第百八話 無限遠点を越えて
麻痺、吐き気、頭痛、眩暈、幻覚、酩酊、皮膚の軟化、傷口の腐食。
それらが一度に襲い掛かり、ライガーは前後不覚に陥った。
しかし、彼は一流の冒険者だった男だ。
「ガァァアアアアアッ!!」
あらゆる異常に襲われながらも、戦うことを止めなかった。
高速で迫り来るライナーに対して、過去最速の動きで。
大上段から大剣を振り下ろす。
「甘いッ!」
だが、それを読み切ったライナーは身体を数センチ右にずらし。
勢いを殺さないまま、ライガーに体当たりをした。
「これで、本当に終わりだ」
ライナーは組みつくと、ライガーの身体を抱えて急激に加速する。
「これが……文句なしの、最高――最速!」
「グアァアア!?」
言い終わらないうちに、世界が遥か後方へ流れて行った。
昨日までの限界を超えて。
音速の十五倍速に到達して、なお、更に加速する。
「――出力、解放!!」
「ライナァァアアアアアア!!」
空気との摩擦で生まれた灼熱の炎を纏いながら、ライナーは天空を翔け上がって行く。
熱に焼かれたライガーの身体が崩壊し、再生が間に合わない残滓がこぼれ落ちていくが。その全てを上昇気流で巻き上げて、ライナーは突き進む。
肉片一つでも残れば、再生するかもしれない。
塵一つ残さずに運ぶ必要があった。
それに――まだ速さが足りない。
「まだだ! もっと速く!」
最低目標である音速の二十三倍を突き破った辺りで、ライナーの身体にも異常が起きた。
手足の震えが止まらず、全身の血管が切れるほどの圧力を感じている。
加速は緩やかになり。限界ギリギリまで振り絞っても速度が上がらなくなってきた。
それでも止まらず、彼は更に上を目指す。
「あと、少し……!」
徐々に薄くなる空気を、精霊術で無理やり確保して加速を続ける。
昇れば昇るほど、負荷は増えていくが。
それでもライナーは止まれない。
「ら、ライ、ナ」
崩壊していく父の姿。
呻く声は、彼の最期を思い出させた。
それを皮切りに、思い出が走馬灯のように蘇ってくる。
助けを求める人々を救う、無双の英雄。
彼がいくら強く、不敗を誇ったとしても。間に合わないことは多々あった。
依頼先に到着した頃には村が襲われた後で。残されたものは、無残に食い荒らされた人たちの亡骸だけ。そんな時もあった。
人々の希望となり、常に明るい態度で振る舞いながらも。
助けが間に合わなかったと影で悔やむ、心優しい男。
魔物の襲撃に遭っている村を救うために出かけて。
家を留守にしている間に、妻の病が悪化して。
見知らぬ誰かのために戦い、最愛の人の最期にすら立ち会えなかった時。
その寂し気な後ろ姿を、ライナーは今でも覚えている。
戦う力を持たない人々を守るため。
己の身を犠牲にして戦い続けた、尊敬すべき人だ。
それを今、己が倒そうとしている。
思えば彼に憧れて、ライナーも冒険者を目指した。
幼馴染のマーシュたちと共に。
新人冒険者として活動を始めた時、指導者として共に冒険をして。
いろはを叩き込んでくれた父は、とても頼もしく見えていた。
帰ってくる度に遊んでくれた記憶。
共に歩いた記憶。
何でもない冗談。
全ての思い出が、出鱈目に流れ出している。
「父さん」
ある時。ライナーたちは予期せぬ魔物の大発生に巻き込まれたが。父は最後まで生き様を貫いた。
息子たちを守るために、数百の群れを一人で全滅させて。
ボスと相打ちになり。
最後に残した言葉が、「誰かを守れる男になれ」という一言だ。
誰かを守るために戦い、何かを守るために戦う。
そのためにライナーは高難易度依頼ばかりを受けたし、命を懸けて完遂した。
マーシュたちを一切危険な目に遭わせないように、彼らを守りながら戦い続けた時期もある。
それは父の遺志を継いで戦ったとも言えた。
「守らなければ、いけないものは。たくさんあったけど」
両親に恥じない生き方を。
誰かを守れる人になりたい。
彼女たちと出会う前のライナーは、そんな考えに縛られていた。
「――俺、守りたいものができたんだ」
その考えに縛り付けられていたライナーは、振り返って思う。
いつからだろう。
そんなことを気にせずに、毎日、自由気ままに生きられるようになったのは、と。
「守りたい人たちが、いる。帰りたい場所もある」
感情論や好き嫌いなどは、効率と速さの邪魔にしかならない。
多くの人を救いたいと願うなら、機械的に、効率的に、
最速で敵を倒すべきだ。
「今の俺には、自分の意思で。守りたいと思うものができた」
それでも今のライナーには。寄り道をしてでも。
遠回りをしてでも。
救える人が減ったとしても、失いたくないものがある。
「やっと見つけた。やっと、手に入れたんだ。――だから俺は、帰るよ。何があっても」
その人たちを守りたいと思う感情は、父の言いつけも呪縛も関係ない。
義務感ではなく、彼自身が心から願うことだ。
大切に思うものを守り抜きたい。
何一つ失いたくないという、意地でもあった。
「皆を守れるのが、俺しか、いないなら」
既に身体は限界を迎えており、いつ力尽きてもおかしくはない。
限界ギリギリまで力を振り絞って、まだ目標に届かない。
しかしそれでも、彼は前を向く。
「――限界なんて、突き破るまでだ」
どんな無理があろうと、限界を超えて押し通すしかない。
決意と覚悟を固めたライナーは、最後の加速へ挑む。
「出力……全開! 限界突破!!」
音速の二十五倍速に到達してから一向に上がらなかった速度が。
咆哮と共に、再び加速を始めた。
その速度は音速の三十倍速に到達し――やがて、第二宇宙速度を超えた。
「速度を上げれば、宇宙にだって行ける! この星の引力なんて……振り切ってやる!」
星から引き寄せられる力、引力を引き千切り。
成層圏も大気圏も突破して。
更に速度を上げながら、ライナーは空の果てを目指した。
もう加速しなくても、無限遠点を越えて、星を飛び立てる速さにまで来ていた。
「は、ハハ……やっぱり、怪物、じゃねぇか」
彼らの進行方向。その遥か先には太陽がある。
ライガーにも、息子が何をしようとしているのかが分かったのだろう。
呆れたような声を出して、軽口を叩いていた。
「父さんを殺してでも、俺は皆を守る。それが、俺の――」
「おいおい、勘違いするなよ、ライナー」
地脈を汚染する瘴気から離れて、いくらか意識が戻ったのか。
ライガーは先ほどまでよりもはっきりとした口調で言う。
「お前が倒すのは、ただの魔物だ。人類滅亡を目論む、魔王様ってヤツだな」
「何を……」
既に空気など無くなったが、人間は宇宙空間では生きていけない。
ライナーはそんな法則を捻じ曲げることと、宇宙に空気を生み出すことだけで精一杯になっていた。
一方で、再生が追いつかず。
身体の半分以上が消滅しているライガーは、上機嫌に笑う。
「胸を張れよ。俺は、自分の息子が英雄になったことを……誇りに思うぜ」
世界を救うためだとか。
使命だとか。英雄になるだとか。
そんなもの、ライナーにはどうでもよかった。
ただ、自分の大切なものを守るために戦った。
それだけのことだった。
「……ごめん、父さん。これでお別れだ」
「……おう。元気でな」
星から離れて精霊の力が弱くなったということは。ライガーもそのうち、不死身の力を失うのだろう。
そうであれば、一秒でも早く楽にしてやりたい。
宇宙空間は絶対零度の世界だ。
燃え尽きたライガーの身体は再生しているが、今度は徐々に凍りつつある。
「おぉぉおおおおおおおお!!!」
力を使い果たして、人間として最期を迎えられることを願い。
そうなることを祈り。ライナーは冷たくなっていく父の胸に掌を置き、全霊の力を籠める。
「じゃあな、ライナー。こっちに来る時くらいは、ゆっくりでいいぞ」
そう言って微笑む父を全力で送り出し――ライナーは減速を始めた。
遥か遠くに離れて行く姿を見送りながら、ゆっくりと速度を落としていき。
やがて、速度がゼロにまで落ちて。父親の行方とは反対側に戻り始めた。
「……さよなら、父さん」
色々な想いが胸中を駆け巡ったライナーだが。自らが飛び出してきた星に振り返れば――惑星全体が黒い雲と、立ち上る瘴気に覆われていた。
「俺にはまだ、やることがある」
ライガーに注ぎ込まれた力の多くは、宇宙へ散った。
もう、あれほどの力を持った敵が出てくることはないだろう。
そうは思うライナーだが、依然として世界は黒い闇に蝕まれている。
「……そうだ。立ち止まってなんかいられない。俺は未来へ進むんだ」
あの暗闇全てを払うのに、どれくらいの時間がかかるだろうか。
世界を救うまでに、何年かかるかは分からない。
しかし、ここまでやったのだからもう吹っ切れた。
どんな手を使ってでも世界を再生させると誓いながら、ライナーは落ちて行った。
無限遠点:地球の引力が届かなくなる場所。
第二宇宙速度:約マッハ32.6。この速さで地上から飛び立てば無限遠点を越えて、地球の軌道から外れます。




