第014話『3月14日』
当然の如く、己は吊り橋を渡らなかった。これが普通の吊り橋なら、恐る恐る先に進んだかもしれない。かくいう元の世界でも、観光地で何度か渡った事があるくらいだ。
大きなものではなく、吹けば飛びそうな吊り橋を渡ったこともある。だが、それはあくまで向こう岸が保証されているからだ。目を凝らしても見えないぐらい、遥か遠く先へ続く吊り橋を渡る気にはなれない。
そもそも、吊り橋とは言うが何に吊られているのかも分かっていなかった。普通、これだけ長ければ途中が弛むもの。それを防ぐ為に、所々に補強がされている。だが、この吊り橋にはそれがない。
ただ長く、それでいて全く弛んでいない。
こんな不思議吊り橋を速攻で渡るわけがなかった。
彼女がいなくなっていた為、一晩中ずっと悶々しただけだ。
彼女は馬鹿にするように笑った。
「先が見えない吊り橋? そんなもの知ってるわけないでしょ」
こちらからすれば、蒸気馬も無限吊り橋も大差ない。どちらも等しく不思議なものでしかないのだが。彼女からしてみれば、明確な違いがあるらしい。
「大体、ここは私が作ったわけじゃないもの。隠れ家に良さそうな浮島があるから、邪魔してるだけで。この隠し部屋だって、最初からここにあったのよ。まあ、中のものは私が運んできたんだけど」
だからこそ、ここには彼女が知らないものもある。ということか。
しかし、それにしたって吊り橋の存在には気づいても良さそうなものだ。よほどの馬鹿でない限り、ここへ降りてくる時に気付きそうなものである。
「来た時に気付かなかったのか?」
「少なくとも、私が来た時にそんなものはなかったわよ。空から見ただけで、崖の上に立ったことはないから。もしかしたら、そういうものを隠す魔法がかけられていたのかもしれないわね」
上からは見えないが、崖まで上れば見えるというわけか。ありそうだ。
それならば、陰陽師集団が気づかなかった事にも説明がつく。奴らも空から来ていた。
そして、そこまでして隠すからには何か理由があるのだろう。
俄然、先が気になってくる。
「行くのなら止めないけど。多分、危ないわよ」
先の見えない吊り橋だ。危ないに決まっている。恐ろしい怪物が待ち受けているかもしれないし、途中で吊り橋が落ちてしまう事も考えられる。己が知る物理法則が通用しない世界だ。何が起きても不思議はない。
「別に向こう側まで行こうってわけじゃないんだ。ただ、ちょっとだけ渡るだけで。危ないと思ったらすぐに引き返してくるよ」
「ふーん。戻れるといいけど」
つくづく彼女の発言は好奇心を殺してくれる。代わりに恐怖心が顔を覗かせるのだから困りものだ。
本日の塗り薬を渡し、隠し部屋を出る。
行くのはいいとしても、最低限の準備をしていかなければならない。何が起きるか分からないからといって、無抵抗で挑むのは馬鹿のすること。勿論、この閉鎖された空間で出来ることには限りがあった。
せいぜい持っていけるとしても、食料となる赤い木の実だけである。
「まあ、これぐらいあれば足りるだろ」
三つほどもぎ取り、崖を上った。
そして上り切ったところで言葉を失う。
そこには看板が立てられていた。
「……? 看板はあっちで、こっちには吊り橋があったよな?」
間違いないはずだ。いくら昨日のこととはいえ、さすがに忘れたりはしない。記憶喪失になったわけでもあるまいし、確かに吊り橋はこの崖の上にあった。
まさか消えたのか。それとも移動でもしたのか。
ただ一つだけ確かなのは、看板には昨日と同じように反対側を指し示す矢印が書き込まれていた。
「よし!」
己は慌てて隠し部屋に戻った。彼女は呆れ顔だった。
「あれだけ意気込んで出発したのに、もう戻って来たのね。とんだ臆病者がいたものだわ」
「いやいや、吊り橋を渡ろうとしたら看板があったんだよ。なんか吊り橋と看板の位置が昨日とは逆になってるのかもしれない。さすがに、これってヤバイよな?」
ただの消失なら、そういうものかと納得できる。しかし吊り橋と看板を入れ替える意味が分からない。まあ、他の生物は意味が分かったのかと言われたら答えはノーだ。今のところ、意味が分かった相手に出会ったことがない。
「看板? 待って、それは聞いてないんだけど」
「ああ、ヤバイのはどう考えても吊り橋の方だろうから。言ってなかったけど、最初の上った崖の上に看板があったんだよ。んで、文字は分からないけど矢印が反対側を指しててさ。その方向に進んだら吊り橋があったんだ」
いきなり彼女に胸倉を掴まれる。
「それを最初から言いなさいよ! この馬鹿!」
何を怒られているのか、全く理解できなかった。ただ彼女の表情には怒りと焦りが滲みだしている。蒸気馬を殺されたと知った時でさえ、こんな顔はしていなかったというのに。あの吊り橋に何があるというのか。
手を離したかと思ったら、ウロウロと室内を回り始めた。深く考え事をしているようで、話しかけるのも躊躇われる。
「ああもう! しばらく留守にするけど、絶対に崖を上るんじゃないわよ! 看板を見るのも吊り橋を渡るのも禁止! いいわね!」
「あ、ああ。分かった」
彼女を怒らせてまで、渡るつもりなどなかった。あの吊り橋の先がどこに繋がっているのかも分からない。まだ己には彼女という協力者が必要なのだ。その相手を捨てることなど、出来るわけなかった。
光と共に彼女の姿が消え、部屋には己と蒸気馬だけが残される。
さすがに、ここで崖の上に行くほど馬鹿ではない。ここは大人しく、彼女が帰るまで待っておくべきだろう。
そして己は崖の下にいた。
いや、上がろうというんじゃない。ただ無性に気になるのだ。この崖の上に何があるのかを。
己の好きな作品を批判していると分かっているのに、ついついアンチのアカウントが気になってしまうように。あるいはもっと単純にお化け屋敷とでも言うべきか。行くべきではないのに、どうしても行きたくなることがある。
そういう衝動が、己の背中を押していた。
ただ、一方で理性も働きかけてくる。彼女があそこまで動揺し、上がるなと命令してきたのだ。それを無視してまで、確認するほどのことなのか。
「どうせ看板か吊り橋があるだけだもんな。見るほどのことじゃないんだけど……気になるなあ」
別に、あるならあったで構わない。何も渡ろうと言ってるんじゃないのだ。
崖の上に何があるのか。確認したいだけで。ささっと済ませて終わらせれば、別に彼女も怒ったりはしないだろう。
そう決めたところで、どうにも足が動かない。
「失うものもないけど、得るものもないからなあ」
人間はどうして、無駄だと知りながらもやってしまうのか。哲学的な話にすらなりそうなぐらい、己は自問自答していた。
引き返せばいいだけなのに、それが出来ない。じゃあ上ればいいじゃないかと言われても、それもどうだろうと悩む。
なんとも中途半端な状態だった。
「えっ!」
仄かな温かみを下半身に感じる。ありえない。気が付いたら、いつのまにか失禁していた。
いや、そんなはずはないだろう。ここは誰も見ていない森の中。尿意を催せば、その辺りで適当にすればいいだけだ。彼女は滅多に出てこないし、今は留守にしている。見るのはせいぜい目玉石ぐらいだ。
今までも、そうやって立ちションをしてきたじゃないか。何を今さら、失禁などする事があるのか。
しかし、実際己のズボンはぐっしょりと濡れていた。
そこで気づく。いつのまにか己は排尿するという行為すらも忘れるほど、悩み続けていたのだと。
「よりにもよって、この年で……情けない」
泣きそうになる。年齢一桁のおねしょとは違うのだ。四十になったおっさんの失禁ほど、悲しいものはない。勿論、通勤電車の中で尿意や便意に襲われた経験も一度や二度ではなかった。その度に歯をくいしばり、何とか耐えてきたじゃないか。
それなのに、こんな悩みで漏らしてしまうなんて。
慌ててズボンを脱いで、水飲み場で洗い流した。渇くのに時間がかかりそうだけど、そのまま履き続けるほど豪胆ではない。
昨今では禁止されているという体育座りをしながら、ぼんやりと空を見上げた。
「つーか、何をそんなに悩んでたんだろうな。俺。ハハハ」
馬鹿馬鹿しくなってくる。崖の上とかどうでもいいではないか。なにしろ、こっちは漏らしたおっさんだ。これ以上に酷いものがこの世にあるだろうか。
崖の上に何があろうと、己が漏らした事実は変わらないのだから。
「……まさか、そこまではやってないよな?」
さすがに大までやってはいなかった。その領域に達していたら、己は出家して坊主になっていたかもしれない。
そう考えたら、むしろ小である事に感謝しなくては。最低限の尊厳は守れたのだから。
「うんうん、そっちは我慢できたんだから。俺は偉いよな」
誰も褒めてくれないので、己が褒めておく。それぐらいしないと、微かなプライドが消えてなくなりそうだった。
そうして己はパンツ一丁で乾くのを待ち続けた。
ただズボンは乾いたが、結局彼女は戻ってこなかった。




