表現の自由と商業作品
先日来話題になっている、『二度目の人生を異世界で』の問題。私もその件で一つ、エッセイで論じておりますが。
その感想欄への書き込みや、他の方のエッセイを読んでいて不思議に思うのは。
今回の問題を、「表現の自由の侵害」という問題に繋げる論説が多い点です。
何故それを不思議に思うのか。ちょっと分析してみたいと思います。
1. 自由の限度
自由には、一定の限界があります。「自由」と言っても、何をしても良い訳ではないという事です。そしてその限界は、「社会的な限界」と「社会人としての限界」があるのです。
○ 社会的な限界
これは、「公共の福祉に反しない限り」という文言で示されます。
例えば、人はどのような思想を持つことも許されています。「この雑踏の、全ての人を殺してやる」と考えても、考えるだけならそれは自由です(内心の自由)。けれど、実際に刃物を持ち出して、その思想を実行に移す自由は認められません。
とは言っても。どこまでが「公共の福祉」に入るのか。「思想」は許されて「行動」は許されないというのなら、「言論」は許されるのか。その辺りは判断の分かれるところでしょう。
また、本件はまさしくその「言論」の範囲の為、これに対する出荷停止等の処分は「表現の自由」の侵害だ、と言いたくなる気持ちは、わからなくもありません。けれど、現状はこの「言論」が「公共の福祉」に該当するのか、という問題は、一旦留保させていただきます。
○ 社会人としての限界
これは、「自由には責任が伴う」という事です。
例えば、人は赤信号を無視して交差点に突入する自由があります。けれど、その「自由」を行使した結果、警察に違反切符を切られて罰金を課されるのだとしたら、それを受け入れ反則金を納付する「義務」があるでしょう。或いは、その「自由」を行使した結果、車に轢かれ重度の障害を負ったとしても、それは自分が負うべき「責任」です。
自分でその責任を負えないことは、してはならない。だからこそ、未成年者(子供)は大人(親)により、多くの自由を制限されるのですから。
2. 責任の訴求先
今回の『二度目の』の問題は、表現の自由の問題ではありません。それぞれこの一件に関わった当事者の、因果関係を分解してみれば、それがよくわかります。
○ 作者と中国のネットユーザー
作者が「表現の自由」を行使した結果、中国のネットユーザーはそれをヘイトだと叫びました。
作者の行いが「表現の自由」として許されるのであれば、中国のネットユーザーの書き込みも「表現の自由」の範囲でしょう。つまり、ここまでは誰も悪くないんです。ただ、その中国のネットユーザーは、その後アカウントを削除して逃亡したと聞きますから、彼にとって自身の行いは、何か身に疚しいことだったのか? と勘繰りたくなってしまいますが。
○ 中国のネットユーザーと中国の世論
中国のネットユーザーが「表現の自由」を行使した結果、中国の世論が沸騰し、出版社やアニメ制作会社に脅迫めいた行動をとっていると聞きます。
これは、れっきとした「公共の福祉」に反する行いです。が、その自由の、社会的な限界に関しては、あくまで日本の法理念によるものです。中国人が、中国国内で、日本人に対してヘイトスピーチすることは、中国の如何なる法に適するのでしょうか? なお、日本に対してヘイトスピーチ〝しない〟ことが、親日罪として罪になる国も、この世にはあるようですが。
勿論、その人たちが実際に日本人の誰かに対して日本国内で行動を起こした場合。それは、日本の法律によって裁かれることになるでしょう。
○ 作者と出版社
作者の「表現の自由」に基づく記述が色々な問題の火種になると知っていたはずの出版社は、けれどそれに対して事前の対処をしなかった結果、中国の世論から出版社が風評被害をこうむることになりました。
この場合、出版社の取り得る選択肢はふたつあるでしょう。一つは、中国世論の異常性を訴え、作者を守ること。もう一つは、作者の作品を出荷停止にすることで、出版社と同社から出版される他の多くの作品を守ること。どちらを選んでも、そこに善悪の問題はありません。
前者を選ぶのであれば、長い時間と膨大な資金が必要になり、また対国家・対民族である以上勝てる見込みはほとんどありません。一方後者は。そもそもの元凶が「作者の表現の自由に基づく記述」と断ずれば、そこに責任を追及することは理に適っています。
作者にとって、それが納得いかないのであれば、出版社に対して異議を申し立てるべきでしょう。但しその場合、ここで出版社が放棄した第一の選択肢、中国世論の異常性を訴えることに関し、現実的な方法並びに出版社の負担する時間と金銭を肩代わりする必要が出てくるでしょうが。
○ 作者(出版社)とイラストレーター、それに声優さん
作者が「表現の自由」を行使した結果、中国世論の批判がイラストレーターさんや声優さん(以下「声優さんたち」とします)に及んだ場合。
声優さんたちにとっては、完全なとばっちりです。彼らはきっとこう思うでしょう。「喧嘩したいなら余所でやれ。俺たちを巻き込むな」と。
つまり、声優さんたちの立場では、「作者と出版社、それに中国世論」というのは一括りで「自分に迷惑を掛ける相手」なんです。その三者のうち誰が一番悪いかは、知ったことではありません。損害賠償を請求するのなら、三者連帯で。但し、「中国世論」とは実体がありませんから、実質的に出版社と作者の両方に損害賠償を請求し、その負担割合は両者で話し合ってくれ、という話になるでしょう。
もっとも、イラストレーターさんにとって出版社は自分の直接取引先だから、ある程度の妥協の余地はあるかもしれませんけれど。
○ アニメ制作会社と声優さん
作者が「表現の自由」を行使した結果、中国世論の批判が声優さんたちのところに及び、それが今後の仕事に差し支える可能性が出てきた場合。
声優さんたちは、その作品の出演を辞退する自由があるでしょう。この場合、契約を破棄する訳ですから、声優さんたちは違約金の支払いを求められるかも知れません。けれど、声優さんたちにとっては、違約金を支払ってでもその仕事を降りた方が自分の利益になると考えるかもしれません。或いは、「元凶は作者が表現の自由を行使した結果」であると評価し、声優さんたちに責任はないとアニメ制作会社が判断するのであれば、その責任は作者と、その作者の言論を放置した出版社に対して追及するでしょう。
○ アニメ制作会社とスポンサー
作者が「表現の自由」を行使した結果、中国世論の批判がスポンサー企業のところに及び、それが企業イメージを損ねる可能性が出てきた場合。
その企業は、アニメのスポンサーから降りる自由があるでしょう。出資者が負うべき「自由に伴う責任」の範囲は、出資した範囲に留まります。つまり、スポンサーから降りたとしても、既に出資した資金の返還請求は原則的に出来ませんが、それ以降は出資しない自由があるのです。
けれどそれとて、「元凶は作者が表現の自由を行使した結果」であるのなら。つまり「作者が悪い」と断ずることが出来るのであれば。その返還請求は企業ブランドイメージを毀損した損害賠償という形になって作者に追及されるかもしれません(もっとも、たかがラノベ作家ひとりに対して企業が損害賠償請求をしたら、その方がブランドイメージを毀損することになるでしょうから、何もしないでしょうけれど)。
○ 作者(出版社)とアニメ制作会社
作者が「表現の自由」を行使した結果、声優さんたちが一斉に降板し、スポンサーが離れ、結果その企画が興業として成功する見込みがなくなった場合。
アニメ制作会社は、その企画を中止する自由があるでしょう。その結果、既に費出した経費は回収出来なくなりましたが、それを損害として出版社なり作者なりに賠償請求するかどうかは、制作会社の考え方によるでしょう。
3. 自由と責任と相互主義
作者が「表現の自由」を行使した結果、そのアニメの企画が中止になり、また出版物も出荷停止になりました。その作者の、他の作品の出版にもこの問題は派生するという話もあります。
それを見てた日本のネットユーザーは、「表現の自由の侵害だ」といいます。敢えて「ヘイトスピーチ規制法」という法律に絡めた言論をする人もいます。
ただ、ここまで読んでいただけた方にはもうお分かりのことと思いますが、これは法律問題ではなく、言論に対する規制問題でもありません。それぞれの立場の人たちが、それぞれの立場で許された自由を行使した結果に過ぎないのです。
「表現の自由」を守れと言う人は、中国で「その作品を批判する自由」を認めないのでしょうか?
「表現の自由」を守れと言う人は、出版社が「他の著者の作品に問題が飛び火しないように守る自由」を認めないというのでしょうか?
「表現の自由」を守れと言う人は、イラストレーターさんや声優さんが「自分の仕事と収入を守る為に仕事を選ぶ自由」を認めないというのでしょうか?
「表現の自由」を守れと言う人は、スポンサー企業が「ブランドイメージを守る為に出資する作品を選ぶ自由」を認めないというのでしょうか?
「表現の自由」を守れと言う人は、「興業的に失敗することが明らかな作品を、損失の少ないうちに打ち切る自由」を認めないというのでしょうか?
ここでいう「ネットユーザー」さんたちは。つまり「自分にとって都合の悪いことは、全て自分以外の誰かの責任だ」と言っているだけではないでしょうか?
表現の自由。
それを守らなければならない。
けれど、それを目にする人が増え、それに関わる人が増え、そこで動くカネが増えたら。
少しずつ、しがらみは大きくなっていくでしょう。軋轢を避ける為に、正しいことでも慎まなければならないことも生まれてくるでしょう。
けど、それは。
決して「表現の自由」に対する侵害、ではありません。
そして、本件に於いて、作者の「表現の自由」は、作者の「責任の負える範囲」に収まっていてでしょうか? そこが、問題だったのではないでしょうか?
(4,093文字:2018/06/12初稿)