たかしの休日
休日の朝、たかしはテレビからながれてくるオリンピックの中継をじっと見つめていた。革のソファにもたれ掛かり、口をぽかんと半開きにして、なに一つ表情を変えることなく。画面には波を待つ二人のボードを抱えたサーファーが映っている。たかしは競技のルールを知らないばかりか、サーフィン自体に関心を持っていなかったが、携帯をいじること以外に時間の潰し方を思いつかなかったので、仕方なく見ていた。しばらくするとソファから重たい腰を上げ、朝食をつくり、食事をすませると近くの書店へと向かった。たかしが日常生活で活字に触れる機会があるのは、仕事のメールをチェックをするときぐらいで、それ以外は休憩時間に流し見するSNSや気まぐれに目を通すニュースアプリの記事を読むときだけだった。店内に入るなり、入り口付近に平積みにされた本を手に取ると、目の前にあるカラフルなポップに目が留まった。書店で本を買うのは思い出せる限りで、高校時代に読んだ『デルトラ・クエスト1 沈黙の森』以来の事だった。たかしは迷わずそのまま会計へ向い支払いを済ませた。家に着くとさっそく青いポリ袋から、ガルシアマルケスの『百年の孤独』を取り出しページをめくる。伸ばした脚をオッドマンに乗せ、だらしなく口を開き、顔にぶつかるほど本を近づけ文字を追う。室内は静まり返り、エアコンの吹き出し口から吐き出される冷気の送風音がわずかに聞こえてくるだけだった。読み始めてから三十分が過ぎたころ、たかしはため息をつくと首のつけ根あたりをぽりぽりと掻いた。そして本にしおりを挟みソファの脇に置かれた携帯をいじり始めた。『百年の孤独』は閉じられ、リビングのコーヒーテーブルに置かれた。
たかしが再びテレビを点けると柔道のハイライトシーンが映され、スタジオのコメンテーターがそれについて感想を述べている。ふと気がつくともう昼時だった。戸締りを済ませマンションのエレベーターを降り、近くのコンビニへ向かう。昼時とあり、弁当コーナーはすかすかだった。三元豚のおろしカツ弁当を手に取ると、そのほかの切らしていた雑用品を次々とカゴの中へ入れていく。最後にハーゲンダッツとスムージーを入れ会計を済ませ店を出た。マンションへ戻りテレビを点けると再び柔道のハイライトシーンがながれていた。しかし、先程とはすっかりコメンテーターは変わっていた。温めた弁当をレンジから取り出し、箸を割り衣を纏った三元豚に喰らいつく。さっぱりとした柑橘系のぽん酢のタレがかかった大根おろしと脂肪の多い三元豚の相性は予想通り抜群だった。しかし、値段を上回る価値がないことは、たかしにも明らかだった。たかしは箸を置きチャンネルを変えた。同僚の間で話題になっていた、Netflixのオリジナルドラマのことを思い出したのだ。普段ドラマを観ないたかしにとって、全くと言っていいほど興味をそそられる内容ではなかったが、話題についていけずに取り残されることを避けるため、仕方なく観ることに決めたのだった。一本一時間を超えるエピソードが十六本、全部で二十五時間ほどあり、最終話は約二時間ある。たかしは全体をざっと眺めたあと、エピソード第一話を再生した。聞き慣れないハングルに戸惑いながらも画面に表示される字幕を見つめる。全身に真っ白な雪を被った女性が走り出したバスに向かって大声で何かを叫んでいる。バスの中では学生服の青年が坊主頭に手をやり窓の外を見つめながら声を上げて泣いている。画面に反射したたかしの顔に表情はなかった。学生服を着た女性が廊下を歩いている頃、たかしはスマートフォンで時間を確認した。まだ、ドラマが始まって十五分も経っていなかった。たかしはリモコンを握ると二倍速にした。廊下を歩いていた女子生徒は競歩をするように、すたすたすたと教室に入って行った。女子生徒のグループのなかの一人と話すが、字幕が出た途端に消え、会話の内容が分からない。たかしは慌てて、一.五倍速にした。これが会話を追える限界のスピードだった。口論になり、女子生徒のグループの一人に襲いかかるも、物凄い勢いで跳ね飛ばされる。呼び出された女子生徒が教員室へ入る頃、たかしはもう耐えきれなかった。再びスマートフォンを見たが、三十分しか経ってない。たかしは、リモコンを握りテレビの電源を切った。とはいえ、こういった類のものには慣れていた。前にも一度、似たようなことがあったからだ。その時やったようにやればいい。たかしは苛立ちを抑え、スマートフォンを握った。今の時代、グーグルの検索機能に勝るものはない。携帯さえ持っていれば、実際の経験の有無に関することなく、簡単に調べることができるのだ。たかしは、慣れた手つきで画面をスクロールしていく。目をつけたのはブログの記事だった。露骨なアフィリエイトを目的とした記事にはロクなものはない。中身の無い内容に悪質なコピーペーストなど、読むだけ時間の無駄だ。その辺のことに関して、たかしは熟知している。いかに効率よく情報を手に入れるか、たかしに重要なのはそれだけだった。しかし、前回の二時間ちょっとの映画と違い、全一六話、計二十五時間分の情報量を文字に変換する事などはたして可能なのだろうか?仮にその全一六話、計二十五時間分の情報量が載せられたブログを見つけたとして、それを全て文字として、頭に読み込む事は可能なのだろうか?そして、その文字情報は、映像の情報と遜色ないのだろうか?たかしは、第一話のあらすじが要約された記事を読みながら、込み上げてくる不確実性に不安を募らせていた。大抵の場合、認識なんてものは個人によって捻じ曲げられるのが普通で完全に事実と一致することなどほとんどない。考えれば考えるほど、たかしのなかの不確実性は膨らんでいく。底知れぬ不安から、たかしは吐き気を催しトイレに駆け込んだ。先程食べたものをすべて吐き出すと、不思議とたかしを巣食う不安は消えていった。
ブログのタブを閉じるとテレビを点けた。二人の若い男女のリポーターが、野外会場に設置された屋台を次々に回りテンポよく食レポをしている。なにやら、その会場は、たかしの住んでいるマンションの最寄駅の路線沿いにあるらしい。今から駆け足で行けば、まだ間に合うだろうか。そんなことを考えていると、ふと息苦しさを感じた。たかしはエアコンを覗き込んだ。どうやら電源は着いるようだ。吹き出し口に手を当ててみると風が生温い。壊れてしまったのだろうか。たかしは、コンセントを抜きもう一度差し込み口にプラグを挿した。再び電源を入れるとまた元通りに冷たい風が出てきた。一安心するとソファに腰を下ろした。せっかくの休日だというのに、まだ何もしていない。たかしは、先程の露店が並ぶ野外会場に行こうとテレビに目を向けたが、別のコーナーへと移ってしまったようで、あのご機嫌な二人の男女の姿はなかった。そこに映っていたのは映画を紹介する、ハーフの女性の姿だった。たかしは都心部に住んでいるというのに、ここしばらくのあいだ、映画を観ていなかった。
「そーなんですよ。あのフランスの巨匠、ゴダール監督の名作をトランスフォーマーシリーズのマイケルベイ監督がSFアクションに大胆リメイク!」
先程の露店の話を忘れ、たかしはすっかりと女性の紹介する映画に釘付けになっていた。トランスフォーマーシーリーズを観たことは無かったが、予告編を見るなり、すぐにその映画が観たくなった。たかしは急いで着替をすませると、十八時上映のチケットを事前に予約し、時間になるまで新宿にある大型商業施設で買い物を楽しんだ。四階にはメンズアパレルブランド店が軒並み揃っていた。たかしは目に留まったシャツを手に取り眺めていると、すぐさま店員が駆けつけて話しかけた。
「試着なさいますか?」
「そうですね…」
たかしは試着したシャツを鏡越しに確認した。
「失礼します。いかがですか?」
店員の呼び掛けにたかしはにこやかに対応した。実のところ、たかしは以前も似たようなシャツを買ったことがあった。しかし、サイズが合わず一度も着用せずにクローゼットの奥にしまってあるのだ。だがそんなことは、皆目関係なかった。なんとしても今日の休日を満喫することが、たかしの望みなのだ。シャツを買い勢いづくとジーンズやTシャツ、ネックレスにバッグまで、ねじが外れたようにひっきりなしに買いまくった。
「合計が九万と七千六百四十円になります。」
たかしはクレジットカードで会計を済ませると店を出た。
「ありがとうございました。」
買い物は最高だった。今日のように存分に金を惜しみなく使うことが、なによりもたかしの息抜きになるのだ。映画の上演時間が近づくとたかしは買い物袋を持って外に出た。そして映画館へと向かう。館内へ入る前に、キャラメルポップコーンとチュロス、それにチーズナチョとホットドッグ、コーラのLサイズを注文する。特大サイズのトレーに全部を乗せるとテーブルまで運ぶ。椅子に座り一息つくと、スマートフォンをいじりながらホットドッグ、チーズナチョ、チュロスを平らげる。この時点でたかしは既に満腹だった。止まらぬげっぷを連発しながら、ポップコーンとコカコーラのLサイズを持ち、館内に入る。指定された座席に着くとシートが体に密着し、心地よくまどろむ。
午前中にはどうなることかと思ったが、蓋を開けてみれば、今日は最高の一日だった。心身ともに満たされたたかしは、目を閉じるとすぐさま深い眠りへと落ちていった。