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全ての乙女に捧ぐ  作者: Number.N
6/7

Pianissimo

 コンクールが終わるとすぐに、私は瑞葉におめでとう、と自分が演奏を聴いて受けた感動を書いたメッセージを送ったが、一向に返事が来なかった。数日経ってしびれを切らした私は、瑞葉の携帯に電話をかけたのだが繋がらず、家に電話をかけると、彼女のお父さんが電話に出てくれた。瑞葉に何かあったのかと訊ねると、「瑞葉はコンクールの日以来、塞ぎ混んでいる」と教えてくれて、「良ければ会いに来てやって欲しい」と言ってくれた。私はもちろん、そう言ってもらう前から、会いに行くつもりだった。


 瑞葉は、私が想像していたより元気そうに見えたが、すぐに平気なふりをしているだけだと気づいた。


「香織が来るって言うから、着替えちゃった」


 と瑞葉は言った。


「学校には行ってないの?」


 と私は訊ねた。


「ピアノが弾けないんだから、行っても意味ないな、って。先生は学校ならカウンセリングとかもできるから、ってちゃんと学校に来て欲しそうだったけれど」


「ピアノ、弾けないの?」


「うん、ごめんね。ピアノの前に座ると、手がいつもみたいに動かないの。ピアノの前じゃなかったら、ちゃんと動くのに」


 そう言って瑞葉は、自分の手をピアノを弾くように動かしてみせた。彼女はとても辛い顔をしていた。

「そんな……」


 私は言葉に詰まった。


「きっと学校に行ったら、クラスメイトや先生が褒めてくれるんだと思う。あんなに大きなコンクールで金賞を取っちゃったんだから」

「うん」

 私は小さく頷いた。


「でも、わたしはあのコンクールのことなんか、忘れちゃいたいの。とても嬉しいことのはずなのに、楽しかった記憶のはずなのに、どうしてか、今はとても辛い記憶なの。もう帰ってしまいたい」


 無邪気で、純粋にピアノを弾いている瑞葉しか知らない私は、彼女が悩み、苦しむ姿を見るのが辛かった。あれほど喜びをもってピアノ演奏していた瑞葉からは、想像もできなかった。彼女は今にも泣き出してしまいそうだった。


「あの演奏はね、わたしの人生で最高の出来だったんだ。あんなに気持ちよく弾けたことはないし、このままずっと弾き続けたいと思った。あの時の演奏、香織も良かったと思うでしょ?」

「……」


 私は頷くことが出来なかった。瑞葉はひどく饒舌だった。


「でもね、あの演奏は、誰にも聞かせちゃダメなものだったの。あれはわたしの求めてきたもの全てで、わたしの願いで、わたしの生の、そのままの感情みたいなもので、誰にも見られたくないものだったの。……香織には申し訳ないけど、お父さんにも、香織にも、洋平さんにも見せたくないものだった。でも、それをわたしは知らなくて、あそこで演奏してしまった。もう……わたしどうすることもできないよ……帰っちゃいたいな……どこにだろう?きっと、昔に戻りたいんだ……ずっと昔に戻りたい……」


 思いの丈を吐露し、小刻みに震えている瑞葉に、私は何もしてあげることはできなかった。瑞葉が何を思い、何に苦しみ、何に怯えているのか分からなかった。


 瑞葉が俯くと、彼女の長いまつ毛が目の下に影を作った。その姿さえも、とても美しかった。

 少しの間、静寂が流れた。その静寂は私に、コンクールで瑞葉が演奏を始める前の、静まり返ったホールを思い起こさせた。


「彼は情熱的に私の裸を見つめてね、彼って言うのは、洋平さんで、絵描きをしているんだけど……」


 瑞葉があまりに唐突に話し始め、また、内容も脈絡のないものだったので、私は瑞葉が何を話しているのかを理解するのに時間がかかった。


「洋平さんは、わたしをモチーフに絵を描いてくれて、わたしの裸を何度も何度も見つめては、真剣にキャンバスに描き込んでいったの。とても洗練された動きで、同じ表現者として感動したわ。はじめは自分の裸を凝視されているのが恥ずかしかったけれど、だんだん彼に見つめられていることが心地よく感じるようになっていった。なんて言えばいいのかわからないけれど、洋平さんがわたしのことを美しいと思ってくれて、優しく抱きしめてくれるような気がして。とっても暖かくて、優しくて、包まれているような気がして……。

 出来上がった絵を見てみたら、わたしをモチーフにして描いたとは思えないくらい美しくて、洋平さんの目にはわたしがこんなふうに映っているんだと思ったら、とても幸せだった」


 瑞葉は懐かしそうに話した。彼女は私に何も話して欲しくないようで、相槌さらも打つことができないままに話は進んだ。


「洋平さんは、とても切羽の詰まったような目をして、わたしを押し倒したの。その時は少しだけ恐かったけれど、絵を描いている時の洋平さんの目はとても優しかったから、彼に全部任せてしまおうって思えた」


 瑞葉はこの手の話が苦手で、好みのタイプや、どんなところにデートに行きたいかなどを訊ねるだけで、恥ずかしそうに俯いていたので、私はとても驚いた。


「暖かくって、優しく包まれて、気持ち良くって、お母さんに包まれているみたいだった。あんなに気持ちよくって……幸せだったら……幸せだなって……お母さんがいるような気がして……お母さんで……ピアノがあって……楽しいから……幸せで……。お母さん……お母さん……」


 瑞葉は溜まっていたものを吐き出すように泣いた。きっと温もりが欲しくて、認めてもらいたくて、私に抱きしめて欲しくて、話したのだろうと思った。私は瑞葉を抱きしめ、長い間ずっと背中を擦り続けた。

 それでも瑞葉はずっと泣き止まなかった。私はどうしていいのか分からなくなった。きっと瑞葉にとって、お母さん以外ではダメになってしまったのだ。瑞葉のお父さんでも、洋平さんという人でも、そして私でも。



 それから私は、瑞葉と疎遠になってしまった。瑞葉からの連絡はなかったし、私が何度目かに瑞葉に会いに行った時、「もう来ないで」と言われてしまったからだ。


 会えなくなってからも、私はピアノのレッスンを続けた。ピアノされ続けていれば、また瑞葉が私を受け入れてくれるような気がしたのだ。きっと、最後は、瑞葉はピアノを選んでくれると思った。

 それだけではない。ピアノに触れている時、私は隣に瑞葉を感じることができた。繰り返した瑞葉との連弾の記憶が、甦ってくるようだった。


 私の演奏の理想は、瑞葉の弾くピアノの一音一音だ。瑞葉の演奏こそ、私にとっての至高であり、表現者として求める全てだった。ピアノを弾くものとして不純であろうと、私にとっての楽曲の究極の形は、楽譜ではなく、瑞葉の演奏だったし、私が信じるものも、楽譜ではなく、瑞葉ならばこのように演奏するだろう、という確信だった。


 ピアノに触れると瑞葉を感じられた。


 曲を弾くほどに、瑞葉を理解できた気がした。


 私は瑞葉のことをもっと知りたかった。理解して同じように苦しみたかった。だから私は、ピアノを弾くことを選んだ。


 あのコンサートで、瑞葉が弾いて見せた演奏は、表現としての一つの頂点だったのではないか、と私は思うようになった。演奏技術もさることながら、大舞台で弾き切った胆力、精神的な高揚、自身の求める楽曲の理想を再現する力、全てが完璧に成し遂げられた結果なのだと思った。

 そう、あれは瑞葉の理想の全てだった。全てを求め、全てを手に入れたはずなのに、本当に求めていたものを手に入れられなかった。だから瑞葉は、どうしようもなく苦しんでいるのだ。


 瑞葉の姿は、理想である瑞葉の影を追い求める私の姿と重なって感じられた。かつて、瑞葉が理想を追い求め、たどり着いた先に絶望してしまったように、私も理想にたどり着いた時、隣に瑞葉がいないことに絶望するのだろうか。もう二度と瑞葉と混ざり合うような、あの幸福な紅葉を感じることはできないのだろうか。


 そんな不安に苛まれながら、私は来る日も来る日もピアノに向かい続けた。



 二年が経ったある日、突然、瑞葉から電話があった。


「もしもし、瑞葉?どうしたの?」


 私は不安に思いながら電話に出た。


「もしもし、うん、わたしだよ。大丈夫」


 瑞葉だった。彼女はじっくりと言葉を選んで話した。


「ねえ、香織。わたしの側に来て。聴かせたいものがあるの。すぐに」


「うん、行くわ。今すぐに行く。どこにいけば良いの?瑞葉の家?」


「うん」


 私は瑞葉の返事を聞いたか聞かないかのうちに、何もかもを放り出して家を飛び出した。瑞葉と会うことは不安だったが、そんなことどうだっていいくらいに、瑞葉に会いたくて仕方がなかった。私はピアノを弾く瑞葉が好きだとか、瑞葉が私の演奏の目標だとか、瑞葉と一緒にピアノを弾きたいだとかに関係なく、ただ隣にいたかっただけなのだと気づいた。


 私は走った。ひたすらに走った。


 これから瑞葉と会える。そう思うと、いつまででも走り続けることができる気がした。



 瑞葉の家のインターフォンを押すと、中から若い男性が出てきた。私よりも五歳ほど年上のようだった。見た瞬間、私には彼が洋平さんだと分かった。


「来てくれてありがとう。瑞葉が待っている。入って」


 私は彼に促されて入った。

 瑞葉の部屋には、既に瑞葉がいて、ピアノの前に座っていた。部屋の脇には縦一メートル、横二メートルはありそうな、大きな絵が立てかけられていた。瑞葉があのコンサートでピアノを弾いている絵だ。その絵の中で、瑞葉はあのコンサートの時のように美しかった。

 きっと洋平さんはこの絵を瑞葉のために描いて、彼女の心をほぐしていったのだ。私が瑞葉と向き合うことから逃げ、ピアノを通して瑞葉に触れようとしていた間、彼は瑞葉の側にいてくれたのだ。私は彼に強い感謝を思った。


「香織、来てくれて嬉しい。ありがとう」


 と瑞葉は言った。


「うん」


 私は頷くだけで精一杯だった。瑞葉がそう言ってくれるだけで涙が出そうになった。


 瑞葉は洋平さんと顔を見合わせ、こくりと頷くと、ゆっくりとピアノを弾き始めた。とても優しい音色だった。空間が優しさで満たされていくような旋律だった。

 瑞葉の演奏は、二年間のブランクがあったために、技術的に拙いものであったかもしれない。それでも彼女の感情を乗せたメロディーは、私の心を深く揺らした。


 瑞葉の演奏だ。夢にまで見た瑞葉の演奏だ。瑞葉が私の目の前にいるんだ!


 私の元に、メロディーが木漏れ日のように差し込んで来た。瑞葉のように優しく、美しく、豊かな木漏れ日だ。


「……ありがとう」


 隣で洋平さんが呟いた。私も同じ気持ちだった。


 私は思わず泣いた。涙はとめどなく湧いて溢れた。瑞葉の鳴らすピアノの音が、優しく私を包んだ。

 瑞葉は優しく優しくピアノを撫でた。


 ピアニッシモの思いを受け入れるように、瑞葉は静かにピアノを弾いた。私の心を暖かくした。

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