第015話『3月15日』
翌日の朝になっても、彼女は戻ってこない。
まさか見捨てられたのかと動揺を覚える。こちらは適当に塗り薬を渡すだけの関係。いつ打ち切られてもおかしくないとは思っていたが、こんな早くに関係が破綻するとは。だからといって、何が出来たわけではない。
ただ、彼女の言動は関係を打ち切るそれではなかった。すぐに戻ってくる、という感じである。
あるいは、彼女の身に何かあったのかもしれない。
まあ、それが分かった所で己にはどうする事も出来ないのだが。
彼女について思案したところで、己はこの窪地を出ることすらままならない身。心配するだけ時間の無駄である。有り余るほどあるとはいえ、不安に駆られてストレスを溜めながら過ごす必要もない。不健全なだけだ。
だとしたら、やはり今考えるべきはあの看板と吊り橋であろう。一晩寝ている間に、ちょっと面白いアイデアを閃いていた。
「やっぱり、まずは看板なんだな」
崖を上る魔法はまだ残ったまま。落ちることなく上までたどり着けた。
そこには昨日あった吊り橋がなく、またしても例の看板が突き刺さっている。誰かがこっそり入れ替えているわけでもあるまい。この際、原理はもう考えないものとしよう。
ここから反対側に行けば、おそらくあの無限吊り橋があるはずだ。
「ふふふ」
しかし、今日の己は一味違った。反対側の崖を上るその胸には、目玉石が抱きしめられている。飼育方法の本に書いてあった。こいつは地面を転がっている時は狂暴そのものだが、抱きかかえられると途端に大人しくなる。地面の上でだけ、突撃馬鹿となるようだ。
勿論、急に愛嬌を覚えたから抱きしめているわけではない。正直なところ、今すぐにでも放り出したいぐらいだ。無駄に重いし、目玉が怖い。これを可愛いと称するセンスは、今でも理解できていなかった。
「よし、やっぱりあったな」
崖の上には吊り橋がかかっている。果てしなく続いているのに、風でビクともしない。見えない何かに固定されているかのように。
無論、己で渡ってみたいという欲求はまだ微かにあった。しかし今はそれよりも、試してみたいという気持ちの方が強い。
「さあ、お行き」
吊り橋の上に目玉石を置く。動物実験だという批難を受けるかもしれない。普段ならば、そういう批判にも心を痛めるだろう。だが状況が状況だ。ここで目玉石すら犠牲に出来ないのなら、動物愛護精神など纏めて投げ捨てる。
とにもかくにも、今は情報が必要だった。
己の視線に気づかず、目玉石はゴロゴロと吊り橋を渡り始める。
「危険はないようだ……な……」
安堵しかけたところで、言葉を失う。傍目からは、何の異常もないように思えた。目玉石を知らないままの己なら、安全じゃないかと胸を撫でおろしたところだろう。だが今の己は、本の知識とはいえ目玉石についても知識がある。
だからこそ理解してしまった。
目玉石は徐々に、その岩肌を黒く変色させている。あれは老化の症状だ。
老いれば老いる程、目玉石はその肌を黒くしていく。そして最終的には風化したかのように肌が砕け、最後は粉々になって消えてしまうのだ。死んでもゴミが残るだけだから、飼育するのはとても簡単だと血も涙もない文章が載っていたのを覚えている。
「まさか、進めば進むほど老いるのか?」
やがて己の目の前で目玉石は粉となり、消えて行った。目玉石の寿命はおよそ三十年。あの個体が何歳だったのかは定かではない。ただ老い方からして、一メートルで一年ぐらいの時間が経っているのではないか。
人間ならば、およそ八十メートルで死に至るだろう。到底、渡り切れるようなものじゃない。
「渡らなくて良かった……なっ!?」
目玉石に感謝しつつ、戻ろうとしたところで再び驚く。粉となって消えたはずの目玉石。そのちょっと先に、赤ん坊が出現したのだ。
少々離れたところに出現したので、それが己のよく知る人間と同じものかは分からない。ただ遠目からでは、普通の赤ん坊にしか見えなかった。
「なんで赤ちゃんが……」
目玉石を習うように、赤ん坊はハイハイで進んでいく。さすがに止めるべきか。しかし、赤ん坊の位置は数十メートル先だ。四十のおっさんがあそこまで行けば、年金を受け取れる年齢になるのは確実。
ましてや戻れる保証などない。さすがに吊り橋へ踏み出すことは出来なかった。
そうしている間にも、赤ん坊はいつのまにか子供になっている。
理解できない。どうして目玉石が人間になったのだろうか。
「石が人になった? 無機物を人間にする吊り橋なのか?」
悩んでいる間に、いつのまにか子供は老人になるまで進んでいた。己は黙ってそれを見ていることしか出来ない。あそこまで行けば、さすがにもうたどり着けない。
そして老人はバタリと倒れ伏せ、目玉石と同じように風に飛ばされ粉となっていく。それで終わりかと思いきや、そのちょっと先に見た事のない生物が現れた。
見た感じは猫に近い。ただ足は六本あり、背中にも六本の足があった。
「……転生」
ボソリと呟く。
目玉石が死に、人となり、人が死んで、別の生物となる。この現象に名前をつけるとすれば、輪廻転生が一番相応しい。生き物は死後に別の生き物となり、それを繰り返していく。具体的にどういう話なのかと言われたら困るが、そういう概念があることは知っていた。
この吊り橋で起きていることは、その輪廻転生によく似ている。
ただ老いるだけじゃない。来世まで時間を進めているのだとしたら。
一体、この吊り橋はどこに繋がっているのだろうか。
「っ!」
恐ろしくなり、己は慌てて崖をおりた。暢気に目玉石で実験だなどと、浮かれていた自らを恥じるばかりである。彼女が血相を変えた理由も今なら何となく分かった。あれは人間が関わっていいものではない。
陰陽師集団も、蒸気馬なんかに全力を出している場合ではないだろう。あの転生吊り橋こそ、破壊してしかるべき代物ではないか。とんだ節穴集団もいたものだ。と、心の中で悪態をついておく。
いずれにせよ、あれを脱出口とするのは不可能だ。自殺にしか使えない。いや、下手をしたら無限に転生し続けるのだ。意識があるのか無いのかは知らないのが、あれに飛び込むぐらいなら崖から飛び降りた方がマシである。
勿論、そのどちらも選ぶつもりなどない。
「なんとしても、俺は生きて帰るんだ。元の世界に絶対に帰ってやる」
決意を新たに拳を握る。
「でも、どうしたもんか。あの子も戻ってこないし。こんな浮島から脱出する手段なんて持ってないぞ」
意気込みは十分。しかし手段は皆無。
あるのは無限のメモ帳、無限のボールペン。動かなくなったスマホ先生に、先人のコップ。そして目玉石に赤い木の実。トゲトゲの葉っぱに蒸気馬が一頭。後は生まれ変わりの吊り橋だ。不思議レベルは圧倒的だが、役に立つものが赤い木の実しかない。
他はむしろ危険物だ。
「とりあえず待つしかないか」
元より出来ることは少ない。ならば彼女の帰りを信じて待つだけ。それ以外の選択肢など無かった。
隠し部屋には誰もいない。部屋の隅で蒸気馬がシューシュー唸っているだけだ。
積まれた本は文字が分からないので読めない。健康魔法は意味が分からないし、目玉石の本は穴が空くほど読んだ。待つのはいい。しかし、何もせず待つのはやはり暇を持て余す。
どうせなら外で待つのがいいかもしれない。そう思って隠し部屋を出てから気づいた。
「………………」
空から陰陽師らしき人物が降りてくる。集団ではない。今度は一人だけだ。
己は隠し部屋に戻ることも忘れ、ただじっとそいつを見つけ続けてしまった。
そして、陰陽師と目が合う。正確には陰陽師のかぶっているベールと目があった。
すぐに逃げるべきだ。しかし隠し部屋に逃げても意味はない。それに隠し部屋については知られない方がいいに決まっている。慌てて森の中に駆け出そうとしたが、すぐさま追いつかれて頭に強い衝撃を受けた。
「######!」
何かを叫んでいる。強い力がのしかかってきた。
地面に押さえつけられているのかもしれない。問答無用で爆破してきた割には、大人しい対応だった。
ただ意識は薄れていく。よほど強く殴られてしまったのだろう。
どうせ通じない。それを知りながら、
「何を言ってるのか分からねえよ」
とだけ言い残し、己は意識を手放した。




