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0.003%の残滓  作者: れーやん


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第一章 神童の埋葬

かつて、私の指先には魔法が宿っていた。


原稿用紙の升目を埋めるたび、世界は私の望む色に染まった。大人たちはそれを「才能」という安直なラベルで呼んだ。私は、そのラベルを疑わなかった。


小学校四年生のとき、私は初めて小説を書いた。


原稿用紙二十枚。宇宙船が地球に不時着し、異星人と少年が友達になる話。今思えば、どこかで見たような物語だった。しかし当時の私は、それを「自分だけの物語」だと信じていた。


担任の教師は、その原稿用紙を読んで、こう言った。


「矢島くんは、将来、作家になれるかもしれないね」


私は、その言葉を真に受けた。



小学校五年生のとき、市の読書感想文コンクールで最優秀賞を取った。


小学校六年生のとき、県の創作童話コンクールで佳作に入った。


中学校一年生のとき、全国規模の中学生小説コンクールで、入選した。


「神童」という言葉を、初めて聞いたのはその頃だ。


校長室に呼ばれ、表彰状を手渡されたとき、校長が言った。


「矢島くんは、まさに神童だね。将来が楽しみだ」


神童。神の子供。


私は、その言葉の重さを知らなかった。



中学二年の春、私は新しい小説を書き始めた。


タイトルは決めていなかった。内容も、漠然としていた。ただ、「今までで一番長い物語を書きたい」という欲求だけがあった。


放課後、私は図書室に通った。


三郷市立第二中学校の図書室は、校舎の三階、西端にあった。窓は西向きで、午後になると強い日差しが差し込んだ。


私は、図書室の一番奥の席で、原稿用紙に向かった。


ある日——それが何月何日だったか、正確には覚えていない——私は、いつものように図書室で原稿を書いていた。


ふと、視線を感じた。


顔を上げると、窓際の席に誰かが座っていた。


窓際から、三番目の席。


その人は、本を読んでいた。



窓際から三番目の席。


なぜ、私はその数字を覚えているのだろう。


一番目でも、二番目でも、四番目でもなく、三番目。


午後の光が、斜めに差し込んでいた。その光が、ちょうどその人の手元を照らしていた。


その人は、私を見ていなかった。本に集中していた。


私は、しばらくその人を見ていた。なぜ見ていたのか、分からない。ただ、ページをめくる指先が、妙に印象に残った。


その日、私は原稿をあまり進められなかった。



翌日も、その人は同じ席にいた。


窓際から三番目。


その次の日も。その次の次の日も。


毎日、同じ席で、本を読んでいた。


私は、図書室の一番奥から、その人を見ていた。見ているつもりはなかった。ただ、視線が自然とそちらに向いた。


その人の学年は、分からなかった。クラスも、名前も。


図書室で見かけるだけだった。話したことはなかった。


しかし、私は毎日、その人が同じ席に座っているのを確認してから、自分の原稿に向かうようになっていた。



ある日、私は勇気を出して、その人の近くを通った。


本を返すふりをして、その人の席の前を通り過ぎた。


その瞬間、匂いがした。


消しゴムの匂い。


ゴムとも薬品ともつかない、形容しがたい匂い。その人が使っている消しゴムから、その匂いが漂っていた。


私は、その匂いを覚えた。


二十五年経った今でも、消しゴムの匂いを嗅ぐと、窓際から三番目の席が思い浮かぶ。



夏休みが近づいた頃、私は決心した。


その人に、話しかけようと。


なぜ話しかけたかったのか、自分でも分からなかった。ただ、毎日同じ席で本を読んでいるその人のことが、気になっていた。


七月のある日、私は図書室で、その人の席の近くに座った。


いつもの一番奥の席ではなく、窓際から五番目の席。その人の、二席隣だ。


心臓が、やけに速く打っていた。


私は、原稿用紙を広げた。


しかし、一文字も書けなかった。



三十分ほど経っただろうか。


私は、原稿用紙の上で、ペンを動かすふりをしていた。


その人は、本を読んでいた。私のことなど、気にも留めていないようだった。


やがて、その人が立ち上がった。


本を棚に返しに行くのだろう。


私は、思わず声をかけた。


「あの」


その人が、振り向いた。


私を見た。


私は、何を言えばいいか分からなかった。


「何を、読んでるの」


それが、私の最初の言葉だった。



その人は、私を見ていた。


しばらく、沈黙があった。


「小説」


その人は、そう答えた。


低くも高くもない、静かな声だった。


「どんな小説?」


「いろいろ」


その人は、本を棚に戻した。


私は、立ち上がった。


「僕も、小説を書いてる」


なぜ、そんなことを言ったのだろう。


その人は、私を見た。


「読んでいい?」



私は、原稿用紙を差し出した。


書きかけの小説。まだ三十枚ほどしか書いていなかった。


その人は、原稿用紙を受け取った。


そして、読み始めた。


私は、その人が読むのを、見ていた。


心臓が、痛いほど速く打っていた。


その人は、ゆっくりと読んでいた。一枚、一枚、丁寧にページをめくっていた。


やがて、三十枚目を読み終えた。


その人は、顔を上げた。


「続きは?」


十一


「続きは?」


その言葉が、私の胸に刺さった。


今まで、誰も私にそんなことを言わなかった。


大人たちは、私の完成した作品を読んで、「すごいね」「才能があるね」と言った。しかし、「続きは?」とは言わなかった。


その人は、「続き」を求めていた。


書きかけの物語の、続きを。


「まだ、書いてない」


私は、正直に答えた。


「書いて」


その人は、そう言った。


「読みたい」


十二


その日から、私はその人のために書いた。


放課後、図書室に通った。その人は、いつも窓際から三番目の席にいた。


私は、一番奥の席で原稿を書いた。


書き上がると、その人に渡した。


その人は、読んでくれた。


読み終わると、いつも同じことを言った。


「続きは?」


その言葉が聞きたくて、私は書いた。


十三


夏休みが始まった。


私は、自宅で原稿を書き続けた。


毎日、最低十枚。多い日は二十枚書いた。


八月の終わりには、原稿は百二十枚になっていた。


私は、その人に会いたかった。


しかし、その人の連絡先を知らなかった。名前さえ、知らなかった。


名前を聞くことが、なぜかできなかった。聞いてしまうと、何かが変わってしまう気がした。


その人の名前を、私は知らなかった。


知らないまま、私はその人のために書き続けた。


十四


九月、新学期が始まった。


私は、図書室に向かった。


その人は、窓際から三番目の席にいた。


私は、百二十枚の原稿を差し出した。


「全部、書いた」


その人は、原稿を受け取った。


「読んでいい?」


「うん」


その人は、読み始めた。


私は、その人が読むのを、ずっと見ていた。


一時間以上かかった。


読み終えたとき、その人は顔を上げた。


「……すごい」


その一言で、私の夏休みは報われた。


「続きは?」


その人は、また言った。


「続きも、書いて」


十五


私は、続きを書いた。


新学期が始まっても、私は図書室に通い続けた。


その人は、いつも同じ席で待っていた。


私が原稿を渡すと、その人は読んでくれた。


読み終わると、いつも同じことを言った。


「続きは?」


私は、その言葉のために書いた。


十六


その人の席から、消しゴムの匂いがした。


ゴムとも薬品ともつかない、形容しがたい匂い。


私は、その匂いが好きだった。


その匂いを嗅ぐと、安心した。今日もその人がここにいる、と分かったからだ。


十七


中学三年の冬、私たちは受験生になった。


私は、県内の進学校を目指していた。


その人は、どこを目指しているのか、私は知らなかった。


受験勉強が忙しくなり、図書室に通う頻度が減った。週に一度、二度。


それでも、原稿は書き続けた。


その人に渡すために。


十八


卒業式の三日前、私は図書室でその人に会った。


最後の原稿を渡した。


その人は、読んでくれた。


読み終えて、顔を上げた。


「……終わり?」


「まだ、続きがある。でも、書けてない」


「そう」


その人は、原稿を私に返した。


「待ってる」


その人は、そう言った。


「続き、待ってるから」


十九


卒業式の日、私はその人を探した。


しかし、見つけられなかった。


人混みの中で、その人の姿を見失った。


連絡先を聞いておけばよかった。名前を聞いておけばよかった。


後悔が、胸を刺した。


私は、その人の名前も、連絡先も、知らないまま、中学を卒業した。


二十


高校に入学した。


県内の進学校。私が望んだ学校だった。


しかし、そこに、その人はいなかった。


当然だ。その人がどこの高校に進んだのか、私は知らなかった。


私は、新しい環境で、新しい生活を始めた。


勉強は厳しかった。毎日の予習、復習、小テスト。週末は模擬試験。


原稿用紙に向かう時間は、なくなっていった。


二十一


最初の一ヶ月は、「時間がないだけだ」と思っていた。


慣れれば、時間を作れるようになる。そうしたら、また書ける。


二ヶ月が経った。


私は、一枚も書いていなかった。


三ヶ月が経った。


原稿用紙を開くことすら、しなくなっていた。


半年が経った。


私は、自分が何かを書いていたことを、忘れかけていた。


二十二


高校一年の冬、私は気づいた。


書けない。


原稿用紙を前にしても、言葉が出てこない。


あれほど自然に流れ出ていた言葉が、一つも出てこない。


蛇口を捻っても、水が出ない。そんな感覚だった。


錆びついた蛇口を、限界まで捻る。しかし、出てくるのは、錆びた匂いのする水滴が、一滴、二滴。それだけだった。


二十三


その人の連絡先を、私は知っていた。


中学の卒業式の日、住所録が配られた。全校生徒の住所と電話番号が載っていた。


卒業アルバムの写真と照らし合わせて、その人を見つけた。


名前と、電話番号。


私は、それを手帳に書き写した。


何度も、電話をかけようとした。


「続き」を渡せなくてごめん、と言おうとした。


しかし、電話をかけることは、一度もなかった。


受話器を持ち上げ、番号を途中まで押し、そこで手が止まった。


「続き」がないのに、何を言えばいいのか。


私は、受話器を置いた。


何度も、何度も。


二十四


「神童」だった私は、高校一年の冬に、死んだ。


原稿用紙を引き出しの奥にしまった。


ペンを、机の隅に置いた。


なぜ書けなくなったのか。


その理由を、私は二十五年間、考え続けてきた。


忙しかったから? 時間がなかったから? 才能が枯渇したから?


どれも、違う気がした。


本当の理由は——分からない。


分かりたくなかったのかもしれない。


二十五


三十九歳になった今、私は三郷市で行政書士をしている。


許認可申請書を書き、相続関係説明図を作成し、遺産分割協議書を起案する。


「誰が書いても同じであるべき」文章を、完璧に書く。


小説は、もう十年以上、書いていない。


図書室で原稿を読んでもらっていたことも、「続きは?」という声も、窓際から三番目の席も、消しゴムの匂いも。


すべて、忘れていた。


忘れようとしていた。


今でも、文房具店の前を通りかかると、足が止まることがある。


店先に並んだ消しゴム。


その匂いが、微かに漂ってくる。


ゴムとも薬品ともつかない、形容しがたい匂い。


そのたびに、私は思い出す。


窓際から三番目の席。


午後の光。


ページをめくる指先。


「続きは?」


私は、その問いに、まだ答えていない。

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