第002話『3月2日』
忘れないよう日付も記しておいた。本当にこの日付で合っているのか。甚だ疑問ではあるが、スマホ大先生がそう言っているのだから真実なのだろう。もっとも大先生は圏外なので時計以外の使い方は出来ない。おまけに電池も切れそうだ。
夜が明けた。
飯が食えずとも、喉が渇こうとも、夜は明ける。そして己の生涯でこれほど朝を歓迎した日もあるまい。
この地においても三月は冷える。ましてや此処は得体の知れない森の中。野宿するしかないとしても、翌朝には死体で発見されそうな気すらする。震える指先で日記をつけながら、やたらと大きな葉っぱで己を包む。
洞窟と呼ぶのも烏滸がましい崖のへこみに潜り込みながら、そうして朝を待ち続けた。
「おお……」
歓喜の声と共に朝日を出迎え、そして己の飢えに気付いたというわけだ。
現実世界なのか異世界なのか、まだまだ判別は出来ぬ。しかし、どちらにせよ食って飲まねば死んでしまうのだ。そして悲しいかな。どちらにせよ、救助の見込みは薄い。
誰が何の意図で己を連れて来たのか、未だ持って不明。そしてここまで黙秘を貫くのなら、教えるつもりもないのだろう。己は何としても生き延びなければならない。こんな誰もいない森の中でひっそりと死ぬほど厭世観は強くなかった。
「とりあえず、まずは水だ」
言葉にすることで多少なりとも気力がわいてくる。食べ物は無くても数日は平気だろう。空腹感も我慢は出来る。しかし喉の渇きはどうにもならない。
何はともあれ、飲み水の確保が先決だ。こうなると己のサバイバル知識の乏しさが悲しくなってきた。現代文明の中で、飲み水の確保などそれこそ災害の時ぐらい。それにしたって配給ぐらいはあるんじゃないかと能天気に構えていた己をぶん殴りたくなる。
人生、どこで何が起きるか分かったものではないのだから。それにしたって、これは飛躍しすぎな気もするが。
留まっていても何も始まらない。己は再び歩き始めた。
水のある場所など見当もつかない。行先は出鱈目だ。何となく、こちらにあるような気がして進み続けるだけ。最早、頼れるのは己の運だけである。
ただ、ある程度の警戒はしていた。なにしろ、この森には意味不明な生物が暮らしているのだ。目玉石にハサミの木。謎の生命体が他にいないとも限らない。
そういえば、目玉石は死んだ後に粘液を垂れ流していた。いやいや、さすがにあれを水分と言い張るのは無理がある。喉に詰まって死にそうだし、よしんば胃まで到達しても毒で死にそうだ。飲むにも食べるにも抵抗がありすぎた。
せめてもっとこう、瑞々しい植物でもあれば話は別なのだろうが。
その願いが届いたのか。はたまた己の強運が手繰り寄せたのか。
「フシューッ、フシューッ」
水蒸気だ。つまり水である。熱い水が噴き出している。
だが岩肌からではない。地面からでもない。
胴体は馬。ただし蹄の類は無く、出来の悪い粘土細工のように見える。頭部は存在しておらず、本来頭がある所には数本の切れ込みが入っているだけだ。そして、そこから水蒸気が噴き出している。
そんな生物が目の前に現れた。
「ど、どうどう」
混乱する己に出来ることは、とりあえず宥める事だけだ。まず間違いなく、現実世界にいる生物ではない。目玉石と同じような類だろう。こんな馬が牧場にいたらパニックになって子供が失神するではないか。
水蒸気馬はこちらを見ながら……いや、見ているかどうかは分からない。ただ胴体がこちらを向いているので、見ているのではないかと思っただけだ。
「シューッ」
「お?」
突然、水蒸気の色が紫に変わった。心なしか水蒸気の勢いも弱まる。
なるほど。あの水蒸気がこの生物の意思疎通の手段なのだろう。そこまでは分かったが、それ以外は何も分からなかった。なにしろ、こちらには対話の手段がない。生憎と己の頭からは水蒸気など上がらぬのだから。
まあ、混乱しすぎて煙の一つでも吹き出しそうではある。
「あー、俺はここに迷い込んだけだ。そちらに危害を加えるつもりはない。ただ水を探しているだけなんだよ。分かるか?」
とりあえず話しかけてみた。通じるとは思えないとしても、やっても損になることはあるまい。最悪でも通じないだけだ。
そして案の定、水蒸気馬は何の反応も示さなかった。
水蒸気の色は白に戻り、そしてこちらを無視するように踵を返す。
敵対しなかったのは良しとしても、友好関係にもなれなかったようだ。ただ残念ながら己には行くあてもない。無視してくれるのなら、水蒸気馬についていくしかなかった。
「シューッ」
「突然、襲ってきたりはしないよな?」
こちらの言葉には全く反応しない。ただ森の中を進んでいく。
やはり季節のせいか。木々の彩りは乏しい。枯れ落ちたものも多く、木の実の一つも見当たらなかった。
そんな物悲しい風景の中で、ひときわ目立つ建物が目に飛び込んでくる。
「なっ! 小屋じゃないか!」
吹けば飛びそうなボロ小屋だとしても、今の己には豪邸のように見える。なにしろ、これは人がいる証拠なのだ。どれだけ天変地異が起ころうと、突然小屋が湧き出してくるような事はない。誰かが作らなければ、こんなものが森の中にあるはずもなかった。
おまけに小屋の側には水飲み場も用意されていた。駆け出して湧き水に口をつけようとして、一瞬だけ躊躇う。
これは本当に飲んでいい水なのか。しかし葛藤は喉の渇きによって吹き飛ばされた。
これだけお膳立てされておきながら、無視して渇きを許容できるほど己は出来ていない。
貪るように水を飲み、一息ついて岩に腰を下ろす。
「はーっ、生き返った」
飢えは健在なれど、渇きは満たされた。それに身近な所に水があるというのは、思いのほか心も満たしてくれたようだ。これまで己の背中にあった、焦燥感のような感情が薄れていくのが分かる。
「もしかして俺を案内してくれたのか、っていねえし」
水蒸気馬は消えていた。己を置いて歩いていったのだろう。
こちらを認識していたかどうかも怪しいし、案内してくれたとも思えない。とすれば、ただの幸運か。日頃の行いに感謝しておこう。
さて、拠点は出来た。水もある。となれば、後は食べ物だ。
空腹が満ちれば、もうしばらくは此処で生活も出来よう。だが、明らかに冬っぽい森の中で食料を見つける事など出来るのだろうか。水は季節関係ないとしても、食べ物はやはり冬以外の方がある気もする。
考えていても始まらない。付近の探索を始めることにした。
あまり離れすぎると戻れなくなる。景色の似た森の中では、方向感覚など容易く失われてしまうだろう。出来るだけ視界に小屋が収まる範囲で、己は探索を始めた。
そしてすぐに気づいた。この森には何も無いと。
「……もしかして、何もないから誰もいないのか?」
拠点を作って暮らしていたが、冬になって食料がなくなった。だから小屋の主も旅立ってしまったのではないか。妄想なれど、なかなか説得力のある話だった。実際、己も当てがあるのなら、こんな森など出て行ってしまいたい。
だが、寝床と水はここにある。それを捨て置いてまで、ここを離れるというのか。
空腹が腹を鳴らす。多少は耐えられるとしても、多少を過ぎれば耐えられない。やがて動けなくなり、水も飲めなくなったところで、飢餓が己を殺してしまう。それをココで待つだけなのか。
いやしかし、ここを離れれば。同じ葛藤が頭の中をグルグルと巡る。
やはり牛丼を早々に食べてしまったのは早計だったか。過去を妬んでも仕方ない。
とりあえず一晩だ。一晩はここで過ごすことにしよう。
「シューッ」
背後から水蒸気の噴き出す音が聞こえる。なんだ戻って来たのかと、振り向いた所で腰を抜かした。
そこには水蒸気馬がいた。確かにいた。しかし、十体以上いたのだ。
その胴体はこちらを、いや己の方を向いている。
目も鼻も耳もないのに、間違いなく奴は己を認識していた。
慌てて小屋の中に飛び込む。こんなボロ小屋、目玉石の突進にも耐えられそうにないが。それでも何かの中にいなければ恐怖で動けなくなりそうだった。
恐る恐る、板の隙間から外の様子を窺う。
奴らは微動だにせず、ただジッと小屋の方に胴体を向けていた。
分からない。分からないことは恐ろしい。
歯がガチガチ鳴り始めたのも、決して寒さのせいではあるまい。なんだ、一体己をどうしたいと言うのだ。
襲うでもなく、助けるでもなく、日が落ちるまで奴らは小屋の外に立ち尽くしていた。




