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第003話『3月3日』


 世間はひな祭り。雛あられを食べながらちらし寿司でも一つ。

 そんな現実に生きている時は想像だにしなかった。

 葉っぱにくるまれ、震えながら朝を待つことがマシであったことを。同じことの繰り返しになるが、今日ほど朝を歓迎した日はあるまい。

 夜になって奴らが立ち去ったとはいえ、いつ戻ってくるともしれない。しかも今度は何も見えない夜のこと。壁を突き破るなり、扉を破壊するなり、何もしようとしても分からない。


 そんな中でグーグー眠られるほど、己の神経は図太くなかった。

 当然のように一睡もできず、飢えも忘れるほどに張り詰めた中で迎えた朝。

 己はこの小屋から離れることを決意した。


 幸いなことに、翌朝この小屋を取り囲む奴らはいなかった。壁の隙間から見えるのは、簡素で寒々しい冬の森だけだ。この中を行進するのかと思えば気は重い。しかし不気味な生物に囲まれる事に比べたら些細な問題だ。

 己は小屋の中を物色した。いち早く、この小屋を離れたいとはいえ手ぶらは如何なものか。空腹がいよいよ我慢できないレベルに達しつつある。非常食とまで贅沢は言わないものの、何か役に立つものがあって欲しい。


 そう願いつつ探したが、当然のようにこれといって目ぼしいものはなかった。薄汚れたよく分からん布切れは、毛布代わりになるだろう。それと木の棒だ。これでも振るえば武器になる。

 生憎と武道の心得はない。学生時代も文芸部に所属する帰宅部だった。妄想の中ではいつだってヒーローだが、現実世界の己など小型犬にも勝てそうにない。それでも無いよりはマシの精神で木の棒を握りしめる。

 後は何かないかと板切れをどかしたところで、出てきたものに息を呑んだ。


『正正正』


 見紛うはずもない。これは漢字だ。しかも、これで日付を数えていたのなら己と同じ日本人の可能性が高い。確か西洋の人間はもっと別の数え方をしていたはずだ。つまり、ここに暮らしていたのは日本人である。

 最早、ここが異世界であるのは疑う余地もない。いくらなんでも、同じ世界にあのような奇妙奇天烈な生物が秘かに生息しているとは思えなかった。別の世界の生物ですと言われて、ようやく納得できる有様だ。


 となれば、自分と同じように転移してきた人間がいるということ。そして、その人間もここを立ち去って行ったのだろう。あるいは、あの蒸気馬に怯えていたのかもしれない。

 何にせよ、少しだけ気力が戻ってきた。何時の世も先人がいる事ほど、頼もしいものはない。東雲誠也。男に生まれ、男として生きてきたが、前人未踏を踏破できるほどの度胸は持ち合わせていなかった。


「待っててくれよ。今、俺も追いつくからな」


 正の字を撫で、覚悟を決める。いつまでも此処にいたら、また奴らが戻ってくるかもしれない。これ以上の時間をかける事は出来なかった。

 己は小屋を後にして、森の中を進んだ。

 当然、当てなどない。また勘頼みの行進の始まりだ。


 とにかく森を抜け、どこか人の気配がある所に行くのが望ましい。あるいは食べ物があるでも構わない。なんとか気力で歩いてはいるが、そろそろ空腹も限界に近くなってきた。一食や二食、抜いた経験はあるのだけど。二日も食べていないというのは、なかなか体験したことがない。

 今となっては、もう牛丼の味すら忘れてしまった。


「はぁ……はぁ……」


 眩暈もする。気を抜けば今すぐにでも倒れてしまいそうだ。

 だからこそ最初、それを幻覚だと思った。


「はぁ……はぁ……?」


 枯れ落ちた木の枝に赤い木の実が付いていた。そう、付いていたのだ。

 実がなっていたとか、そういうわけではない。その木の実にはヘタなどなく、強いて言うならば赤いスーパーボールとでも呼べばいいのか。それが木の枝に張り付いていたのだ。

 一つだけではない。ざっと数えるだけでも三十はあるだろうか。

 まあ、とにかく怪しかった。


「く、食えるのか?」


 問いかけても答えはない。ただ一つだけ確かなのは、己の空腹が限界を超えていた事だ。

 普段ならば絶対に近寄りもしない木の実。だが、今の己にはそれがとてつもないご馳走に見えていた。多少の罠ならば、かかっても良いと思えるぐらいには。

 ゆっくりと近づく。

 そして手を伸ばし、木の実をもぎ取った。

 変化はない。木も木の実も、そのままだ。


「……ゴクリ」


 喉が鳴る。毒かもしれない。あるいは寄生虫の類がいるのかも。

 危惧すれば止まらない。危険性など考えれば考えるほど有るに決まっている。

 だが己はそれら全てを無視して、赤い木の実に齧りついた。


 美味かった。極上だった。

 元の世界どの果物よりも瑞々しく、それでいて甘い。

 気が付けば、己は木の実を貪り食っていた。どれだけ食べたのかは分からない。ただ腹が膨れるまで食べ続けた。空腹に満腹は毒だと知っていても、木の実をもぐ手を止めることは出来ない。


「それにしても、これは何なんだ? なんでこんな冬の森に?」


 糖分が脳みそに回って来たのか。ようやくマトモな思考が出来るようになった。

 そうして考えてみれば、どう考えても異常だ。食べ物に乏しい森の中。そこに、これみよがしの木の実が生えている。いや付いている。誰かが先回りして、美味しい木の実を張り付けておきましたと言われなければ納得できない。

 そうでなければ野生生物が食べてしまいそうなものだが。目玉石や蒸気馬が木の実を食べるのかと言われたら、甚だ疑問だった。


 あるいは、これを食べるような生物がこの森にはいないのではないか。ハサミの生える木だってあるのだから、美味しい木の実が張り付く木だってあってもいい。都合よく考えるのなら、そういう結論に至る。


「とりあえず、幾つか持っていくか」


 生憎とバッグの類もないので、持ち運べるのは数個ぐらい。出来れば此処を離れたくはなかった。しかし、いつまでも木の側でジッとしているわけにもいかない。一刻も早く、この森を脱出しなければ。

 チラチラと木の方を振り返りながら、己は再び歩を進めた。











 目玉石に遭遇して避けたり、再び赤い木の実を見つけたり。幾度かの経験を経て、ようやく森を脱出することが出来た。

 そう書ければ、どれだけ幸せな事だったろうか。

 森を歩き回り、己は理解してしまった。

 どこをどう歩いても、必ず最後は崖にぶち当たる。これが何を意味するのか。賢明でない人間にも理解できよう。

 山の中か、あるいは平地か。いずれにせよ、ここは凹んだくぼ地に出来た森なのだ。

 なれば当然、森を脱出することなど出来るわけがない。


 崖は本当に崖である。ロッククライミングの道具と技術があれば、あるいは踏破できるかもというレベル。齢四十のおっさんが、身一つで登り切れるものではない。

 ならば、どこかに階段の一つでもないかと探し回ってもあるわけがなかった。完全にこの森は閉じ込められている。

 絶望しかなかった。


「いや、まだ何かあるはずだ」


 それでも己の背中を押したのは、やはり先人の存在だ。あの『正』の数字を見る限り、彼か彼女は十五日で小屋を後にした。仮にこの土地を把握したとすれば、真っ先にあの小屋に戻るはずだ。実際、己もそうしようかと考えていた所なのだから。

 だったら、あの数字はもっと多くてもいい。食べ物も水もある。まさか十五日で死んでしまったという事はないだろう。仮に絶望して数字を刻むことも止め、小屋で朽ちたのだとしたら白骨死体が中にあるはずだ。


 だが、そんなものはどこにもなかった。必ずあるはずなのだ。この閉ざされた森から脱出する方法が。

 諦めるわけにはいかない。元の世界には未練もある。そもそも、こんな世界で天寿をまっとうするつもりもない。

 何が何でも、元の世界で戻ってやるのだ。

 己は決意を固めた。


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