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第001話『3月1日』


 未来に希望を見いだせないので、日記を残そうと思った。


 齢は四十。名は東雲誠也。しがない企業に勤めるサラリーマンである。

 働き過ぎず、怠け過ぎず。程よい職場環境に満足しており、とりたて出世欲のないどこにでもいる普通の人間だ。

 コンビニで日課の牛丼を購入し、いざ帰宅と鍵を差し込んだところで気づいたら森の中にいた。

 比喩でも何でもなく、文字通り目の前に森が現れたのだ。

 酒は嗜まない。薬など言語道断。それなのに幻覚を見るものか。

 思わずつねった己の頬が痛む。


「なんだ……これは……」


 親切丁寧に教えてくれる者などいない。森があるだけだ。

 振り返ったところで、それは変わらない。気付いたら己は森の中に存在していた。

 意味が分からない。

 思わず座り込む。緊急事態だ。こういう時はまず冷静さを失ってはならぬ。

 とにかく落ち着くことだ。そう己に言い聞かせても、鼻をくすぐる自然の匂い。尻から伝わる土の冷たさ。聞いたこともない得体のしれない鳴き声。

 さて、これで冷静でいられる御仁がどれだけいるだろうか。

 少なくとも東雲誠也はそこに分類される人間ではない。


「眠らされて、どこぞの森に放り込まれたのか? いや、俺を誘拐して何の得になるというんだ。まさか殺し合いか? 牛丼で人が殺せるだろうか……」


 一通り混乱し、一通り絶望し、空腹だったので牛丼を食べた。

 コンビニの牛丼も進化している。容量だけは何故か退化しているが、味を考えればトントンというところだろう。そう、何事も考え方次第でどうとでもなるのだ。何となく牛丼にそう励まされた気がする。ありがとう、底上げ容器。

 よし、と気合を入れて立ち上がる。


「落ち込んでいても始まらないな。とりあえず迷った時は頂上を目指そう」


 テレビか本か。遭難した時の対処法にそう書いてあった。下手に下山するよりも、頂上を目指した方が道を見つけやすいらしい。

 しかしよく考えれば、ここは鬱蒼と茂る森の中。いや、そこまで鬱蒼と茂っているわけではない。よくよく見れば枯れた木々も多い。

 時期は冬。むしろ常緑樹がこれほどある方が珍しいのだが。


「うーむ、それにしても頂上はどこだ?」


 平坦な地面だ。勾配が分からない。

 そもそも人が舗装してくれた道があるのかすら分からない。

 よもや未開の地にでも放り込まれたのか。

 とにかく、己に出来ることは歩くことだけだった。


「しかし肌寒いな。誘拐犯も気をきかせて防寒着の一つでも羽織らせてくれればよかったのに」


 吐く息は僅かに白い。夜も更けてきたところだ。寒さはますます厳しさを増していく。

 いや、それはおかしい。そうおかしいのだ。

 空を見上げれば、そこには燦燦と輝く太陽。仕事を終えて帰宅した頃には、とうに夜だったというのに。どうしてまだ空に太陽が浮かんでいるのだろうか。

 まさか翌日まで眠らされていたのか。はたまた夜という概念が滅んだのか。

 常識的に考えれば前者だろう。そうなると、ここは安眠できるほど快適な場所だったことになる。本気で殺し合いでもさせるつもりかと訝しんだが、そういうわけでもないのか?

 疑問符を浮かべながら歩く。

 地面に目の生えた石が落ちていた。


「…………」


 唐突すぎて驚いたが、そう表現するしかなかった。己の頭ぐらいある石ころに、拳ぐらいの大きさの目玉がついていた。何度も瞬きをしながら、目玉はこちらを凝視している。

 誰かが悪戯に描いたわけではない。

 己の目が二つあることを確認しつつ、恐る恐る身をかがめた。


「なんだこれは?」


 石のような生物がいても不思議ではないが、こんな不気味な生物は初めて見た。捕まえて発表すれば、どこぞの新聞社が取材に来そうだ。

 目玉石はパチパチと瞬きをすると、不意に目蓋を下ろして転がってきた。


「うおっ!」


 片足をあげて回避する。避けなければ脛あたりに直撃していたことだろう。

 なんだこいつは。石のくせに獰猛で素早い。

 おまけにしつこかった。一度の攻撃失敗ではめげず、再び転がってこちらに襲い掛かってくる。


「なんだなんだ!」


 冗談ではない。こんな森の中で骨の一つでも折れてみろ。後は獣の餌になるのを待つだけだ。

 得体のしれない目玉石から慌てて逃げ出す。久しぶりの全力疾走。なかなかに肺を酷使してしまったようだ。息が切れて仕方ない。

 だがい幸いに、あの目玉石からは逃げ切れたらしい。追いかけてくる様子はない。

 一息吐き、天を見上げた。

 枝からハサミが生えていた。


「…………」


 さて、意味は分からない。己の知る限り、ハサミは作るものだ。間違っても木から農家が収穫するものではない。

 目を凝らしてよく見る。なんのことはない。己がハサミだと思っていたものは、ただの鋭い葉っぱだった。なまじ銀色に輝いているだけに、ハサミだと勘違いしてしまったのだろう。

 これで一安心と安堵出来ればどれほど良かっただろうか。そうハサミのような鋭い葉が己の頭上で茂っていた。


「頼むから落ちてくるなよ」


 ゆっくりと木下から離れる。いくらなんでも人を切り裂くほどではないと信じたいのだが、いかんせんあの目玉石を見た後だ。トンデモに慣れかけている脳みそが、さっきからしきりに警鐘を鳴らしていた。

 だが、あと少し。あと少しで逃げられると思ったら、すぐそこに目玉石が転がっていた。

 まあ落ち着こうではないか。君がどういう目的で転がっているのか知らないが、この状況が分からぬわけではあるまい。その目玉が飾りでないのなら、どうすればいいのか君にも理解できるはずだと。

 そう説得する暇もなく、目玉石は転がってきた。


「うおおおおおおお!」


 雄たけびをあげながら、跳躍して転がる。何も対抗意識が芽生えたわけではない。それぐらいしなければ、避けられないと思っただけだ。

 目玉石は転がり続け、そのまま木に衝突。弾みで落ちてきたハサミのような葉っぱは地面と一緒に目玉石も切り裂いた。

 切り傷だらけの目玉石は緑色の粘液を垂らしながら、ピクピクと痙攣した後に動かなくなる。


「転がったお前が悪いんだ。成仏しろよ」


 南無と手を合わせ、そのまま腕を組む。

 さて、そろそろ現実と向き合おう。てっきりこの身は誘拐され、名前も知らない国の森で殺し合いでも強要されるのかと思っていた。しかし、転がる目玉にハサミの生える木。いくらなんでも、これが現実のモノとは思えない。

 あるいは仮想現実かとも考えるものの、ここまでリアリティのあるVRが存在するものか。


「…………異世界とかな。いやまさか」


 昨今ブームでもあるが、それは物語。間違っても現実で異世界転移など起こるわけがない。

 ならば、この生物や植物は何かと問われたら返答に困る。


「まさかとは思うけど、いやだけどなあ。うーん。ステータス」


 作法に則り、とりあえず呼んでみる。当然の如く、ゲームのようなステータス画面は現れない。当たり前だと納得する反面、どこか残念な気持ちもあった。

 日常生活には満足している。しかし刺激に飢えている側面もある。創作物でしか味わえない体験が出来るとなれば、多少危険があっても胸躍らせるのが男子というものだろう。四十になっても、男の心には少年が住んでいるのだ。


「チートな力も感じられないし、それっぽいアイテムも無い。となると、やっぱり現実世界か? じゃあ、あの生物はなんだよ……」


 手元にあるのは牛丼の入っていた容器。生憎と鞄の類は持っていない。鍵を開ける時に置いてしまったから。それは連れてこられなかったのだろう。

 後はスマホと、


「ん?」


 内ポケットから見覚えのない手帳が出てきた。ちょうどそこに収まるぐらい具合がよく、入れていたことすら分からないぐらいだ。いやそもそも、手帳など持っていなかったのだが?

 栞の先にはボールペンがついている。珍しいタイプの手帳だ。


「!」


 だが表紙を見て驚いた。

 そこには古めかしい字で『無限手帳』と書かれているではないか。


「おいおい、もしかして!」


 俄かに意気消沈していた気持ちが奮い立つ。まさかそうなのか。違うと思っていたのだが、もしかしてそうなのか。

 逸る気持ちで表紙で捲り、そしてすぐさま絶望した。

 曰く、この手帳は無限に書き込めると。そして付属のボールペンは無限に書くことができるらしい。

 以上だ。


「…………」


 チートである。まごうことなきチートだ。

 これさえあれば二冊目の手帳を買うこともいらないし、ボールペンが切れて文房具店に走ることもない。一生書くには困らないだろう。

 だからなんだというのだ。

 途方に暮れ、悲嘆し、悲しみを表現する単語が尽きたところで己は日記を残すことにした。

 もしかしたら、いつか己の白骨死体が発見されるかもしれない。その傍らには、この日記が落ちていることだろう。

 これを読んでいる者がいるのならば、どうか覚えておいてもらいたい。

 齢は四十。名は東雲誠也。

 その男が、死ぬまで生きていたということを。


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