カーソルが、点滅し続けている。


一分が経った。


二分が経った。


三分が経った。


画面は、白いままだった。



十年前も、同じだった。


大学を卒業し、就職し、ブラック企業で消耗し、逃げるように行政書士の資格を取り、独立した。


独立したばかりの頃、私は「今度こそ書ける」と思った。


自分の時間ができた。上司もいない。締め切りもない。


私は、ノートパソコンを買った。


そして、ワープロソフトを開いた。


白紙の画面。点滅するカーソル。


何も書けなかった。


一週間が経ち、一ヶ月が経ち、一年が経った。


私は、ノートパソコンを押し入れの奥にしまった。


「いつか書く」


そう思いながら、十年が経った。



今夜も、同じだった。


白紙の画面。点滅するカーソル。動かない指。


私は、十年前と同じ場所に立っていた。


三十九歳になっても、私は書けない。


「神童」だった頃の自分は、どこに消えたのか。



私は、ノートパソコンを閉じた。


時計を見た。午後十一時四十二分。


明日も仕事がある。


私は、布団に戻った。


しかし、眠れなかった。


白紙の画面が、まぶたの裏に焼き付いていた。



翌日も、その次の日も、私は同じことを繰り返した。


夜、ノートパソコンを開く。


白紙の画面を見つめる。


何も書けない。


閉じる。


眠れない。


朝が来る。


仕事に行く。


その繰り返しだった。



四日目の夜、私は諦めた。


ノートパソコンを、押し入れの奥に戻そうとした。


「書けない」


その事実を、私は再び確認しただけだ。


十年前も書けなかった。今も書けない。これからも——


そのとき、スマートフォンが光った。


ニュースの通知だった。



「AI小説、文学賞受賞後に取り消し——選考委員会が『人間の創作ではない』と判断」


私は、その見出しをタップした。


記事を読んだ。


ある新人賞の最終選考に残った作品が、AIによって書かれたものだと判明し、受賞が取り消された。作者は、AIに詳細なプロンプトを与え、生成された文章を編集して提出していた。


選考委員のコメント:「完成度が高く、最終選考まで人間の作品と見分けがつかなかった」


「そんなレベルで書けるのか……」


私は、声に出してそう呟いた。


十一


その時、私の中で何かが動いた。


微かな脈動。


それは、興味とも、嫉妬とも、恐怖とも、違う何かだった。


99.997%の私は、「関係ない」と思っていた。


しかし、0.003%の何かが、動いた。


十二


翌日、私はAIについて調べ始めた。


「AI 小説 執筆」で検索した。


AIによる小説執筆サービス。月額課金で利用できる。テーマや設定を入力すると、AIが小説を生成してくれる。


「あなたのアイデアを、AIが形にします」


「執筆の苦しみから解放されましょう」


最後のフレーズが、目に留まった。


「執筆の苦しみから解放されましょう」


私は、十年間、その苦しみの中にいた。


書きたいのに、書けない。


白紙の画面を見つめて、何も浮かばない。


その苦しみから、解放される?


十三


私は、あるAIサービスのウェブサイトを開いた。


無料トライアルがあった。三回まで試せる。


私は、アカウントを作成した。


画面に、チャットウィンドウが表示された。


白い入力欄。点滅するカーソル。


「何でも聞いてください」


AIは、そう言っていた。


私は、キーボードに手を置いた。


今度は、指が動いた。


十四


「小説を書いてほしい」


AIは、即座に返答した。


「もちろんです!どのような小説をお望みですか?」


私は、試しに入力した。


「ファンタジー小説。主人公は若い冒険者。魔王を倒す話」


AIは、数秒後に、文章を生成した。


陳腐だった。誤字もあった。


「この程度か……」


私は、失望した。そして、同時に、安堵した。


これなら、脅威ではない。


十五


しかし、何かが引っかかった。


記事には、「詳細なプロンプトを与え」と書いてあった。


私のプロンプトは、詳細ではなかった。


私は、プロンプトを書き直した。今度は、詳細に。


舞台設定。主人公の年齢、性格、過去。文体の指定。


AIは、その指示に応じて、新しい文章を生成した。


今度は、さっきよりもましだった。


私は、さらにプロンプトを調整した。


何度かやり取りを繰り返すうちに、文章のクオリティが上がっていった。


十六


私は、気づいた。


AIは、「書く」のではない。


AIは、「私の指示に従って生成する」のだ。


詳細な指示を与えれば、詳細な文章が出てくる。


つまり、AIを使いこなすには、「何を書きたいか」を、自分で明確にする必要がある。


「これなら書けるかもしれない」


私は、そう思った。


十年間、白紙の画面に向かって、一文字も打てなかった私。


AIを使えば、「一文字目」の壁を越えられるかもしれない。


十七


その夜、私は月額二千円のサブスクリプションに登録した。


これで、無制限に使える。


私は、AIと「対話」を続けた。


様々なプロンプトを試した。様々な設定を入力した。


気づくと、午前二時を過ぎていた。


十年ぶりに、「物語」に触れていた。


自分で書いたわけではない。AIが生成した文章だ。


しかし、その文章の「設定」は、私が考えたものだ。


それは、「書く」こととは違う。


しかし、「書けない」状態よりは、ましだ。


私は、そう思い込もうとしていた。

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