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第008話『3月8日』


 こういう形式のジョークがある。良い知らせと悪い知らせがあるんだが。どちらから聞きたい?

 良い知らせは特定の文字が読めるようになったこと。

 悪い知らせは特定の文字が読めるようになっただけのこと。

 なんということはない。健康魔法の基礎の基礎を、己は理解することができなかった。


 一晩明かして必死に理解しようとした。何度も読み返したし、隅から隅から舐めるように熟読したのだ。それでも全く分からない。そもそも己は魔法の基礎の基礎を知らないのだ。

 いわば算数を知らずに数学に挑戦しているようなもの。皆さまご存じのあの掛け算を使ってと言われても、習っていないのだから理解できるわけがない。突然出てきた掛け算なる言葉に困惑するだけだ。

 専門用語の基礎も基礎も欲しかった。つまるところ一晩経ったが、己は何も変わらなかった。


「唯一理解できたのは最後の方くらいか」


 何に効くのかは不明。どうやら健康に良さそうな食材が載っている事は理解できた。勿論、大体のものに見覚えがない。そして食欲をそそられない。

 紫色でムカデのように足の生えたキュウリっぽいもの。どう見ても大便にしか見えないもの。健康に良いんですよと紹介されても、じゃあ不健康でいいですと答えたくなるような食材ばかりだ。

 見覚えがあるのは二つだけ。片方はこの部屋で見たばかりだ。茶色い粘土のようで、机の上に置かれていた齧りかけの食材。この部屋の主はどうやら健康志向が強いらしい。まあ、途中で食べるのを止めているあたり味に問題があったのかもしれないが。


 そしてもう一つ。とても見覚えのある赤い木の実がその本には載っていた。植物図鑑ではないので、詳しい植生などは載っていない。何かに良いのだというアピールポイントだけは無駄にあったが、それ以外の事はさっぱりだった。

 それが生えているから、ここに部屋を作ったのか。それとも部屋の主があれを植えたのか。どちらにせよ、ここを放棄して立ち去ったようには思えない。

 間違いない。部屋の主は再びここを訪れるだろう。

 言葉が通じるとは思えなかった。だが、だからといって諦めるはずもない。これが遺された最後のチャンスかもしれない。いや、その可能性は高い。

 迂闊に小屋に戻って、その間に訪問を見逃したら一生後悔するだろう。

 己はここで部屋の主を待つことにした。いつ来るかは分からない。それでも、いつか来るだろうと信じて。


「…………暇だ」


 あくせくと外を探索していた頃は大変だった。足腰も弱り、満足に運動することも出来ない。遅れてくる筋肉痛と戦いながら、それでも出口はないかと周囲を探索し続けた。その代わり飽きるなどという概念は無い。常に周囲を警戒していた。

 逆にここは安全だ。その代わり恐ろしく暇である。今できることは、来るかどうか分からない部屋の主を待ち続けるだけ。

 後は一晩かけて読みつくした理解できない本が手元にある。この状況で待ち続けることがどれだけ苦痛か。なかなかに身に染みる思いだ。

 とりあえず、昨日の日記をつけておこう。そう思い開いたところで、顔をしかめた。


「あれ? 俺、昨日日記つけたっけ?」


 そこには既に3月7日の日記が書かれていた。記憶を思い出す。昨夜は本を読みふけり、何とかして理解できないかと悪戦苦闘していた。水や木の実を取りに、一瞬だけ外に出るようなことはあったが。それでも基本的にメモ帳とボールペンは肌身離さず持っている。

 己以外の誰かが書き足すことは出来ない。

 あるいは眠っている間に妖精が書いてくれたのか。異世界なのだ。妖精ぐらいはいても不思議ではないだろう。


「それとも、勝手に日記を書いてくれる機能でもついてるのか? それにしては俺の文章だな」


 どことなく回りくどく、文豪を意識しているようで完全に失敗している文体。実際の一人称は俺なのに、わざわざ己と書いている辺りは見事なコピーだ。どうせ誰に見られるものでないし、見られている時は己が死んだ時。なら好きに書いていいだろうと開き直っていた。

 そういう気持ちまで汲んで、昨日の日記をつけたというのか。AIよりも進化している気がする。いくらチートだからといって、そこまでの機能があるとは思えない。

 というか、そんなチートはいらない。どうせなら書いたものが現実になるとか、そういうチートが欲しかった。

 ちなみに、その手の機能がないことは既に確認済みだ。


「うおっ!」


 メモ帳の確認に気をとられていたせいで、一瞬反応に遅れた。慌てて下がろうとしたが足がもつれ、思い切り地面に尻もちをついてしまう。だがまさか、壁が淡く光りだすとは思わなかったのだ。

 身構えようとして、もしや部屋の主が来たのでないかと興奮を覚える。そうだ、そうに違いない。ここは異世界なのだから、ワープみたいな魔法があっても不思議ではないのだ。

 一週間ぶりの人間。ましてや相手は異世界の住人。言葉は通じないのは承知の上だけれど、果たしてうまくコミュニケーションがとれるだろうか。期待と不安が入り混じった視線で、部屋の主を出迎える。


「!」


 部屋の主らしき人物は一瞬だけ顔を覗かせたと思いきや、すぐさま頭をひっこめた。

 そして淡い光が消えて行った。


「………………え?」


 あまりに一瞬のことで分からなかった。人の形をしていたこと。髪の毛が赤かったことは覚えている。それ以外はすぐに引っ込んでしまったので、何も見えなかった。男なのか女なのかも分からない。

 咄嗟に立ち上がろうとして、脳みその冷静な部分が警鐘を鳴らし始めた。久しぶりの人間に食いつく気持ちは痛いほどよく分かる。しかし自分の部屋に見ず知らずのおっさんがいたらどう思うだろうか。しかも相手はおそらく女性。

 これが現実世界なら通報一直線だ。ただ、仮に自分が相手の立場ならどうだろうか。まずは二度見するのではないか。

 ならば、このままではいけない。隠れて様子を見なければ。

 そこまで考えたところで、何故か己の身は机の下にあった。普通に部屋を出て、暗い通路に行けばいいだけのこと。秘かにパニックになっていた己は、この時それに気づけなかった。

 ただ、目論見は成功したようだ。


「######?」


 ひょっこりと姿を現した人物が、部屋に誰もいない事に気付いて声をあげる。案の定、それは理解できない言語だった。強いて言うならばフランス語に近いかもしれないが、おそらく現実世界にはない言語だろう。

 指輪の力でもしかしたら、という淡い期待は打ち砕かれた。


「#########!」


 突然、語気が荒くなる。何に憤っているのか分からない。ただ、癇癪を起したように何度も地面を踏みつけていた。

 気性の荒いタイプなのか。これは迂闊に出て行けば殺されてしまうかもしれない。相手は異世界人。いきなり魔法をぶっ放してきても不思議はないのだ。

 机の下で縮こまる。あれほど会いたかった相手なのに、今はどうしていいのか分からなかった。

 だが、それも長くは続かない。なにせ狭い部屋のことだ。四十を過ぎたおっさんが机の下で縮こまっていたら、どう足掻いてもすぐに気づく。ここの主もその例に漏れず、恐る恐ると言った風にこちらを覗き込んできた。


「########!?」

「待ってくれ! 怪しいけど、怪しい者じゃないんだ!」


 全く言い訳にない弁明をしながら、机の下から飛び出す。無抵抗を示す為に、両手はちゃんと挙げていたが。これが徹底抗戦のジェスチャーでないことを祈るばかりだ。


「#######?」


 警戒しながら壁際に下がる女性。いや、女性と呼んでいいのか。足元を見ていた時はそうだろうと思っていた。白亜のように白く、すらりと伸びた足。靴は少々武骨だが、男性にしては少しサイズが小さい。そして何よりも、彼女はスカートをはいていた。

 のだが、全身を見てみると自信がなくなった。まず彼女は上半身が裸だった。

 ただ、それで胸を曝け出しているわけではない。そもそも彼女に胸は無かった。どちらかと言えば男性の胸に近く、それでいて乳首がどこにも見当たらない。多少の膨らみすらもない。完全な肌色の板だ。

 顔つきはよく知る人類とそっくりだった。目も鼻もあるし、耳や髪の毛もある。腰まで伸びた赤い髪の毛が特徴的だ。モデルですと言われても納得できるぐらい、その顔立ちは整っていた。


「######!」


 もっとも、恐怖か怒りによるせいか。修羅の如く歪んでいたので、見惚れるような事はない。むしろ今にも腰を抜かしてしまいそうになる。どうして美人が激怒したら、こうも恐ろしいのか。


「俺は何もしない! 迷い込んだだけだ! アイムセーフ! オーケー?」


 訝し気に眉を顰め、女性はスカートのポケットから指輪を取り出した。


「やっぱり。あなた、ヤーデバロの人間ね」

「お、俺の言葉が分かるのか!」


 どう安全性を伝えればいいのか。悩んでいたというのに。

 まさか、日本語が伝わるとは思わなかった。


「ヤーデバロ語を翻訳する指輪があるもの。それよりも答えなさい。どうしてヤーデバロの人間が私の隠し部屋に入っているのよ。返答次第では、ここで殺されても文句は言えないわよね?」


 グッと拳を突き出してくる。相手が何を言っているのか理解できず、どう答えたものか頭を捻った。

 まずヤーデバロが分からない。どこかの国か地方の名称なのだろうが。そこの人間でしょと言われても、知らないのだから何とも言えない。それとも日本か異世界のことを、ここではヤーデバロと呼ぶのだろか。


「まず俺はヤーデバロの人間じゃない。異世界から来た日本人だ」

「二ホンジン?」

「そう! 気づいたらこの世界に転移させられていて、ふらふらしているウチにこの部屋を見つけたんだよ。悪いとは思ったけど、俺はどうしてもこの窪地から脱出したいんだ!」


 これまで溜まっていた思いが熱意となって溢れ出す。なにせ、ここで見捨てられたら今度こそ終わりではないか。溺れている者にとっては藁だって立派なロープ。絶対にこちらから手放すような真似はしたくない。

 女性は何やら考え込む仕草をした後、こちらを見て驚いた。


「変な単語を使うからおかしいと思ったけど、あなたその指輪!」

「え?」


 昨日、机の下で拾ったものだ。これがどうかしたのだろうか。


「道理でおかしいと思ったら、あなたもヤーデバロ語翻訳の指輪をつけているじゃない! まずはそれを外しなさいよ!」


 そうか。この指輪はてっきり翻訳するだけの指輪だと思っていた。

 しかしどうやら、通訳としての役割も持っているらしい。つけるだけで己の言葉もヤーデバロ語とやらになっていたのだろう。


「いや、外したら会話できないから。日本語とか通じないよね?」

「ニホンゴって単語が何を意味するのか分からないけど。ニホンゴ翻訳の指輪は持ってないわね」

「なら、このまま話させてくれないか? お互い、確認したいこともあるだろ?」


 なるべく笑顔でそう語り掛ける。四十のおっさんがニコニコすることに、どれだけの効果があるか分からない。それでもあまりにも手持ちの武器が少なすぎる。ここは下手に出るしかない。

 椅子に座り、足を組み、女性はこちらを観察するようにじっと睨みつけた。実に居心地が悪い。就職面接を思い出す。あの時にどれだけ不合格通知を貰ったのか、いらぬトラウマも顔を覗かせてきそうだ。


「そうね。本当にあなたが異世界から来たのなら、それは私にとっても都合がいい。もっとも、そう嘯いてるだけのほら吹きって方がしっくりくるけれど」

「じゃ、じゃあ! これとかどうだ!」


 そう言って取り出したスマホ大先生は、すっかりバッテリーが切れていた。


「何よ、この黒い板。変なの」


 電源がつかなければ、ただの脆い板に過ぎない。現代文明には電気が必須なのだ。かといってメモ帳とボールペンはあまり見せたくないし、既に本があるのだ。紙と筆記用具で驚いてくれるとは思えなかった。

 後は先人が遺してくれたコップだけ。これが何の証明になるのかと、半ば諦めムードで取り出したものに


「これ、凄いじゃない!」


 ことのほか、食いついた。

 考えてみればプラスチックが異世界にあるわけがない。スマホは高度すぎて逆に分かりにくいが、コップともなれば触れば分かる。これだけの不可思議な物体、こちらの世界には無いのだろう。

 あちこちの角度から見ながら、光に透かしたりと忙しい。ただ、満足はして貰えたようだ。


「異世界から来たって信じてくれたか?」

「信じたわけじゃないけど、私の知らない所から来たってのは本当のようね。いいわ、二ホンだったかしら? そこに戻れるよう協力しげあげる」


 秘かにガッツポーズを決める。あまり大声を出して驚かれては困るのだ。

 目玉石や蒸気馬相手に怯えていた日々から比べたら、これ以上の進歩があろうか。一気に帰還の目途がたったというもの。

 あのアパートに戻れる日も、そう遠くはないかもしれない。


「あ、でもヤーデバロ語が分かるってことは、この本も読んだってことよね? じゃあ、私のデンポも食べたってこと!」


 また謎の単語が飛び出してきた。ただ彼女の視線から、あの齧りかけの粘土のことを指しているらしい。間接キスという概念があるのかないのか知らないが、年頃の女子からすれば異世界でも恥ずかしいのだろう。

 安心させる意味もこめて、己は本を捲った。


「大丈夫。俺はこれを食べて飢えを凌いでいたから」


 怪訝そうな顔で女性は言った。


「……あんなマズイもの、食べられるわけないでしょ。それ、塗り薬よ」


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