Fortissimo
小学三年生の発表会、私と同級生の女の子が、私を差し置いてピアノの発表会のトリを努めた。先生に「香織ちゃんは飲み込みが一番早いわ」などと褒められ続け、ピアノ教室の中では自分が一番上手くピアノを弾けると思っていた私は、トリが別の、それも同級生の女の子であることに息巻いていた。
しかし、それも彼女の演奏が始まるまでだった。その子の演奏は群を抜いて素晴らしかった。技術的にも圧倒されたが、何よりも表現力がずば抜けていた。楽譜通りに弾くことを教えられているはずなのに、彼女の演奏は誰が聴いても彼女の演奏だと分かるほど、オリジナリティに溢れていた。極めつけは曲の最後だ。彼女はピアニッシモで弾くべきところを、フォルテッシモで弾いた。
それが私と瑞葉との出会いだった。いや、瑞葉は私のことを知らないから、私が瑞葉と遭遇した、というべきか。「瑞葉との遭遇」この方がしっくりくる。
次の年の発表会に瑞葉は出なかった。先生に訊ねると、瑞葉はピアノ教室を止め、音大の先生のところにピアノを習いに行ったらしい。
私が再び瑞葉と遭遇したのは、中学の入学式だった。
私が入学した中学校は、ほとんどの生徒が地元の小学校からの持ち上がりで、小学七年生、八年生、九年生をしているような学校だった。瑞葉は私立の小学校から来ていたので、新入生ながら、あたかも転校生のようだった。
そんな「転校生」は入学式が終わり、クラス分けが済むと、好奇心旺盛なクラスメイトたちに、一斉に囲まれた。流れるような黒髪を持った可愛い「転校生」は、皆の好奇心をくすぐるのに充分だった。
私は瑞葉が小学校三年生の時にピアノの発表会で見た女の子であることに気づき、話してみたいと思ったけれど、クラス中の質問攻めにあっていたので、なかなか話しかけることができなかった。
瑞葉と話せるようになったのは、ホームルームが終わり、下校する時間になってからだった。友達の美嘉が、瑞葉の隣の席だったので、美嘉と一緒に瑞葉と話すことにした。
「瑞葉ちゃんって何が好きなの?」
と美嘉が訊ねた。
「ピアノが好き。弾くのも、聴くのも、両方とも好き」
瑞葉は少し恥ずかしそうにして笑った。
私は自分が小学五年生の時に、ピアノが嫌になって止めているからか、無邪気に心底楽しそうにピアノを弾いていたあの少女が、ずっとピアノを好きなままでいたと知って、嬉しくなった。
「ピアノ上手なの?」
「小さい頃から弾いていたから、ちょっとだけ」
「じゃあ、香織と一緒だ」
美嘉が私の方を見て言った。
「私とは全然違うよ。瑞葉ちゃんは謙遜しているんだよ。比べるのも畏れ多いくらい瑞葉ちゃんは上手だもの」
私は慌てて否定した。
「わたしの演奏を聴いたことがあるの?」
と瑞葉が私に訊ねた。
「うん。三年生の時に大原先生のピアノ教室に通っていたでしょう?私も大原先生に習っていたんだけど、その時の発表会で聴いたの」
私は瑞葉に説明した。
「そんなこと覚えてくれていたんだ」
「衝撃だったもん。楽譜を堂々と無視して、ピアニッシモを強く弾くだなんて」
「お恥ずかしい限りです・・・」
瑞葉は本当に恥ずかしそうにしていた。
「私、瑞葉ちゃんのピアノとっても好きよ。一度しか聴いたことがないけどね」私は正直に言った。「良かったら、今度瑞葉ちゃんの演奏を聴かせて」
「うん、もちろん」
と瑞葉は言ってくれた。
瑞葉は、放課後はほとんど毎日、ピアノのレッスンが入っていたから、昼休みに、二人で音楽室に行き、私は彼女の弾くピアノを聴いた。瑞葉は本当に腕のいいピアニストになっていた。どのような曲も、自分の感性で鋭い解釈を施し、見事に弾いてみせた。私は気に入った曲があれば、その曲の楽譜やらCDやらを持って行き、瑞葉に弾いてくれ、とせがんだ。彼女はいつも快く引き受けてくれた。
私は、私が好きな人にも瑞葉のピアノの素晴らしさを分かって欲しくて、ことあるごとに美嘉や私の彼氏を、瑞葉の演奏に誘ったりした。美嘉は私ほどではないにしろ、瑞葉の演奏を気に入ってくれた。瑞葉が珍しくオフになった休日には、ダブルデートと称して、お互いの彼氏を呼び、一日中、瑞葉のピアノを聴くなんてこともあった。
彼女の演奏を聴いていると、次第に自分でもピアノを弾きたいと思うようになった。瑞葉に教えてもらいながらピアノを弾いてみると、小学生の頃には弾けなかった曲でも、弾けるようになったりして、再びピアノを演奏することにハマっていった。
「私、もう一度ピアノをやってみようかな?」
五年生の時に挫折した曲を弾けるようになった時、私は瑞葉に相談した。
「香織がピアノをまた習うの?」
「うん」
私は頷いた。
「本当に?それってとってもいいと思う。絶対にピアノをもう一度するべきだよ。実は、また香織がピアノを始めればいいなって、わたしずっと思っていたんだ」
瑞葉は茶色い瞳を輝かせて言った。
「わたしの演奏をあんなに楽しそうに聴くんだから、自分でも弾いてみたらいいよ。ピアノって聴いているだけでも楽しいけれど、自分で弾けばもっと楽しいもの。それに上達すればするほど気分も良くなってくるし」
「うん、やってみることにする」
私は瑞葉に乗せられて答えた。いや、私は瑞葉ならば、私の背中を押してくれると分かっていた。背中を押してもらいたくて訊ねたのだ。それでも、私の予想を超えて、瑞葉が私の考えを喜んでくれたのが嬉しくて、私は再びピアノを習い始めることを決心した。
小学生の時、あれほど嫌いだったピアノのレッスンは、とても楽しいものになっていた。上手くなることだけが目的でなくなり、ピアノを楽しむことができるようになったのだ。瑞葉のおかげだな、と私は思った。瑞葉があんまりピアノを楽しそうに弾くものだから、それが私にまで伝染してしまったのだ。
ピアノが嫌いになっていた頃とは違い、自分の演奏が上達し、洗練されていくのが分かった。瑞葉の言葉通り、ピアノを演奏することが、どんどん楽しくなっていたし、良い演奏ができたときは、気分が良かった。そして、上達すればするだけ、瑞葉の演奏技術の高さや、曲に対する思い入れの深さ、アプローチの見事さが分かるようになっていった。何より、彼女のピアノに対する愛情の深さに感動した。彼女は演奏を通してピアノと対話をしているようだった。
瑞葉は私との連弾を好んだ。連弾曲の楽譜を印刷して持ってきては、私にレクチャーし、一緒に弾いた。瑞葉はいつも私に合わせてくれ、彼女の演奏によって、自分の演奏も引き上げられるような感覚があり、瑞葉との連弾は、とても気持ちが良かった。
「楽しい!」
演奏が終わると、瑞葉は決まって、私の方を向いて言った。はちきれんばかりの笑顔で、後ろで束ねた美しい黒髪を揺らしながら、喜びを表す瑞葉が、私はとても愛おしかった。母の気持ちというのだろうか?胸の奥が暖かくなるのを感じた。そして、こんな表情を男子には見せられないな、と思うのだ。
「なんだか幸せだなあ」
私はそう言って瑞葉に抱きついた。そして自分の喜びを瑞葉に伝えるのだ。
「わたしも幸せだよ!」
と彼女は言って、私に抱きつき返してくれる。お互いの体温が感じられて、とても心地良かった。そんなふうに喜びを表し合う時が、私は最高に幸せだった。
瑞葉は音楽高校に進学したため、高校は離ればなれになってしまったが、頻繁に連絡は取り合っていたし、瑞葉から送られてくる演奏の動画を観たりしていたので、中学時代と同様の、親密な関係は続いていた。
高校生になってから、瑞葉はピアノのコンクールにも参加するようになったので、私は欠かすことなく観に行った。参加したどのコンクールにも、瑞葉よりも感動させる演奏をする人はいなかった。
大小様々なコンクールで、好成績を取り続けた瑞葉は、高校三年生の時に、日本で最も権威があると言われるコンクールに出場することになった。
瑞葉は当日まで自分の参加するコンクールの名前さえ知らないこともあったが、その時ばかりは舞い上がり、緊張しているようだった。参加が決まった時も、電話で報告してくれたのだが、瑞葉は「どうしよう」を連呼するばかりで、一向に会話が進まなかった。
当日に、私が控え室に激励に行った時も、瑞葉は「どうしよう、香織」ばかりを連呼した。他の出場者たちは、割に落ち着いていたり、集中していたりしたが、瑞葉だけはあたふたしっぱなしだった。
開演が近づいたので、
「それじゃあ、私は行くね。良い演奏を期待しているよ」
と伝えると、瑞葉は
「うん、わたし、頑張るね」
と言った。
瑞葉は私が控え室を出る時にも、「わたし、頑張るね」と言った。こちらがびっくりするほど彼女は緊張していた。
会場に入る前に、携帯の電源をオフにしようと取り出してみると、瑞葉から「わたし、頑張るね」というメッセージが届いていた。緊張する瑞葉がなんだか可愛くて、「わかっているよ」と呟きながら笑った。
しかし、スポットライトを浴びた瑞葉は別人のように落ち着き払い、身のこなしは全て優美だった。権威のあるコンクールだから、どの参加者も見事な演奏をし、観客を引き込んでいたが、瑞葉だけは別格だった。彼女の集中が伝わってくるようで、初めの音が鳴る前から、会場は魅了されていた。
瑞葉は流れるように、そして、情熱的に演奏した。彼女の響かせる音は一音一音正確に混ざり合った。
私は思わず、瑞葉に見とれていた。きっと観客全てがそうだっただろう。瑞葉が演奏に込めた熱量が凄まじく、私たちはその熱に侵されたように高揚した。彼女の演奏に溶かされてしまいそうなほど、夢中になって聴き入った。
演奏が終わると盛大な拍手が沸き起こった。瑞葉はとても満足気で、今にも私の方を向いて「楽しい!」と叫び出すような気がした。瑞葉はその時、とんでもなく美しかった。これより美しいものなんてないんじゃないか、と思うほどに美しかった。表現として正しくはないのかもしれないが、彼女はエクスタシーの中にあるようだった。
誰もが美しいピアニストの将来に期待を抱いた。
しかし、瑞葉はそれ以降、一切のコンクールに出ることはなかった。
そればかりか、ピアノすらも弾くことができなくなってしまった。