序章 三郷の結露
私は今日も、建設業許可申請書の余白が0.5mm広いことに気づいてしまう。
誰も気にしない。依頼者も、県庁の審査官も。書類が受理されれば同じことだ。
しかし、私は三度、印刷し直す。
プリンターが唸る。二十三秒。三度印刷すれば、六十九秒。私は、0.5mmの余白のために、一分九秒を費やしている。
馬鹿げている。
自分でも分かっている。
分かっていて、やめられない。
三十九歳になった私は、そういう人間だ。
三郷市。埼玉県の南東端、人口約十四万人の街。
私の事務所は、三郷駅から徒歩七分のマンションの一室にある。築四十年。私より一歳年上だ。
賃料は月額六万八千円。駅前の再開発ビルなら十二万円はする。年間で六十二万四千円の差。十年で六百二十四万円。
その金額があれば、私は——何ができるだろう。
何も思いつかない。
私は行政書士だ。
官公署に提出する書類の作成を代行する仕事。建設業許可申請、相続関係説明図、遺産分割協議書。
「誰が書いても同じであるべき」書類を、私は毎日書いている。
私が書いても、他の行政書士が書いても、同じ書類ができあがる。できあがらなければならない。それが、行政書類というものだ。
私は、その「同じ書類」を、完璧に書く。
0.5mmの余白のズレも許さない。
「誰が書いても同じ」書類を、「誰よりも完璧に」書く。
矛盾している、と思うことがある。
なぜか。
分からない。
分かりたくない、のかもしれない。
午後三時十七分。
コーヒーを淹れる。インスタントコーヒー。湯量は百八十ミリリットル。
一日に四杯。合計七百二十ミリリットル。カフェイン摂取量は約三百ミリグラム。成人の適正摂取量の上限を下回っている。
コーヒーを飲みながら、カフェイン摂取量を計算している三十九歳の男。
滑稽だ、と思う。
思いながら、やめられない。
事務所の壁に、資格証が掲げてある。
「行政書士 矢島」
開業は十一年前。私が二十八歳のときだ。
依頼者は年間約八十件。売上は約八百万円。手取りは約五百万円。三郷市の一人暮らしの行政書士としては、悪くない数字だ。
悪くない。
その言葉を、私は自分に言い聞かせる。
「それなりに幸せ」という言葉がある。
私の人生は、「それなりに幸せ」だろう。
それなりに。
ここでは、誰も私を「神童」とは呼ばない。
かつて、私はそう呼ばれていた。小中学校時代、小説の賞を総なめにした少年。
「矢島くんは、将来、作家になれるかもしれないね」
担任の教師が、そう言った。
作家には、なれなかった。
ならなかった、というべきか。
どちらでも同じことだ。
三十九歳になった私は、もう十年も小説を書いていない。
正確に言えば、書けなくなった。
いや、それも嘘だ。
書かないことを選び続けた。
朝、PCを起動するたびに、一瞬だけ——白紙のワープロ画面が脳裏をよぎる。カーソルが点滅する、あの白い画面。
一瞬だけ。
そして、すぐに消える。
私は、許認可申請書の作成画面を開き、依頼者の住所を入力し始める。
誰が打っても同じ文字を。
完璧に。
午後五時四十二分。
今日の業務が終わる。
明日も、同じ一日が始まる。
PCを起動し、白紙の画面が一瞬だけ脳裏をよぎり、すぐに消え、許認可申請書を作成し、余白のズレに気づき、印刷し直し、コーヒーを飲み、カフェイン摂取量を計算し、夕方になる。
その繰り返しだ。
悪くない人生だ。
それなりに幸せだ。
そう言い聞かせながら、私は事務所を出る。
私は、そうやって十年を過ごしてきた。
あと何年、同じ日々が続くのだろう。
計算しようとして、やめる。
それだけは、計算したくない。




