紫陽花
誰にでも好きな花の一つくらいあるだろう。或いは思い出に残る花でもいい。兎に角、一つくらいは印象的なものがあるだろう――――無いって? 花が苦手? だったら話は終わりだ、そっと閉じてくれ。
さて、それでは花にまつわるちょっとした思い出話をしよう。とはいえ、特別花に造詣が深い訳でも無ければ、強い興味があるでもない。だが唯一、『紫陽花』にだけは目を惹かれてしまう。紫陽花といえば初夏の花、じめじめと些か気分のよろしくない梅雨の時期、雨上がりの水溜まりと共に愉しむ花。愉しみ方など人それぞれだが、あえて断言しよう。あれはそうやって眺めるものだと。
紫陽花を特別視する理由は当然ある。しかし特筆すべきでもないので端的に。幼い頃、母に連れられよく足を運んだ小さな公園。遊具があるでもない、子供にとっては退屈な場所。だが梅雨の時期にだけ魅せてくれる特別な光景、辺り一面を埋め尽くす青や紫、単にそれが好きだった。いや、或いはそれを見て喜ぶ母の笑顔が好きだったのかもしれないが、そんな事を容易く認めるほど素直では無い。だからとりあえずは『紫陽花が好きなのだ』と、そういう事にしておこう。
これもまた思い出の一つではある。しかし本当に話したいのはここからだ。母とのそれは、あくまで前提と置いてくれ。
あれはよく雨が降り続いた肌寒い初夏のこと。長く休みも取れず、すれ違うばかりの二人に打ちつける連日の雨。そんなものに辟易し、互いの関係に一つ、冷たいものが射し込み始めた頃だった。丁度長雨の切れ目にたまたま重なった休日、ここを逃してはきっともう、亀裂は深まるばかりだろう。だが世間でいう所の日曜日、どこへ行こうが人の群れ。だからささやかに、あまり人気の無い植物園へと連れ立った。ただ他愛ない話でも出来ればと、そう考えて。
思惑通りに静かな園内、ここならゆっくりと会話もできるだろう。何より薔薇や花菖蒲といった鮮やかなものが、意外にも心を落ち着けてくれた。きっと溜まりに溜まったものがそう感じさせるのかもしれないが、兎に角、花に興味の無い者でさえ愉しませる、なかなかに悪くはない場所だった。
しかし肩を並べて歩く二人の間には華やかな会話の一つも無い。久方ぶりの時間だというのに、これからが夏本番だというのに、まったく冷めてしまったものだ。場所の選択が悪い? 耳が痛いね。
そうしてしばらく、互いの視線は明後日の方を向いたまま、ただただ歩くばかり。やれやれ、最早何をしにきたのやら。するとそんな沈み込んだ気分を照らし上げるような、一際気を惹く色と目があった。青、白、紫――――ほんの小さなものの集合体が脳裏に焼き付くものをひっぺがし、それを強く思い出させる。なんとなく、黙ってそれに見入っていた。
「紫陽花の花言葉って、知ってる?」
「知らない。何?」
唐突なやりとりだった。そして唐突に、言葉の主は踵を返してどこかへ消えてしまった。
“ 移り気 ”だそうだ。どうやら長く会わない間に浮気でもしているのではなかろうかと、そう疑われていたようだ。まったくの濡れ衣ではあるが、躍起になって否定する気も起きなかった。
それがまずかった。気づいた時にはもうどこへ行っても浮気者扱い。証拠なんてものは無い、そもそも無実だからな。だが団結した者を相手にしたところでロクな事なんて無い、これまでに何度も経験したことだ。それに僅かながら味方が居た、それだけで良かったんだ。
しかし、やれやれ。まさか紫陽花を切欠にこんな事になってしまうとは。元から冷めてたって? うるさいな、これでも気持ちはあったんだよ。
それからはもう、ただ仕事に明け暮れた。職場とねぐらを行き来するだけの日々。そうして幾何かの時間が過ぎた頃、実家からのお呼び出しがあった。連絡の一つも寄越さずに、ちゃんと飯を食っているのか、生きているのかと。強がってはみたものの、正直疲れ果てていた。それは仕事のものもあったが、何よりもあの一件。なんだかんだで引きずっていたんだよ。ナイーヴだって? 誰だってそうだろ。それに丁度有給を消化しろと愚痴られたタイミング、これも何かの示しかと帰省する事にした。
久しぶりの故郷だ、ゆっくり羽でも伸ばそうとそれなりには浮かれていた。だが待っていたのは見合い話。そろそろ身を固めても良い頃だろうと、勝手な話を押し付けられる。当然丁重にお断りしたのだが、いやはやどうにも煮え切らない。それはきっと先のものもあるのだろう。だからそんなものを全て、紫陽花の思い出と共に投げつけてやった。
「――――で、紫陽花が嫌いになったと」
「まあ、今は見たくないね」
はじめはそれなりに真剣な顔で聞いてくれていた。だが、気づけば笑っていやがる。そりゃあ直接の原因ではないが、一方的に罵られた上に徒党を組まれてお手上げ状態を食らったんだ。花に罪は無いが、それを美化できる奴がいたとしたら、そいつは相当な間抜けか聖人くらいだろう。
だがそこからどう力説したって、ただただ笑うばかり。昔っからどこか一つ、上からモノを言う人間なんだ。そんな母親の血を継いでいるからだろうな、当然こちらもムキになるんだよ。
「紫陽花の花言葉はね、一つじゃないんよ」
いよいよ諦めた頃に、ポツリと言われた。
“ 家族団欒 ”
紫陽花のお陰でお前の顔が見れたと、そんな事を言ってやがった。途端に気が抜けた。
やれやれ、いつまでも敵わないものだ。
いつまでも、子供ってことだな。
誰だってそうさ。そうだろ?