妖精
あの日を後悔なんてしたことないし、したくも無い。
例え、自分が自分ではなくなっても。
「ケンちゃんケンちゃん!」
そんな声で目が覚めた。
来たよ…。俺は憂鬱な気持ちを抑えながらも、肌寒い中布団から抜け出して玄関に向かった。その際、テーブルの上に置かれた何も乗っていない小皿を流し見て。
「おはよう!」
「あぁ、おはよ。」
玄関を開けた先に居たのは長い黒髪をポニーテールにした小柄な女性。年中元気に庭を走り回っていそうな元気な奴。家が近くで幼稚園から小学、中学、高校、果ては大学まで同じところに通っている所謂幼馴染と言うやつだ。
「ケンちゃん!今日はね!」
「ハウス。」
俺はそれだけ言うと扉を閉めた。
「わぅっ!って、なんで!せっかく面白い話を持ってきたのにこの扱いはあんまりだよ!」
面白いと思うのはお前だけだ。
今日は講義を全く入れていない完全なるお休みだと言うのに何が悲しくてこんな朝早くから……俺は無意識に掴んできたスマホの画面を見て愕然とした。
『04:35』実家のじーさんすらまだ寝てるっての。
「わぅっ!わぅっ!開けてよぉ、ねぇ、開けてってばぁ~!」
「近所迷惑だから無駄吠えは止めなさい。」
俺は面倒になって諦めた。
「ぬくい…」
駄犬をうちに上げ、眠気覚ましにコーヒーを入れてきたのだが、ロフト付きのワンルームと言う狭い部屋に敷かれっぱなしであった布団の上でウトウトしているこいつを見た瞬間すっかり眠気も冷めてしまった。
「起きろ駄犬。俺だって眠いのにこうして起きてると言うのに、もしそのまま寝落ちしやがったら表の川に叩き落すからな。」
「大丈夫だよ、昨日は八時には寝たんだもん。これっぽっちも…眠く…なんて……」
「………」
「ぎゃわぁ!?あつ、あつい!ごめんなさいぃ!!」
俺は駄犬が暴れないように押さえつけると熱々のマグカップをデコに押し付けるのだった。
「妖精がいるんだって!」
駄犬の強襲の後、身支度を整えた俺はマッチで点けた煙草をふかしながら駄犬のナビに従い車の運転に集中していた。
通う大学から少し離れた田舎とも呼べるようなこの地区でアパートの一室を借りている俺。駄犬も割と近くに俺と同じような部屋を借りており、講義によってはよく一緒に登校したりする。
「妖精?」
駄犬曰く、ここから車で四時間程行った場所にある潰れたホテルに妖精が現れるのだと言う。妖精なんているもんか。そう言って鼻で笑えたらどんなに良かったか。そう、頭から否定して笑い飛ばすなんてことは出来ないのだ。俺たちは。
「そう!妖精!なんでも肝試しに来た人たちの半分以上が見てるんだって!暗闇に光るキラキラした何かを!」
こいつはいつもそうだ。どこで仕入れてきているのかこの手の怪談話を聞きつけては必ず俺の所に持ってくる。まるで遊んでほしそうに木切れやボールを飼い主に運んで来る犬の様に。例えのごとく、その話を遠くに笑い飛ばして拾ってくるように独りで勝手に行ってくれたら良いのに、毎回駆り出されるこっちの身にもなってほしい。せめて、この駄犬に関するものであればどんな手間も惜しまないと言うのに最近はハズレばかり嗅ぎつけてくる。
「そう言えば今日はお留守番なんだね?」
「ん?あぁ。どうせハズレだろうし、一緒だと俺はつかれる。」
「ふ~ん。」
そう興味無さげに鼻を鳴らすと、ひざ元に置いていたカバンからコンビニのおにぎりを取り出すと包装フィルム剥がしにかかる。
「シャケか…他は?」
「ん~、高菜とタラコとエビマヨと」
「高菜をくれ。」
「ふぉーい。」
駄犬は包装を外したそのおにぎりを口に咥えるともう一つカバンから取り出して包装を剥がし始める。その様子を横目に映しながら妖精について考察する。冬ももう終わりなのだろう昇ってきた太陽から降り注ぐ熱と光を感じながら運転席側の窓を僅かに開けながら。
「わぅ~……雰囲気があるね。」
目的地にたどり着いたのはあれから十一時間以上も経った後だった。駄犬がごねて途中で二度の食事休憩を挟んだ挙句、明るい時間だと妖精は出ないのだと言って昼寝の時間まで取らされたせいだ。おかげで、うっそうと生い茂る木々に抱かれるように鎮座するその三階建ての建物は日が傾き足元に注意しないとならない程度の闇の中に浮かんでいた。
壁のコンクリートはあちらこちらが剥がれ落ち鉄筋が顔をのぞかせ、不良たちの仕業かあちらこちらにスプレーによる落書きが目立つ。チームかなんかの名前なのかいろんな単語がちらほらと、それからイラスト。やけに凝ったものから子供の落書きのようなもの、果てはデフォルメされた卑猥なものまで。窓ガラスに至っては片っ端から割られ、窓枠だけが残りそこから覗く闇の端に揺れるカーテンだったであろうぼろ布が小さく揺れて、それが首を吊った何かにも見えて軽くぞっとした。
「ケンちゃん」
「ん?」
ふいに声を掛けられハッとする。声の方に顔を向けると怯え四割興奮六割みたいな表情で尻尾があったならシュンと垂れた先の方で小さく左右に振られてそうだとなと思ってしまった。
「今何時?」
その位、自分のスマホで確認しろよと思いながらポケットに手を差し込む。
「十六時過ぎ」
電源ボタンを押して確認した時間を教えてやると、顎に手を当て考える素振りを見せた後、何やら誇らしげな顔でこう言った。
「何とかどきには早いね」
「縄文?」
「そんな感じ。」
適当に言ってるな。多分、少し前に教えた逢魔が時や丑三つ時的な事が言いたいのだろうが面倒臭いので何も言わないでおく。逢魔が時なら後二時間程で、丑三つ時なら更に七時間どちらにしろ、もう間もなく奴らの時間となる。
「で、どうすんの?」
内心予測は付いていたが聞くだけ聞いてみる。聞かれた本人もわかっているだろと言わんばかりに笑みを浮かべると背負ったバックから懐中電灯を取り出し口を開く。
「まずは下見だよね!」
ガラスが割られた入り口。そこを屈みながら入ると薄暗かった景色が一層暗くなる。バキバキとなる足音がやけに響いて反響する。もしも建物内に誰かいたならきっとこの足音が届いているだろう。
「ん~、何か感じる?」
懐中電灯で足元を照らしながら先行する駄犬が振り返りもせずに訪ねてくる。
「いんや。」
俺は感じたままを口にする。建物の中は徹底的に荒らされていた。カーテンは割かれ、ソファーはひっくり返されたり中身がくり抜かれバネがむき出しになっていたりする。入ってすぐのカウンターも棚と言う棚は破壊され、名刺代わりとばかりに落書きがされている。外観から見てわかるように相当古いらしく床の絨毯はほとんど剥がされたのか風化して剥がれたのかむき出しの床はところどころが抜け落ちていた。同様に天井にも穴があり二階の天井らしきものがうっすらと見える場所もある。
今はまだ若干外からの光が入っているからよいものの、もう数十分もするなら完全に闇に呑まれるだろう。そうなると頼りに出来るのは駄犬の持つ一つの懐中電灯と携帯のライト機能のみ。どう考えても危険だ。穴があればまだいい。だが、見た目ではわからなくとも腐って今にも落ちそうな床があれば?それが二階、三階と上がった先に在れば?背筋がぞっと泡立つ。こういった場所は奴らよりもこんなトラップじみたこれらの方が数倍恐ろしい。
「階段だ!」
人の気も知らずに。そう思ったものの嬉しそうに駆け上がっていく様子を見て俺もあわてて追いかけていく。ギシギシやらパキパキやら今にも抜けてしまいそうな階段を恐る恐る上がっていく。
「ん~、何もなさそうだしこのまま屋上まで行ってみる?」
二階に上がってみるも特別変わったものは無い。朽ち果てたものや破壊されたものと汚れと落書き。そして、言いようのないあの感じもない。正直、探索を切り上げて車で待機、もしくは帰ろうと切り出したいところだが、間違いなく却下されるのが目に見えていたため好きにさせることにした。
「う~ん。」
屋上に辿り着いた俺たち。屋上は出入り口の窓が割られていたことと足元のタイルがボロボロになっているくらいで特別荒れてはいなかった。まぁ、荒らすほどの何か、家具や施設がある訳でもないのでこんなものかと思った。
駄犬はそんな屋上の端に向かっていき景色を眺めながら何やら唸っている。その理由は同じところに行くまでもなく分かった。この建物を覆う木々が何年、何十年と手入れもされなかったために生い茂り屋上から望めるはずだった景色を塗りつぶしていた。かすかに木々の隙間から見える景色も、遠くの町の光がチラつく程度であった。
「なぁ。」
ここまで来て、また階段をおっかなびっくり降りて車まで向かうくらいなら暫くここで待とうと言う事になり、駄犬は少しでも景色のよう場所探す様にあっちにフラフラこっちにフラフラ。俺は屋上の真ん中くらいでごろっと横になり煙草を咥えながら空を見上げていた。まだ初春で吐く息が僅かに白むのを視界に収めながら薄くかかった雲の先の小さな星を眺める。そんな事をしながらふと気になり声を掛けた。
「ん?どうしたの?」
そう言ってこちらに駆け寄ってくる。
「妖精が現れるようになったのはいつ頃の話だったか?」
ここに来るまでに事のあらましは聞いていた。こいつ自身も特別時間を割いて調べたわけじゃなく又聞きの又聞きのようにして収集したらしく結構曖昧だった。運転中だったしあまり興味の惹かれる話ではなかったため聞き流していたのだが、電波の入りが悪いここでやることもなかった俺は結局今回の件について考察していた。時刻は間もなく逢魔が時。一時間と少しそうしていた結果ある疑問が浮かんだのだ。
それから改めて話を聞いて俺の疑問が確信に変わる。いや、確信は言い過ぎか。ただし、どうでもよかったこの旅がどうしてもその妖精とやらを拝む必要のある旅へと変わった。
「ん?」
「わからんか?」
俺の顔を見て小首を傾げる駄犬に問う。もしかしたらお前にも関係のある話だと言うのに。仕方なく俺は話をする。
「このホテルが潰れたのは数十年前。具体的な年数は調べたら多分すぐにわかるだろう。だが、そこは正直どうでも良い。問題は潰れた理由。少女が飛び降り自殺行ったのだ。それからと言うもの、窓の外を何かが落ちていっただの、廊下で血まみれの少女とすれ違っただの今でこそそんな施設は逆に珍しく宣伝に使えただろう。だが、この地域の当時は違った。もしかしたらただの経営破綻かもしれんが、少なくともこのホテルはそう言う噂が出てから長くせずに潰れてしまった。それからさらに数十年。この地を管理していた者もいなくなり、書類上何人もの人間がこの地の権利に噛んでいたため今でも取り壊すことも売り払うことも出来ずに完全に放置されるようになった。管理のために立ち入る者も施錠する者も居なくなった。それからこの施設に屯する輩が現れた。地元の悪ガキたちだ。夜中に騒音をまき散らし、飲めや歌えや、騒ぐには人里から離れ、山に埋もれるここは都合が良かった。そして、ある時それに遭遇した。半透明でフラフラと彷徨う明らかに生きているものとは違うあれ…お化けと。そこからは事態も加速する。当時、テレビや雑誌でも盛り上がっていた心霊スポットブーム。口コミから口コミに広がっていき、遂には雑誌にも取り上げられるまでにもなった。その雑誌は俺も見たことがあったがそこには妖精などの表現はなかった。あったのは【死してなお死を繰り返す少女】だったかな。」
ここ十年くらいの前の話だ。俺も当時は純粋にオカルトにのめり込んでいたため、そんな雑誌を買い込んだり、テレビに齧りついたり、自転車や電車で行ける範囲であればしょっちゅう出向き、そんな場所に行くんじゃないと親に怒られたっけ。それでも隠れて行っていたが親にはバレていたようでその度に塩を投げつけられたな。
「………」
不意に俺が黙ったのが不安だったのか駄犬が静かに寝そべる俺の隣に腰を下ろす。それを見て俺は再び口を開く。
「有名になればなるほどそういったスポットには人が来る。日に何人、何十人と。それに比例してその繰り返す少女の目撃数は増え話題になり、また人が増える。そんな人の中にはこんな人間もいる。『お化けなんて怖くねぇ』『俺はこんなことが出来る』。要は荒らされるのだ。そうなると流石に今まで目をつむっていた自治体は動かざる得なくなる。地権者が定かでいなかったこと。取り締まるのが手間だったこと。中身はどうであれ地域の名前が売れたこと。それらのために黙認されてきた不法侵入に器物破損。だがこのまま放置していては無法地帯になるかもしれない。破壊されたものでケガする者が出るかもしれない。老朽化も進んでおりいつか大きな事故が起きるかもしれない。そんな要因が重なりこのホテルへの立入が大々的に禁止された。二十四時間体制で監視人がたちフェンスが設置された。そのまま数か月ついに近づくものも居なくなり厳重な監視が解かれた。そして、十年近くが経った今、地域内の学生と言う小さなコミュニティ内で再びこのホテルの話題がささやかれるようになった。それも【死を繰り返す少女】から【妖精】と関連性を感じさせない変化を遂げて。」
「あっ…」
気づいたらしい。
俺は…俺たちは霊感と呼ばれるものがあるらしく、よく人とは違うものを認知する。俗に言うお化け、幽霊であったりよくわからないものであったり。そのせいで俺たちは今面倒なことになっている訳だが、今は置いておく。とにかく、これまで様々な霊的存在と対峙してきたわけだが、今回の件は今まで遭遇した事が無いタイプのものかもしれない。これまで俺が認知しているタイプは守護霊・浮遊例・地縛霊・憑依霊・悪霊・生霊・怨霊。こんな感じ、そして、今回の件に関係がありそうなのが地縛霊。自分が死んだことを受け入れられなかったり、自分が死んだことを理解できなかったりして、死亡した時にいた土地や建物などから離れずにいるとされる霊のことだ。あるいは、その土地に特別な理由を有して宿っている場合もある。そんな地縛霊には更にタイプがあり生前の姿でただそこにいる者や死んだ姿でいる者。そして、死を繰り返すもの。今回の件は正しくそれ。【死を繰り返す少女】ここに出る少女は何かしらの理由で飛び降り自殺を繰り返し行っているのだ。自分の死に気付いてないのか、伝えたいことがあるのか。ただただ繰り返す。死んで尚。何十年も。これがもし、当時と同じ少女の霊だとしたらかなりの……
「っ!?」
「ひっ!?」
なんだこれは?突如、空気が変わった。粘度を持ち絡みついてくるような、自分の内に取り込もうとしているかのような何とも言えない不快感。知らないぞ。俺はこんなの知らない。駄犬が震える手で俺の服を掴む。時計なんて見なくてもわかる。もうすでに奴らの時間だ。
「っ…」
どの位動けずに固まっていただろうか。それは不意に訪れた。
来た。滲み出す様に存在を現したそいつ。気配が濃密すぎてこの建物ののどこにいるのか見当もつかなかったが今ならわかる。すぐ後ろに出やがった。俺も駄犬も振り向けない。金縛りにあったような状態で動けなくなる。その気配が少しづつ移動する。俺たちの方じゃない。屋上の端に向かってゆっくりと。俺は少しづつ首を回す。ギシギシと首から軋むような幻聴を聞きながらゆっくりゆっくりと。飛び降り自殺を繰り返すだけの存在が妖精と呼ばれるようになるにはどうしたらいい?どうなればいい?その変化が知りたい。そもそも本当にただの幽霊なのか?もしかして全く、根本的から違う何かだったりしないだろうな?
「っ!!」
微かに視界に収めた。
なんだあれは…どうしてそうなる…まさか…いや、まさか…
そして、それは消えた。落ちた…いや、飛び降りたのだ。視界から消える直前に目が合ったような気がしたけど、気のせいだと思いたい。
「立つんだ。」
「ひぅっ!?」
奴が視界から消え、気配が離れたのを確認して駄犬を立たせる。こいつも奴の持つ異質な何かにあてられて怯えていたがそれどころではない。あれは普通じゃない。ただでさえ、何十年と変わらずここにいたんだ。正直な所全くの別物がいてもおかしくないと思っていた。だが違った。あれは、その辺の雑魚じゃない。当時から持つ念に何十年という時と訪れた何百人もの人間の念が合わさって変質しようとしているように感じた。あれはまだ終わりじゃない。これ以上関わりたくない。関わらせたくない。こいつが興味を示す前にさっさと逃げよう。
俺は駄犬を引っ張って屋上から出る。そのまま階段を慎重に、それでいて可能な限り急いで降りる。三階…二階…そして踊り場。このまま曲がって下れば一階に。そう思った時、言いようのない悪寒に飲み込まれた。
「馬鹿か俺は。」
奴は屋上から飛んだ。それはどこに行った?外だ。それも位置的に出入り口の近く。落ちた奴はどうなる?何十年も続けていたサイクルを想像しろ。死んだ奴が、尚も飛び降りて死ななかった奴の次に取る行動は……
「きてる…」
駄犬のかすれた声。階下から聞こえる聞こえるはずのない音。ひたひたと不規則な足音。時折混ざるパキッというのはガラスを踏んだ音だろうか?嫌だ…見たくない。踊り場から少し覗けば階下を見渡せる。見たくない。逃げたい。なのに体が動かない。奴がそうしているのか、それとも奴の放つ何かに気圧されて自由が利かないのか…とにかく動けない。
ひた…ひたひた…ひた……ぱきっ…ひた…
そして、やつは現れた。
「っ」
ワンピース姿の少女だった。あちこちが破れ、血で汚れており顔は額から流れる赤黒い液体で染まりよく見えないが深い闇のような真っ黒い二つの穴がこちらを凝視しているかのようだ。左腕の関節は一つ多く、体の動きに合わせてふらふら揺れる。足に至っては両方ともひしゃげており、とても歩ける状態ではなかった。それでもそんな足で一歩づつ確かに近づいてくる。そして何より目を引くのが…
「ひかりが…」
俺の腕を軋むほど強く掴んでいた駄犬が漏れ出たように言葉を吐く。ふらりふらりと近づいてる奴に向けられた懐中電灯の光。その光が奴の体に当たり、揺れる体の動きに合わせてあちらこちらで反射しているのだ。よく見るとパラパラと光の粒子が足元に落ちていくのも確認できる。これが妖精の正体だ。
ひた…ひたひた…ひた……ぱきっ…ひた…
それがわかった所でどうにもならないこの状況。刻一刻と俺たちに迫る奴。後、十歩…九歩…八歩…七歩…
「ぐるる……」
どこかで獣の唸るような音がする。最悪だ。ただ純粋に興味を抱いただけなら対処のしようはあったのだ。
六歩…五歩…四歩……
「ぐるルルッ…」
やめろ…やめてくれ…
三歩…二歩…一歩……
そのまま俺たちの前を奴は何事もないかのように通り過ぎ、二階へと上がって言った。
「くはっ…はっ…はぁ…」
いつの間にか止めていた呼吸。肺が痛い。酸素を求める様に呼吸が落ち着かない。ガンガンと痛む頭を押さえながらちらりと俺の足元で気を失い規則的な呼吸を繰り返す駄犬を見下ろす。
「…急ごう。」
俺は駄犬を背負って階段を降り、ボロボロの廊下の穴に気を付けながら時間を掛けて玄関口に辿り着く。そのまま砕けたガラス戸を潜り外に出た俺は一息つく間もなく車まで走る。そしてカギを開けると後部座席に駄犬を放り込み車のエンジンを掛けた。ハイビームになっていたヘットライトに浮かび上がる廃ホテル。その屋上に風にたなびく何かが見えた気がしたがすぐに車をUターンさせると可能な限りスピードを出して走り去った。
浮かび上がった木々やガードレールがあっという間に後方へと流れていく。舗装もされておらず何十年と放置された道は酷く荒れておりところどころ落石なのか拳ほどの石が転がっており何度も冷や汗を流しながらハンドルを切って躱していく。
あれはおかしい。あそこはおかしい。奴は…何かがおかしい。
これまでいろんなものを見てきたがあんな歪で不安定で力がある存在なんて…
「うぅん…」
不意に後部座席から寝苦しそうに呻き声が聞こえる。俺が雑に投げ込んだ上に狭く凹凸の激しい道をかなりの速度で走っているせいもあるだろう。忘れていた第三者の存在に僅かながらも冷えて固まった何かが解かされていくような温もりのような、安心感のようなものを感じ、車の速度を緩める。落ち着こう。今は、今だけは奴の事を忘れて安全に帰る事だけを考えよう。僅かに空いた窓から入り込む冷えた森の香りに気付く。短い距離とは言え人一人担いで走った後に緊張から解放され、熱を持っていた体が丁度良く冷まされて行く。そのまま俺は懐からマッチと煙草を取り出し、第三者の息遣いだけを聞きながら車を運転した。町へと続く長く忘れ去られていた暗い孤独な山道を。