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母の形見が質に入れられて

 母が遺したたった一つの形見が、婚約者の手で質に入れられたと知ったのは、冷たい雨が降る日だった。


「思ったよりいい値がついたよ」


 そう言って無邪気に笑うその顔を見て、私の中で何かがぷつりと切れた。



 ◇



 すべての始まりは、私が五歳になった年の春。

 透き通るような金髪に空色の瞳を持つ、天使のような弟が生まれた、あの日からだったのかもしれない。

 誰もが「天使のようだ」と褒めそやすその子に、両親の愛はすべて注がれていった。


 お世継ぎの誕生。

 それは子爵家にとって何よりの喜びだったのだろう。


「ルーチェ、お姉ちゃんになったのだから、しっかりしなさい」

「弟の迷惑になるようなことはするんじゃないよ」


 それまで私に向けられていた笑顔は、いつの間にか弟にだけ向けられるようになった。私への言葉は注意や命令ばかりになった。

 だんだんと、私は「いらない子」になっていくような気がした。



 それが寂しくて、悲しくて、私は必死だった。

 いい子になれば、きっとまた昔のように褒めてもらえる。愛してもらえる。

 そう信じて、朝から晩まで勉強に励んだ。刺繍もダンスも、淑女に必要とされる作法はすべて身につけた。誰よりも美しく振舞い、誰よりも優雅にお辞儀ができるようになった。


 けれど、父と母が私の努力を褒めてくれることはついぞなかった。

 それどころか、私が優秀な成績を残しても、「そうか。だが、弟の邪魔はしないようにな」と、気のない返事が返ってくるだけ。


 やがて両親は私に適当な婚約者をあてがうと、まるで厄介払いでも済ませたかのように、ほとんど屋敷の中でも私を無視するようになった。



 その婚約者──ダスト様とは顔も合わせたことがない。母が決めた、ただそれだけの間柄だ。



 両親の関心は、すべて弟にだけ。

 私の存在は日に日に透明になっていくようだった。


 そんな私の努力を、たった一人だけ見ていてくれる人がいた。

 幼馴染で、大商人の息子のポーンだ。


「ルーチェはすごいな。こんなに難しい本を読んでいるのか」

「今日のドレスも素敵だ。刺繍がとても綺麗だね」


 ポーンは私が頑張ったことを、当たり前のように見つけては褒めてくれた。




 そして、私が十五歳になった年、母が病で倒れた。

 あっという間のことだった。日に日に痩せていく母の姿に私は何もできなかった。


 母は最期の時まで、弟のことばかりを口にしていた。


「あの子はまだ小さいから、あなたがしっかり導いてあげて」

「病弱なところがあるから、目を離さないで」


 父の手を握り、涙ながらにそう訴える母の言葉の中に、私の名前は一度も出てこなかった。

 最後まで、母の唇は私の名を呼ばなかった。

 弟の名を呼び、父に後を託す声だけが、部屋に響いていた。


 私は、そこにいないみたいだった。

 まるで、色のない透明人間のように、母の瞳をすり抜けていくだけ。

 葬儀の日、私は母の穏やかな死に顔をまっすぐに見つめることができなかった。


 そうして、母は逝ってしまった。

 私に何一つ残すことなく。


 ……いや、一つだけ。たった一つだけ、残されたものがあったのだ。




 母の葬儀が終わり、数日が経った頃。

 一人の年老いた侍女が、そっと私の部屋を訪れた。


「お嬢様。奥様から、これをお嬢様にお渡しするようにと、きつく言われておりました」


 そう言って差し出されたのは、小さな銀細工のブローチだった。

 青い石が埋め込まれた、決して豪華ではないけれど、とても繊細で美しいブローチ。見覚えはなかったけれど、侍女は確かに「奥様から」と言った。


 まだ私が幼かった頃。弟が生まれる前。

 両親は、確かに私のことを愛してくれていたはずだ。

 膝に乗せられて、頭を撫でられた温かい記憶が、今でも胸の奥にかすかに残っている。

 このブローチは、そんな在りし日の愛情の証なのかもしれない。

 母が私を忘れていなかった、唯一の証。


 母は私を愛していたのだと、そう信じることができた。


 私は一人、自室で静かに涙を流した。葬儀ではまっすぐ見られなかった母を、その時、初めてちゃんと送ることができた気がしたのだ。


 私はそのブローチを、お守りのように肌身離さず持ち続けるようになった。




 母が亡くなってから、家の空気はさらに重くなった。

 そんな中、隣国との間で大きな戦争が始まった。

 血気盛んな若い貴族たちが、こぞって戦場へと向かっていく。

 弟も、その一人だった。


「僕がこの家を盛り立ててみせる! 武功を立てて、必ずや英雄になって帰ってくるよ!」


 父の反対を押し切って、勇ましく戦地へ赴いた弟。

 しかし、その一年後。

 弟は冷たい遺体となって屋敷に帰ってきた。



 両親の寵愛を一身に受けていた弟。

 けれど、冷たい亡骸となって帰ってきた弟を前にすれば、悲しみがこみ上げた。

 家族を失うというのは、やはり心が抉られるものだった。私は呆然と立ち尽くした。


 だが、父のショックは、私のそれを遥かに凌駕していた。

 父は弟の亡骸を前に、抜け殻のようになってしまった。


「お父様、何か召し上がってください」

「お父様、元気を出して」


 残された家族は、もう私たち二人だけ。

 この深い悲しみを分かち合えるのも、世界でたった二人だけなのだ。私はふさぎ込む父に、来る日も来る日も寄り添い続けた。


 しかし、結局、父の耳には、私の声が届くことはなかった。

 日に日に憔悴し、食事も喉を通らないようになり、まるで弟の後を追うように、一年も経たずに息を引き取った。



 私の気持ちは家族の誰にも届くことはなく、誰もいなくなってしまった。



 女の私に家を継ぐ権利はない。

 子爵家は遠い親戚が継ぐことになり、私はこの屋敷を出ていかなければならなくなった。

 途方に暮れる私を助けてくれたのは、やはりポーンだった。


 彼は忙しい合間を縫って、私のために遺産の整理をすべて手伝ってくれた。


「ルーチェの父上が遺してくれたものだ。君が受け取る権利がある」


 彼の尽力のおかげで、私は一人で生きていくには十分すぎるほどの資産を持つことができた。


 すべての手続きが終わり、私が仮住まいの小さな部屋で荷を解いていると、ポーンが訪ねてきてくれた。彼は少し心配そうな顔で私の様子をうかがうと、改めて口を開いた。


「うちの商会で働かないか? 君なら、きっと素晴らしい仕事ができる」


 ポーンはそう言って、私に新たな道を差し伸べてくれた。

 彼のそばにいられるのなら、どれほど心強いだろう。その申し出は、暗闇に差し込む一筋の光のように思えた。


 けれど、私は首を横に振った。


 私には、母が決めた婚約者がいる。

 会ったこともない、どんな人かもわからない相手。

 でも、その婚約は母が私に残してくれた、数少ない繋がりだった。

 形見のブローチと、この婚約だけが、母と私を繋ぐ細い糸。

 天涯孤独になった恐怖が、私の心を支配していた。



「ありがとう、ポーン。でも、私、婚約者の方のところへ行きます」



 これは、私が自分で決めなければならないこと。

 母が遺した繋がりを頼りに、生きていかなければ。

 そうすることが、唯一、私が私でいられる方法のような気がしたのだ。

 そうして、私は婚約者であるダスト・ベルッチ男爵の屋敷の門を叩いた。



 ◇ ◇



 初めて会った彼は、柔らかな物腰と甘い笑顔が印象的な、魅力的な男性だった。


「ようこそ、ルーチェ。君が来てくれるのを心待ちにしていたよ」


 その言葉に私は安堵し、ここなら穏やかに暮らしていけるかもしれないと淡い期待を抱いた。



 しかし、その期待は長くは続かなかった。

 共に暮らし始めてすぐに、私は彼の見栄と浪費癖に気づかされることになる。


 ダスト様は毎日のように夜会や観劇に出かけ、流行の最先端をいく高価な衣装を次々と仕立てた。友人たちを招いては、高級な酒と食事を惜げもなく振る舞う。

 男爵家の財政は見た目ほど豊かではないことはすぐにわかった。それなのに、彼の金遣いは荒くなる一方だった。


「ルーチェ、少しお金を貸してくれないか。新しい事業を始めるのに、元手が必要なんだ」


 彼はそう言って、私の資産に手を付け始めた。

 私は婚約者として彼を支えたい一心で、言われるがままにお金を用立てた。新しい家族の温かさを、今度こそ手に入れられるかもしれないと、愚かにも信じていたから。


 けれど、彼が始めたという事業が形になることはなく、私のお金は彼の遊興費に消えていくだけだった。

 やがて彼は、私が実家から持ってきた家具や調度品にまで目を付けた。


「こんな古臭いものは、我々の家にふさわしくない。もっと新しい、流行りのものに買い替えよう」


 思い出の詰まった品々は、次々と二束三文で売り払われ、彼の見栄を満たすための新しい贅沢品に姿を変えた。


 そして、彼が贈ってくれたはずのささやかな贈り物──小さな髪飾りやレースの手袋さえも、いつの間にか姿を消した。

 問い詰めると、彼は悪びれもせずにこう言った。


「ああ、あれか。もっといいものを君に贈りたかったから、その足しにしたんだよ」



 ――その金で、彼が別の女性に贈り物をしているという噂を耳にするまで、そう時間はかからなかった。



 それでも、私は耐えた。

 彼との関係は、母が遺してくれた最後の繋がりなのだから、と。


 そんなある日のことだった。

 遠縁にあたる方の葬儀に参列することになり、私は喪服に袖を通した。

 華美な装飾品は許されないその場で、私は初めて肌身離さず身につけていたブローチを外すことになった。

 名残惜しく思いながらも宝石箱にそっと仕舞い、数日、屋敷を空けた。



 しかし、屋敷に戻り、旅の荷を解いて再び箱を開けた時、そこにあるはずのブローチが、なかった。



 血の気が引いた。部屋中を探し回ったが、どこにも見当たらない。

 震える手でダスト様の部屋の扉を開け、彼に尋ねた。


「ダスト様、私のブローチをご存じありませんか?」


 彼は一瞬きょとんとした後、ああ、と思い出したように言った。



「ああ、あの古いブローチかい? ちょうど少しお金が必要でね。質に入れたら、思ったよりいい値がついたよ」



 その言葉を理解するのに、しばらく時間がかかった。



 質に、入れた?

 母が遺してくれた、たった一つの形見を?



「なぜ……。あれが、どんなに大切なものか、お話ししましたよね……?」


「そんな大げさなものじゃないだろう。それより、その金で手に入れたんだ。見てくれ、この新しいカフスを。素晴らしいだろう?」


 彼は得意げに袖口を見せる。その笑顔は初めて会った日と何も変わらない、甘く柔らかなものだった。


 その瞬間、私の中で何かがぷつりと切れた。


 ああ、この人は、何もわかっていない。


 私が大切にしてきたもの、私の心、そのすべてに、何の価値も見出していないのだ。


 母との最後の繋がりさえ、彼は己の欲望のためにいとも容易く手放してしまった。


 悲しみよりも先に、冷たい怒りが湧し上がってきた。

 涙は、一滴も出なかった。



 ――彼が捨てた母の形見を、私が取り戻そう。この手で、取り戻そう。



 ◇ ◇ ◇ 



 ダスト様の屋敷を飛び出し、私はポーンの商会へと向かった。

 私のただならぬ様子に、ポーンはすぐに客間へ通してくれた。

 事情を話すと、彼は静かに頷き腕を組んだ。


「なるほどな。……しかし、あのブローチか。使われている青い石、最近ちょっとしたプレミアがついて、にわかに値上がりしているんだ。好事家が血眼で探しているとかいないとか」


 ポーンは訳知り顔でそう言った。彼の広い情報網は、こんな時、本当に頼りになる。


「だから、質屋も思ったより高値を付けたんだろう」


 彼の言葉は、私の決意をさらに固くさせた。自分の力で、必ず取り戻す。


「私、働きます」


 きっぱりと言うと、ポーンは少し驚いた顔をした。


「働くって……どうするんだ?」

「家庭教師になります。幸い、貴族の令嬢として身につけた教養はありますから」


 刺繍、語学、作法に音楽。

 弟にかまけて私を放置した両親だけれど、教師だけは一流をつけてくれた。皮肉なものだ。


 ポーンは私の目を見て、何かを察したようにふっと笑った。


「わかった。それなら、俺の方でいくつか心当たりを探しておこう。君の腕なら、引く手あまただろうからな」


 屋敷に戻ると、私はダスト様に自分の考えを告げた。


「私、明日から家庭教師として働きます」


 彼は、私が何を言っているのかわからない、という顔で眉をひそめた。


「家庭教師? 馬鹿なことを言うな。僕の婚約者が、そんな優美でない仕事をするものではない」


 その言葉に、私の心の奥で燃え上がった怒りが、静かに言葉になった。


「優美でない、ですって?」


 私は一歩前に出て、ダスト様をまっすぐに見据えた。


「あなたが質に入れたあのブローチは、亡き母が遺してくれた、たった一つの形見です。あなたには、あれがどれほど大事なものか、決してわからないでしょうね」


 私の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。

 普段、感情を表に出さない私の気迫に押されたのか、彼はたじろいだ。


「……勝手にしろ」


 吐き捨てるようにそう言って、彼は部屋を出て行った。




 ポーンの紹介もあって、私はすぐに侯爵家の子女の家庭教師の職を得た。

 貴族として培ってきたすべてがそこで役に立った。

 美しい刺繍の図案を教え、流暢な外国語で詩を読み、洗練された作法を身につけさせる。

 私の指導は評判を呼び、給金は驚くほど良かった。


 そんなある日、雇い主である侯爵家の奥様に、お茶に招かれた。

 奥様は心配そうな顔で私の身の上を尋ねてきた。私の境遇は、ポーンから聞いて知っているようだった。


「ルーチェさん。あなたの婚約者のベルッチ男爵のことだけれど、あまり良い噂を聞かないわ。あなたほどの女性がどうしてあのような方と……。縁を切るべきではないかしら」


 奥様の言葉は、私のことを心から案じてくれているのが伝わってくる、優しいものだった。


「母親の形見のブローチを売り飛ばしたというのも、本当なのでしょう? 人として信じられないことだわ。あなたはもう、あの方のもとに身を寄せる必要はないのよ」


 奥様は私の手を取り、力づけるように続けた。


「あなたにはもう、ご家族がいらっしゃらない。婚約を解消したとしても、痛手を被る家もないでしょう?」


 その言葉は、どこまでも正しかった。


 ダスト様の態度は確かにおかしい。

 形見を売られたことには、今でも腹の底で怒りが煮えくり返っている。


 でも。

 それでも私にはできなかった。


「お心遣い、痛み入ります。ですが……」


 私は丁寧に、けれどはっきりと首を横に振った。


「ですが、あの婚約は母が遺してくれた最後の繋がりなのです。私の一存で一方的に破棄するわけにはまいりません」


 声が少し震えた。

 自分でも、ただの意地に過ぎないのかもしれないと思う。

 けれど、これを手放してしまったら、私は本当に一人きりになってしまう気がした。


 奥様はそんな私の姿をじっと見つめていた。

 やがて、「仕方ない子ね」とでも言うように困った顔で微笑んだ。


 そして、静かに立ち上がると、私のそばに来て、その腕で優しく抱きしめてくれた。


「……あなたは、本当に強い方ね」



 ――その温もりに、張り詰めていた糸が切れそうになる。

 こらえていた涙が、今にも溢れ出しそうだった。



 ◇ ◇ ◇ ◇



 そして数ヶ月後。

 私はついに、ブローチを買い戻すのに十分な資金を手にした。

 質屋で再び手にしたブローチは、少しも輝きを失ってはいなかった。

 ひんやりとした感触が、手のひらにじんわりと温かく広がっていく。


 ようやく、私の宝物が戻ってきたのだ。


 しかし、私がブローチを取り戻すために奔走している間にも、ダスト様の状況は悪化の一途を辿っていた。

 見栄と体面を保つために始めた事業はことごとく失敗し、借金は雪だるま式に膨れ上がっていた。


 そして、彼は決して越えてはならない一線を越えてしまった。

 我が国と敵対する国のスパイと通じ、国の産業に関する機密情報を売り渡してしまったのだ。

 その罪が白日の下に晒されるのに、時間はかからなかった。

 ダスト・ベルッチ男爵は国家反逆罪で捕らえられ、爵位は剥奪。家は没落した。


 私はまだ正式に結婚していなかったため、幸いにも連座での処分は免れた。家庭教師をしていた侯爵家からの執り成しもあったと、風の噂で耳にした。



「ルーチェ、信じてくれ!そんなつもりはなかったんだ!」


 牢獄で一度だけ面会したダスト様が、鉄格子越しに悲痛な叫びを上げた。

 やつれたその姿は、かつての華やかな面影もない。

 けれど、そんな彼に、もうどんな言葉もかけてあげることはできなかった。


 彼の破滅に、私はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

 母が遺してくれた最後の繋がりだったはずの人が、私の目の前から消えていく。



 ――ああ、まただ。

 私の周りの人間は、みんないなくなってしまう。

 母も、弟も、父も。そして、ダスト様まで。



 結局、私は何がしたかったのだろう?

 母が遺した繋がりだからと意固地になって、婚約者のもとに身を寄せた。


 そこに愛なんて、ひとかけらもなかったというのに。


 そんな最後の繋がりさえ、守りきることはできなかった。

 残ったのは、このどうしようもない虚しさだけ。


 涙は出なかった。

 ただ、体の芯から凍えるような寒さがこみ上げてくる。

 自分の肩を抱いても、震えは止まらない。

 寂しい。ただ、寂しかった。


 そんな私の背中に、ふわりと暖かいものがかけられた。

 驚いて振り返ると、そこにはポーンが立っていた。


「……ポーン」

「寒そうだっだから」


 彼はそう言って、私の隣に静かに腰を下した。


 何も言わずに、ただそばにいてくれる。その優しさが、今は痛いほどに胸にしみた。

 やがて、彼は私の震える肩を、そっと抱き寄せた。


「……うちに来ないか?」


 それは、同情だったのかもしれない。

 憐れみだったのかもしれない。

 でも、もう、どうでもよかった。



 ――同情でもいい。憐れみでもいいから。

 今は、誰かにそばにいてほしかった。

 一人きりの寒さに、もう耐えられそうになかったから。


「……うん」


 私は、彼の胸に顔をうずめて、小さく頷いた。

 こうして、私はポーンの家に身を寄せることになったのだ。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 ポーンの家での日々は、驚くほど穏やかだった。


 私は彼の商会で、貴族としての知識を活かせる仕事を与えられた。

 外国の商人との手紙のやり取りや、高価な美術品の査定など。

 それは私がずっと学び続けてきたことが初めて誰かの役に立つという、確かな実感を与えてくれるものだった。


 時折、ポーンは「少し休憩しろよ」と言って、私を街へ連れ出してくれた。

 新しい劇場や、川沿いのカフェでのお茶の時間。

 今までの息が詰まるような生活と比べ、その時間はあまりにも穏やかで、満ち足りていた。


 けれど、心のどこかで、私はずっと後ろめたさを感じていた。


 私は、ポーンの同情でここにいさせてもらっているのだ、と。


 それでも、この心地よい日々に浸ることをやめられなかった。

 天涯孤独の恐怖は、いつしか少しずつ薄れていっていた。


 そんなある日、私が仕事で身につけていたブローチが、ふと商会の古参の従業員の目に留まった。


「おや、お嬢様。そのブローチは……。昔、ポーン様が買い付けた品によく似ておりますな」

「え?」

「ええ、あれは確か……お嬢様のお母上が亡くなられた、少し後のことだったかと」


 母の形見だ。そんなはずはない。

 そう頭では否定しながらも、心のどこかに小さな棘が刺さった。

 その日から、私は仕事の合間を縫って、商会の古い取引記録を調べ始めた。


 そして、見つけてしまったのだ。

 母が亡くなった直後の日付で、ポーンが私のブローチと酷似した品を、とある宝石商から買い付けたという記録を。


 その夜、私はポーンの部屋を訪れた。

 机に向かっていた彼は、私の姿を見ると、穏やかに微笑んだ。


「どうしたんだ、ルーチェ。何か用かい?」


 私は黙って、胸のブローチを外し、彼に見せた。


「このブローチのことについて、お話があります」


 私の真剣な眼差しに、ポーンはすべてを悟ったようだった。

 彼は観念したように、ふう、と長い息を吐いた。


「……気づいてしまったか」


 彼の言葉は、静かな肯定だった。


「君の母親は、結局、君に何も遺してはくれなかった。葬儀の日、何も貰えずに一人で俯いている君を見ていられなかったんだ」


 ポーンは、私の知らないところで私のために動いてくれていた。

 何も遺されなかった私を憐れみ、このブローチを「形見」として用立て、屋敷の侍女を介して、私に渡してくれたのだ。


 母は、最期まで私のことなど見てはいなかった。

 その事実に、涙が溢れた。


 けれど、それは悲しみの涙ではなかった。


「ごめん。昔の僕は、くだらないマネをした」


 申し訳なさそうに謝るポーンに、私は首を横に振った。


「違う……」


 しゃくりあげながら、必死に言葉を紡ぐ。


「……嬉しくて……」


 ずっとそばにいて、心配してくれた人がいた。

 私が気づかないところで、私の心を支えようとしてくれた人がいた。


 母に愛されていなかったことに、このブローチが母の愛の証ではなかったことに、思った以上にショックがない自分に驚く。

 ダスト様との一件で、私の心はとうに枯れ果てていたのかもしれない。


 それよりも、ポーンの深い優しさに触れて、どうしようもなく心が温かくなってしまう自分に気づいてしまったのだ。


 私の言葉にポーンは驚いたように目を見開いた。

 そして、ゆっくりと私のそばに来ると、その大きな手で私の涙を拭った。


「昔、そのブローチを用意した時は確かに同情の気持ちが強かった。でも」


 彼は私の目をまっすぐに見つめて言った。


「すべてを失った君をここに連れてきたのは、下心もあるんだ」

「……下心?」

「ああ」


 彼は私の手を取り、その場に跪いた。


「僕と、結婚してくれないか?」


 驚いた私の顔を見つつ、彼は続ける。


「ずっと君を見てきた。誰にも褒められなくても必死に努力する君を、ずっと素敵だと思っていたんだ。これからはずっと君と一緒に居たい」


 彼の真剣な声が、私の心に染み渡る。



「僕のこれからの人生を、君に捧げたいんだ」



 私は、涙で濡れた顔のまま、こくりと頷く。


「……一つだけ、約束してください」

「なんだい?」


 彼の言葉は温かくて、あまりにも真摯で、胸がいっぱいになった。

 でも、それと同時に、心の奥底から冷たい恐怖がせり上がってくるのを感じる。

 私の口をついて出たのは、喜びの言葉ではなく、今までの人生で感じ続けた、切実な願いだった。



「どこにも、いなくならないで。もう、私を一人にしないで」



 私の願いに、彼は優しく微笑んだ。

 立ち上がって、震える私を力強く抱きしめる。


「約束するよ」


 ――もう、いいのだろうか。

 私は、こんなにも温かい彼と、結ばれてもいいのだろうか。

 ずっと一人で耐えてきた。そう信じていられたのも、あのブローチ──彼が与えてくれた、偽りの温もりがあったからなのだ。けれど、もう頑張らなくてもいいのかもしれない。


 私は、長い長いお留守番を終えた子供のように、彼の胸でただ泣きじゃくった。


 その腕の中でようやく、ずっと探し求めていた温かい場所にたどり着けた気がした。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 私たちは、ささやかな結婚式を挙げた。

 商会の古参の従業員たちは、自分のことのように喜んでくれた。


「いやはや、坊ちゃんもようやく射止めたのですねぇ。長うございましたな」

「本当におめでとうございます、奥様!」


 温かい祝福の言葉に、私は少しだけ顔を赤らめた。


 彼との新しい生活は、穏やかで満ち足りたものだった。

 商会の仕事は忙しく、彼は時々、夜遅くまで書斎にこもっていることがある。

 そんな時、私は夜食のスープを持って、彼の部屋を訪れるのが常になった。


「そろそろ休憩したら? 体を壊したら元も子もないわよ」

「手厳しいな。結婚してから、さらに手厳しくなったんじゃないか?」


 山積みの書類から顔を上げた彼が、困ったように笑う。

 私はわざとらしくため息をついてみせた。


「当たり前でしょう? あなたには、これから長ーいこと、稼いでもらわなければならないのですからね!」



 ――本当は、ただ、一日でも長く、元気でそばにいてほしいだけ。

 そんな素直な言葉が言えないのは、私の悪い癖だ。

 でも、彼はきっとそんな私の本心も全部お見通しなのだろう。


 私の隣にはいつも彼がいてくれる。

 もう一人になることへの恐怖はない。


 母が遺してくれなかった形見のブローチは、今も私の胸で静かに輝いている。

 それはもう、過去の愛情にすがるためのものではない。


 今は、私のすぐそばにある、温かくて確かな愛情の証だ。



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― 新着の感想 ―
すんげえドアマットでビックリした 世の数あるドアマットさんたちも自己評価が低いだけじゃなく、こんな風に思考が回ってるのかもしれないなあと思いました 最後にちゃんとずっとそばにあった愛情に手を伸ばせて…
とてもとても面白かったです。 どうしてそんなに意固地になるの!自分から不幸になりに行くんじゃないよ!とバカ婚約者のあたりはモヤモヤしましたが(しかも優しい侯爵夫人が思いやりを持って諭してくれているのに…
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