聖骸
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ニナは聖女の世話係である。
仕事は尊い御身を清め、身支度を整えること。たったそれだけ。
それ以上のことはやりようがないのだ。何しろ聖女は死んでいるので。
ニナが暮らす国で一番権威ある大聖堂には、聖骸というものが保管されている。
十年以上前に勇者と共に魔王を倒し、その後、魔族の残党と相討ちになって命を落とした聖女の遺体だ。
聖骸は大切に保管されているだけあって、実に霊験あらたかだ。触れただけで不治の病すら治ると言われている。
そのため大聖堂は煌びやかな特別製の棺や法衣を彼女のために用意した。
豪華すぎて、栗色の髪に優しげな顔立ちの聖女には似合わないとニナは思っているが、来る人すべてが美しいと誉めそやすため、彼女がおかしいのだろう。
高い寄進をしてたくさんの人々が聖女に会いに来る。
毎日側にいるニナに奇跡とやらが起こったことはないが、客人たちには効果のほどに実感があるらしい。それはもう大袈裟なほど喜び、何度も寄進して通う者もいる。
ニナは聖女の隣でその様子を無感動に見つめて、一日の終わりに無遠慮に触られた聖女の身体を優しく清める。
「今日も大変でしたね」
その間聖女に話しかけるのが、彼女の日課だった。返事は勿論ない。
ないけれど、生者に無視されるニナにとってこの遺体だけが話し相手だった。
「なんでしたっけ。あのよく来る長ったらしい名前の貴族……。聖女様の手に何度もキスして、気持ち悪かったですね。よだれをつけないでほしいもんです」
そう言いながらニナは聖女の手の甲を念入りに、かつ優しく拭う。ちょっと失礼して臭いを嗅いだ。
少し異臭を感じる。ニナは花の香りのする水が入った桶でしっかり布を濯ぐと、きつく絞ってもう一度手を清拭した。
全身が綺麗になったら、次は香油を身体に塗り込んでいく。高級品を使っているからか、神の奇跡なのか、聖女の肌は生きているのではと疑いたくなるほど瑞々しい。
けれどもその手はいくつものまめやあかぎれがあった。
聖女は死体だから、生前負った傷は亡くなった時のまま、治っていない。それがニナは好きだった。生前の彼女がどんな人物だったかが見えるような気がするからだ。
そう、ニナは死体の聖女しか知らない。
彼女が聖女の世話係になったのは七歳の頃。魔族に家族全員を殺され、孤児院に保護されたニナはひとりの司祭に猫の仔のようにぞんざいに連れ出された。
そして、この聖女の霊廟へ来た。それからずっと、ここから出たことはない。
多分、死ぬまで世話係をやるのだろうと、ニナは思っていた。
◇◇◇
それは魔王討伐記念日を祝う祭の前日のことだった。明日の祝祭で、聖骸は年に一度一般公開される。
だから、その日は聖なる力を高めるためという名目で、霊廟は完全に閉じられていた。
ニナにはよくわからないが、こうして一日俗世のものを遠ざけることで聖女の力は増すらしい。翌朝には司祭や修道女たちが聖女を連れて行く予定だ。
ニナは霊廟に留守番である。つまりは約二日間、ニナは断食状態になるのだが、毎年のことだと慣れっこだった。
そう、その日は去年と同じく、彼女が聖女に話しかけ続けるだけで終わるはずだった。
その男の出現は、唐突だった。本来開かないはずの、たった一つの扉を通って堂々と現れたのだ。
あるはずのない訪問者にニナは固まった。
「聖女を迎えに来た」
男は見たところニナより少し年上で、修道士の服を着ていた。しかし、聖職者にしては体格が良くすぎる上に、雰囲気も荒んでいる。
ニナは警戒した。聖女を霊廟から出すのは翌朝だ。
ここに窓はないが、大聖堂の鐘は二回しか鳴っていない。まだ午前中だとわかっていた。それに、迎えはいつも、もっと大人数で来るのだ。明らかにおかしい。
警戒を露わにするニナに、男は面倒くさそうに頭をがしがしと掻いた。
「あー……。バレるよな。まぁ、いいか。おい、あんた。騒ぐなよ。声も出すな。痛い思いはしたくないだろ?」
にやりと笑い、脅しをかけてくる男を睨みつける。ズカズカと大股で近づいてくる彼に何をされるかと身構えた。
「大人しくしてればあんたにはなんもしねぇよ。言ったろ? 用があるのは聖女だ」
「聖女様に……何をする気?」
奇跡の力を持つ聖骸を盗むつもりだろうかと、ニナは聖女を男から隠すように立った。
彼女にとってこの遺体だけが生きる意味、生きる場所だ。ここと同じように金持ち相手に奇跡を売るつもりなら、ニナから聖女を奪わないで欲しかった。
男は立ち塞がる彼女を嘲るように笑う。
「聖女をここから連れ出して、弔う。当たり前のことをするだけだ」
予想とは違う言葉にニナは意表を突かれた。
弔う。ここへ来て、そんなことを言う者は初めてだった。
誰もが奇跡に縋り、彼女が物言わぬ死体だからと自分たちの都合よく使った。そうして助かった人はたくさんいるのだろう。
でも。
でも、もう聖女は死んでいるのだ。その死が彼女の納得いくものだったのか、ニナは知らない。知らないが、もう終わらせるべきではと、ずっと思っていた。
数多の人にたくさんの奇跡を起こしても、聖女自身の手のあかぎれやまめ、恐らく彼女の命を奪っただろう胸に空いた大きな穴は、治らない。ここにあるのは確かに土へ還すべき死体なのだ。
「あなた、生前の聖女様の知り合い?」
「……一緒に戦っていた」
「そう。ならいいよ。連れて行っても」
ニナは大人しく身を引いた。男は拍子抜けしたような顔をしている。
「聖女を守らなくていいのか?」
「わたしは世話係で、護衛ではないもの」
「……それじゃ、遠慮なく」
男はそう言って棺から聖女を抱き上げる。その手つきは壊れ物を扱うよりも慎重で、確かに聖女の知り合いなのだと確信できた。
その様子を少し離れてぼんやり見ていたニナは、これからのことを考える。
聖女がいなくなれば、彼女はお役御免だ。ただ役目がなくなるだけではなく、きっとこの件に関して責任を取らされるだろう。
それで死ぬことになっても、ニナは構わなかった。
家族はもう誰もいないし、唯一の縁である聖女も死人だ。どこにも彼女の未練はなかった。
聖女を抱えた男はこちらに背を向ける、ことはなく、何故かニナを見て舌打ちした。
「おい、あんた。何してんだ。さっさと来いよ」
「え?」
「世話係だろ。死化粧だのなんだのをやってくれ」
「……一緒に行っていいの?」
「俺は化粧なんざやったことねぇぞ。落書きみたいになってもいいのか」
「そ、それは駄目!」
ずっと大切にお世話してきた方である。最期は綺麗な姿で送りたい。ニナは慌ててメイクボックスを持つと、男の後を追った。
◇◇◇
大聖堂からの脱出は、よくわからないうちに終わった。ニナは男に言われるまま、まったく知らない廊下をついて歩いている内に外に出ていたのだ。
男は手際よく幌馬車の荷台に聖女の遺体を隠すと、修道服を脱いだ。その下にはいかにも平民らしい服を着ている。
尤も、雰囲気が剣呑すぎて堅気にはとても見えないが。
「お前も聖女と一緒に隠れておけ」
男はぼんやりするニナを荷台へ押し込むと、すぐに出発する。
ちょうど大聖堂へ物資を運び込む時間だったのか、周囲には似たような馬車が複数あり、不審な彼女たちを見咎める者はいなかった。馬車は恙なく街へと紛れ込んだ。
「わあ……!」
こっそりと外を覗いたニナが歓声を上げる。大聖堂に来る時に一度だけ見た魔物に荒らされた街並みは、様変わりしていた。
新しく建て直された立派な建物は色とりどりの布やリボン、たくさんの花、そんなもので飾り付けられている。勿論それが日常ではなく、明日の祝祭のためのものだとニナにもわかっていた。
「外はこんな風になってたんだ!」
「……初めて見るのか?」
「うん。わたし、あそこから出たことなかったから」
この活気も、聖堂の奥深くにある霊廟には届かない。そもそも世話係になったあの日から霊廟からすら出ていないニナには、復興が進んだ街のすべてが新鮮だ。
「きれいだね。きれいになったね。聖女様が魔族を全部倒してくれたおかげだね!」
「……ああ、そうだな」
「すごいな。やっぱり聖女様はすごい人だったんだ!」
ニナは素直に感嘆し、聖女を誉め称えた。勿論聖女だけの功績ではないことは理解していたが、人々の先頭に立って戦ったのが聖女だ。今の活気は聖女あってこそだろう。
「ねえねえ」
「なんだよ」
「あなたは生きてる頃の聖女様を知っているのよね? どんな人だった?」
ニナはずっと聞きたかったことを口にした。御者台に座る男は彼女からは背中しか見えず、どんな表情をしているかわからなかった。
「……優しい人だったよ」
「そうなんだ。確かに優しそうな顔してるもんね」
「顔に騙されんな。こう見えて割と気が強いし、口も悪い」
「優しい人って言ったじゃない」
「……まあ、なんだ。そこらへんにいる元気な女と変わらねぇよ」
「何それ、わかんないよ。……実際に会ってみたかったな」
そこらへんにいる元気な女というものが世間が狭いニナにはわからない。とりあえず流れる街並みにいる女たちを見た。
開けっ広げに笑う彼女たちはいかにも楽しそうだ。
聖女もかつてそんな風に笑っていたのかと想像する。静かで穏やかな今の死に顔よりもずっと素敵だっただろうなとニナは思った。
そんな彼女を見てみたかったが、残念ながら想像することしかできない。
「……本当は」
男はぽつりと呟いた。ガタガタと鳴る車輪の音にかき消されそうなほど小さな声だった。
「聖女は死なずに済んだかもしれないんだ」
「そうなの?」
「ああ。魔王を倒したのは、聖女だけじゃない。それは知っているだろ?」
「うん。勇者様と魔法使いと騎士が一緒だったって聞いたことあるよ」
「魔族の残党と戦う時、聖女の隣にそいつらはいなかった」
「なんで?」
真っ先に聖女と共に前線に立つべき人物たちだ。ニナは目を丸くした。
「勇者が王女を娶って今の国王になったってことくらいはお前も知ってるな?」
「それくらいは知ってるよ!」
勇者と王女の恋物語はこの国の誰もが知っている。小説に、舞台に、絵画にと、様々なもののモチーフになっていると、世間知らずのニナでも知っていた。
「当時勇者は王女と結婚したばかりでな。……そんな危険な戦場に行かないでくれと王女に反対されたんだ」
「えっ……。気持ちはわかるけど、そんな理由で行かなかったの?」
新婚なのに夫が戦場へ旅立ったらそれは不安だろう。だが、相手はあくまで残党。もっと強い魔王を倒した四人が揃えば余裕で倒せるのでは、と素人のニナは思ってしまう。
「騎士と魔法使いは元々王国に仕えていたから王女に反対されたら城を離れられない。魔族の残党の前に立ったのは聖女と、自ら志願した兵士と呼ぶのも躊躇われる義勇兵だけ。……俺もそのひとりだった」
「でも、勝ったんだよね?」
「聖女の命を犠牲にしてな」
義勇兵たちは意気込みこそあったが、ほとんど戦力にならなかったらしい。
軍の要は聖女だと早々に気づかれ、魔族たちはみな彼女に集中攻撃した。魔族に特効を持つ聖女であっても、多勢に無勢。それでも執念で相打ちに持ち込んだ。
「一度、言ったんだ。一緒に逃げようって。このまんまじゃアンタが死ぬ。アンタがいなくっても勇者や他の連中がいるんだからここは多分大丈夫だって」
「……聖女様は、逃げなかったんだね」
「ああ。『逃げたらわたしは楽になるけれど、死ななくていい人が死ぬから嫌だ』って断られた」
聖女はいつでも自分の背後にいる、戦えない誰かのことを考えていた。名も無き彼らの平和を一番に祈っていたのだ。
「……そんなお人好しだから、死んでも悪い連中に利用されんだよ」
男は吐き捨てるように言ったが、声はどこか悲しげだった。命懸けで民衆を守った聖女の死後を守れなかったことを不甲斐なく思っているのかもしれない。
馬車は恙なく王都の城門まで辿り着き、問題なく通過した。驚くほどスムーズである。それだけ男が周到に準備していたということだ。
王都を出たニナは後ろを振り返る。幌に切り取られた景色の中には、小さくなった王城と大聖堂が見える。
まだ空は明るく、日の入りまでは遠い。夜になるまでに男はもっと遠くまで聖女を連れ去るだろう。
もう屋根しか見えない大聖堂を見て、ニナはいつかはこんな日が来るかもしれないと思っていた過去を思い出す。
それは、新月の夜のこと。
一際暗いその夜に、必ず霊廟に忍んでくる人物がいた。
窓もなく、明かりを落とした霊廟は鼻の先すら見えないほど暗い。
そんな中、隅っこで丸くなって眠るニナは微かに聞こえる声とランプにぼんやりと浮かぶ誰かを見た。
彼はいつも持ち込んだランプで聖女の棺を照らし、何か話しかけているようだった。
それに気づかないふりをしていたのは、いつか彼が聖女をこんな場所から連れ出してくれるのではないかと思ったからだ。
今この馬車を操っている男ではない。声が違う。
毎月現れていたのに、結局彼は聖女に何もしてくれなかったと、遠ざかる王都を見ながらぼんやりと思い出していた。
◇◇◇
「着いたぞ」
そう言われたのは、空に月がかかる頃。馬車が止まったのはなんの変哲もない、森の中にある野原だった。
「化粧をしてやってくれ。あと、これに着替えさせてほしい」
男はニナにそう指示すると馬車から降りた。
ニナは特に疑問もなく、言われた通りにする。これくらいの時間はいつも聖女の寝支度を整えているので、ある意味いつもと同じだった。
それでもこれが最後だと思うと特別に感じる。
男の用意した服を確認したニナは悩みに悩んでから道具を手にとった。
化粧はいつもよりずっと薄く。しているかわからないくらいに留める。そして、豪華な衣装を脱がせて、実に簡素な白いワンピースを着せた。
出来上がった聖女の姿は、垢抜けない素朴な娘だ。
でも、ニナはそれが一番似合っていると思った。
木綿の、着心地の良さそうなワンピース。きっと聖女はこんな服が好きだったのだろう。
そうしている間に準備が整った男が馬車まで戻ってきた。すっかり様変わりした聖女を見てふっと笑う。
「うん、こっちの方があの人らしい」
そう言って、聖女を抱き上げた。野原に向かって歩き出す彼の後を追う。
「……すごいおっきな穴」
「これくらいしっかり掘らないと獣に荒らされんだよ。お前はそこで止まれ。落ちると怪我じゃすまねぇぞ」
「ひとりで掘ったの?」
「他の奴なんて信用できるかよ」
野原にはぽっかりと大穴が空いていた。男が聖女を抱えて慎重に降りて行く。柔らかな土の褥が彼女の終の寝所になるようだ。
「お花はないの?」
穴の底に聖女を寝かせて上がってきた男にそう尋ねた。
ニナの家族は魔族に食い荒らされて墓すらないが、せめてもの弔いにと野花を摘んで家のあった場所に供えた。
男は花の代わりに小さな袋を彼女に投げてよこす。
「なぁに、これ」
「花の種だ。聖女の生まれ故郷の辺りで咲く、ごくありふれた花のな。死に際に、供えてくれと頼まれた」
何故種なのかというと、ここらへんの気候はこの花には合わず、生花が手に入らなかったらしい。
「咲くかどうかはわからんが、墓前に蒔いとく。本当は故郷まで送ってやれれば良かったんだが、明日には聖女を連れ出したことがばれて追手がかかるだろうから、ここが限界だ」
転移魔法が使えればな、とほんの少し悔しそうに男は呟いた。
転移はかなりの高等魔法で、この国では勇者か彼と共に戦った魔法使いしか使えない。生前の聖女ならもしかしたら使えたかもしれない。
「ほら、埋めるぞ。何か言いたいことがあれば言っとけ」
「はい」
男に促されたが、改めて伝えたいこと、と言われても思い浮かばない。
せいぜい孤児の彼女の居場所になってくれたくらいだ。聖骸があったから、世話係のニナはここまで大人になれた。
「今まで、ありがとうございました」
だから、それだけを言った。聖女は死体であるので、もう意識などない。でも、感謝の気持ちは伝えておきたかった。
「……じゃあな」
男は意外にもさっぱりした別れの挨拶を贈ると、穴に向かって両手をかざす。
ふわふわの土が聖女に被さっていく。男が魔法で操っているのだ。土によって聖女はたちまちのうちに見えなくなり、穴は完全に埋まった。
ニナと男はしゃがみこんで、柔らかい土の上に花の種を蒔く。芽が出ますようにと祈りながら。
夜風が吹き抜け、寒くて少し震える。隣の男が立ち上がるのがわかったが、ニナは微動だにしなかった。
彼女に行きたい場所はどこにもない。だからこれからは聖女の墓守をするのだ。
「お前、何やってんだよ。行くぞ」
「えっ?」
声をかけられ、ニナは驚いて男をふり仰いだ。
「行くとこないんだろ? しばらく俺が面倒見てやるよ」
「でも……。聖女様のお墓の世話が……」
「元々聖女の世話係してたアンタがここにいたら、墓の場所がバレるだろうが。また大聖堂に戻されるぞ」
「それは駄目!」
ニナは慌てて立ち上がり男の後を追った。けれども途中で立ち止まり、振り返る。
「……わたし、もうここには来れないの?」
「四六時中いるのがまずいってだけだ。来年、あの花が咲く頃にまた連れてきてやるよ」
「本当!? ありがとう!」
ニナは憂いなく男と一緒に馬車へ乗り込んだ。すぐに馬車は走り出す。
「もう暗いからそんなに移動はできん。野宿になるぞ」
「うん、わかった。昔はよく外で寝てたから大丈夫」
家を焼け出されてからしばらく、孤児院に引き取られるまで彼女は雨風すら凌げない野外で寝るなんてよくあったことだ。普通の野宿に抵抗はない。
「あのね、わたし、ニナっていうの」
ふと名乗っていなかったことを思い出して名乗ると、「ロイスだ」と簡潔な返事が返ってきた。
「そんなに長い付き合いにはならないだろうがよろしくな」
「うん、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げてから、ニナは後ろを振り返った。
幌に切り取られた景色は、昼間の騒がしい王都とは正反対だった。
さわさわと風に揺れる梢や、虫や梟の声ばかりが聞こえる、静かな森。
まだ魔族のいた頃、夜はこんなに優しいものではなかった。闇には必ず魔の者が潜み、虎視眈々と人間の命を狙っていた。
そんな時代を終わらせた聖女の墓は森の中のぽつんと開けた野原にある。今は掘り返したばかりの土が剥き出しになっているが、その内また草が生えてきて、どこにあるかわからなくなるのだろう。
それでいいと、ニナは思った。
世の中のすべての人へ、穏やかな夜を取り戻した彼女だが、本人には安らげる夜などなかったのではないか。なら、せめて死後くらいは誰にも邪魔をされずに眠ってほしい。
「おやすみなさい」
ニナは最後の就寝の挨拶をした。
聖女の墓はどんどん遠ざかっていく。その内に夜の帳に沈み、見えなくなった。
千年以上前、世界は魔族というものに脅かされていた。彼らは人間よりも長く生き、強靭な肉体を持ち、残逆な性格をしていたらしい。
人間を襲って喰らったり、はたまた捕らえて奴隷にしたりと、先祖たちは常に怯えていた。
そんな世界を平和にしたのが、聖女と呼ばれたひとりの女性だ。彼女は神に遣わされた存在であり、特別な力でもって魔族を圧倒した。
最後には魔族をすべて討ち滅ぼした英雄である。
ただ、現在聖女に関する資料はほとんどない。生まれも、育ちも、名前すらわからない有様だ。
聖女が生まれたと言われているかつてあった国の歴史書には、聖女はその王国の王女であり、共に戦った男と結婚し、国を治めたと記されている。
しかし、同じ時代に生きた騎士の日記には聖女は魔族と相討ちになり、死亡したと書かれており、さらに別の貴族の日記には、大聖堂で亡くなった聖女の遺体を聖骸として保管しているとも書かれていた。
真実が奈辺にあるか。後世の我々には及びもつかないことである。
ただ、純然たる事実として聖女の亡骸は未だに発見されていない。
そして、その王国の歴史書は近隣諸国の歴史書と比べてみると自国に都合の良い改変がされた記述が多いということだ。
聖女にはまだまだ謎がある。
聖女が生まれたとされる国の王都があった場所から、少し離れた森の中に「聖女の花畑」と呼ばれる野原があるのだ。
一面同じ種類の花が咲き乱れるその場所が、どうしてそう呼ばれるようになったのか。由来はわかっていない。
ただ、その花は本来もっと暖かい地方でないと育たないらしい。聖女と関わりがあるのか、それともただの偶然なのか。
それはわからないが、美しい花畑は近隣住民の憩いの場所になっている。
(あとがき)
ヨーロッパの方とかよく教会で聖人のご遺体を大事に保管してるよね、ってところから思い浮かんだ話です。
上に書いた通り聖女の墓は謎なまま。多分ロイスとニナしか知りません。二人の付き合いはその後も長く続いたでしょう。
勇者とか王女とかそこらへんが気になる方もいるかと思いますが、ご想像にお任せします。まぁ、でも、国は無くなってますし、聖女以外の人の功績は後世に残ってません。
最後までお読みいただきありがとうございました。