表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
0.003%の残滓  作者: れーやん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/9

序章 三郷の結露

私は今日も、建設業許可申請書の余白が0.5mm広いことに気づいてしまう。


誰も気にしない。依頼者も、県庁の審査官も。書類が受理されれば同じことだ。


しかし、私は三度、印刷し直す。


プリンターが唸る。二十三秒。三度印刷すれば、六十九秒。私は、0.5mmの余白のために、一分九秒を費やしている。


馬鹿げている。


自分でも分かっている。


分かっていて、やめられない。


三十九歳になった私は、そういう人間だ。


三郷市。埼玉県の南東端、人口約十四万人の街。


私の事務所は、三郷駅から徒歩七分のマンションの一室にある。築四十年。私より一歳年上だ。


賃料は月額六万八千円。駅前の再開発ビルなら十二万円はする。年間で六十二万四千円の差。十年で六百二十四万円。


その金額があれば、私は——何ができるだろう。


何も思いつかない。


私は行政書士だ。


官公署に提出する書類の作成を代行する仕事。建設業許可申請、相続関係説明図、遺産分割協議書。


「誰が書いても同じであるべき」書類を、私は毎日書いている。


私が書いても、他の行政書士が書いても、同じ書類ができあがる。できあがらなければならない。それが、行政書類というものだ。


私は、その「同じ書類」を、完璧に書く。


0.5mmの余白のズレも許さない。


「誰が書いても同じ」書類を、「誰よりも完璧に」書く。


矛盾している、と思うことがある。


なぜか。


分からない。


分かりたくない、のかもしれない。


午後三時十七分。


コーヒーを淹れる。インスタントコーヒー。湯量は百八十ミリリットル。


一日に四杯。合計七百二十ミリリットル。カフェイン摂取量は約三百ミリグラム。成人の適正摂取量の上限を下回っている。


コーヒーを飲みながら、カフェイン摂取量を計算している三十九歳の男。


滑稽だ、と思う。


思いながら、やめられない。


事務所の壁に、資格証が掲げてある。


「行政書士 矢島」


開業は十一年前。私が二十八歳のときだ。


依頼者は年間約八十件。売上は約八百万円。手取りは約五百万円。三郷市の一人暮らしの行政書士としては、悪くない数字だ。


悪くない。


その言葉を、私は自分に言い聞かせる。


「それなりに幸せ」という言葉がある。


私の人生は、「それなりに幸せ」だろう。


それなりに。


ここでは、誰も私を「神童」とは呼ばない。


かつて、私はそう呼ばれていた。小中学校時代、小説の賞を総なめにした少年。


「矢島くんは、将来、作家になれるかもしれないね」


担任の教師が、そう言った。


作家には、なれなかった。


ならなかった、というべきか。


どちらでも同じことだ。


三十九歳になった私は、もう十年も小説を書いていない。


正確に言えば、書けなくなった。


いや、それも嘘だ。


書かないことを選び続けた。


朝、PCを起動するたびに、一瞬だけ——白紙のワープロ画面が脳裏をよぎる。カーソルが点滅する、あの白い画面。


一瞬だけ。


そして、すぐに消える。


私は、許認可申請書の作成画面を開き、依頼者の住所を入力し始める。


誰が打っても同じ文字を。


完璧に。


午後五時四十二分。


今日の業務が終わる。


明日も、同じ一日が始まる。


PCを起動し、白紙の画面が一瞬だけ脳裏をよぎり、すぐに消え、許認可申請書を作成し、余白のズレに気づき、印刷し直し、コーヒーを飲み、カフェイン摂取量を計算し、夕方になる。


その繰り返しだ。


悪くない人生だ。


それなりに幸せだ。


そう言い聞かせながら、私は事務所を出る。


私は、そうやって十年を過ごしてきた。


あと何年、同じ日々が続くのだろう。


計算しようとして、やめる。


それだけは、計算したくない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ