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三男アガリアレプトの決着

―――いかん。

 俺は危機感を覚えていた。

 なんてことだ。一気に兄弟が結婚し、ついに未婚は俺とルキ兄貴だけになってしまったのだ。

 ルキ兄貴には輝夜姫という候補がいる。リリスが俺の方を問題視し、何かしてくるだろうと容易に想像がつく。というか、すでに工作しているフシがある。

 かわいい妹の頼みは何でも叶えてきた俺だが、こればかりは無理だ。

 そもそも結婚などしたくない。

 俺は兄妹弟に家族の愛情は持てるようになったが、恋愛感情は変わらず持っていない。バカバカしいとすら思ってる。これまで妻の座欲しさに面倒起こした女がどれほどいたか。だから俺は結婚願望など皆無だ。

 とはいえ弟妹が全員結婚すればルキ兄貴も安心するだろうと契約結婚を考えたが……物の見事に断られたしな。

 嘆息する。

 そのアイリスは今、目の前で仕事の話をしていた。

 お互い気まずさなど微塵もなく、ビジネスライクに相談している。ああいうことがあれば普通何か思うだろうに、アイリスの対応は冷静なものだ。

 ふむ。やはり有能で傍に置いておきたい人材だ。

「―――以上で今日のところは終わりにしよう。ところで考え直して契約上の妻になる気は」

「ありません」

 すっぱり断られた。

 この俺に対してこの応対ができるだけでもすごい。

「また同じ返答か」

「というか、打ち合わせのたびに提案されるのいいかげんおやめになっては? もう何度目ですか」

 あきれたようにため息つかれた。

「委縮したり、逆に取り入ろうとしたりせず、自分の意見を言える人材は貴重だ。引き抜いて手元に置いておきたいと考えるのは当然だろう」

「ですからそんな理由で求婚されてもお断りです。そもそも結婚せず済ませられるんじゃありませんでした?」

「状況が変わった。ルキ兄貴を除き兄妹弟全員が結婚し、お節介がひどくなってな」

 それに傷心のフリは無理だと気付いた。俺の性格的に傷つくとかありえないと総ツッコミが入る。

「ご愁傷さまです」

 にっこり笑って終了。

 まったくの無関心だな。さすがに不愉快だ。

「よって、見せかけの妻が欲しい」

「他を当たってくださいな」

「それができれば苦労しない」

「でしたら、演技が上手いということで女優をお雇いになっては?」

「女優やその卵とは過去何人も付き合ったことがあるから分かる。不可能だ」

 どいつも俺を金づると考えてる。

「大体、演じるのが仕事な人間を妻役にしても、嘘だと見破られる可能性が高い。過去の女に何人もいただけに、なぜかと不審がられるだろう」

「それはご自分の過去の行いが悪いせいですわねぇ」

「まったく別のタイプで、かつ兄妹弟に好印象でなければいかん。条件を満たす女はお前だけだ」

「探せば他にもいるでしょう。がんばってくださいな」

 ムッ。

「そこまで俺に興味がないのか」

「ありません」

 一刀両断とはこのことだな。

「仕事のパートナーとしてはとても優れた方だと思いますし、やりやすいのですが、伴侶や恋人としてはお断りします」

「なぜだ」

「まずその傲慢な態度ですね」

「命令するのは嫌だというから譲歩したが?」

「ええ、ずいぶんな進歩ですわ。正直驚いてます。ですが初めに言いました通り、私は愛情がなければお断りですの」

 愛情……。

「愛情とは何だ?」

 純粋に疑問に思って聞いた。

 アイリスは驚いたように俺に見えぬ目を向けた。

 ややあって、

「……そう……ですね。お分かりにならないんでしたわね。でも大丈夫ですよ。ご兄弟も同じだったのに、愛する人を見つけられたじゃありませんか。アガリアレプト様にもきっと、そんな人が現れますよ。急がなくて大丈夫です」

 そっとアイリスの手が俺の手に重ねられる。安心しろというふうに。

 他の女なら即座にふりほどくところだが、そうしなかった。

 ……なぜだ?

 ―――愛情とは一体何なんだ? 俺は知らない。

 

   ☆


「おい」

 さんざん考えた結果、俺は休憩中の次兄を呼び止めた。

 こいつは兄と言いたくないのだが。ルキ兄貴は頭が良くて何でもできるすごい人なのに、こいつときたらちゃらんぽらんでアホでまったく。

 だから俺は決してこいつを「兄貴」とは呼ばない。

「んー?」

 飄々とした次兄が振り返る。

 いつものようにおちゃらけるかと思いきや、俺の顔を見た瞬間にスッと真面目な表情になった。

 ん?

「うん。ちょっと人に聞こえねーとこで話したほうがよさそうだな」

 次兄はうなずいて、

「お前の部屋でいいか? オレんとこはローレルがいるからさ」

「別に」

 誰にも聞かれないという点では一番いいだろう。

 自室に戻り、唯一の椅子にドッカリ座る。他人を部屋に入れないため、椅子は一つしかないのだ。

「おーい。オレ座るとこねーじゃんよ。当たり前みたく自分だけ座んな。いいかげん一つくらい買えよ。レティに頼めば」

「必要ない」

「兄に対してひでぇの。しゃーねぇ。窓辺に腰かけるわ」

 よいしょと出窓部分に腰かけ、足を組むとまっすぐ俺を見た。

「んで?」

「……その前に。珍しく真面目だな」

「お前、オレを何だと思ってんの。毛嫌いしてるオレに声かける時点で、相当切羽詰まってんだろ?」

 切羽詰まってる?

 そうなのか?

「あのなぁ、オレだって兄貴だっつーの。弟が困ってたら、真剣に相談乗るわ」

「…………」

「ま、どうせ相談内容はアイリスちゃんのことだろ。どーせ自分からはプライドの問題で言えねーだろーから、オレが言ってやる。リリスに嫁斡旋されんのが嫌で、契約妻用意して回避作戦取ろうとした件な? ハナからうわべだけの夫婦を演じ、目的達成後は速やかに離婚するつもりだった。お前は『妻』にも『家族』にも縛られんのはゴメンってヤツだ。金で雇った妻役なら安心てわけだろ。お前にとって金は重要な基準だから」

 次兄はベラベラとしゃべり始めた。

「なんで知ってる」

「そこで驚くのがアガのツメの甘さっつーか……まぁとにかく、そんで妻役は誰にするかって問題な。単純に演技上手なら女優とかその卵だけど、職業が職業だけに演技じゃ?って勘ぐられやすい。ネビロスあたりが速攻気づくだろうし。オレやルシファーも分かるだろーけど、ルシファーはわざわざ指摘しないし、オレが言っても無視すりゃいいと思ったんだろ」

「その通りだ」

「ほんっとお前、オレにはすげぇ塩対応。……ま、そんだけ気が置けないっつーか、迷惑かけてもいい相手がいるってことだ。甘えられるといってもいいな。兄ちゃんは怒るどころかうれしいよー」

「あ? 何言ってる」

「別に」

 次兄は肩をすくめ、

「で、これまでと同じタイプの女性だと不審がられる。全然違うタイプの子がいいって結論づけたんだろ。でもなかなかいない。そりゃそうだ。お前に寄ってくる子は特定の傾向があるもんよ。真逆の子はそもそも寄りつきもしねーって気づけや」

「人脈はある。使えばどうにかなるかと思った」

「お前にそういう子紹介しようって人間いると思うか? 恐れられてんだぞ。下手すりゃ殺されるかもしれねーって考えて、どうにかして逃げるわ普通」

「俺はクソ親父じゃない。誰が殺すか」

「一番似てるって言われてるんだぞ。自覚持てや」

「…………」

 かなりショックを受けた。

「……あの野郎と似てるだと?」

「傲慢な性格のせいだなー。あと、外見。いつも不機嫌で周り威圧すんのやめろ」

「していない」

「へいへい。それとさぁ、妻役が見つからねーの、根本的な原因があるぞ。()()()()()()()()()()()()()女性を探そうなんて、どだいムチャなんだよ」

 俺にだけ都合がいい。

 言われて初めて気づいた。

「……そうか。相手にとってはうまみのない契約だから断られたのか」

「うまみって。そーゆー考え方がダメだっつーの」

「?」

「ま、相手の女性にメリットはねーよな。仕事が終わったらハイさよならしてくれるってことは、お前の妻の座にカケラも興味ねぇってこった。不要だからあっさり捨ててくんだろ。つまり言うなればお前は相手に本人が不要だと思ってるもん押しつけといて、演技させて、それでありがたく思えっつってんのと同じなんだよ」

 俺は目をまたたいた。

「妻でいる間は十分なほどの金を与え、自由に使っていいと許可したぞ」

「誰もがお前の金ほしいわけじゃねーっつーの。そーゆーとこが傲慢だって。なんでそこまで自分と自分の持つ金が……いや言わなくていい、分かってる。そういう教育受けた上に、今までそういう人間ばっか寄って来たもんなぁ」

 次兄は手を振って俺の反論を止めた。

「お前はさ、その自分に対する評価ちょっと改めたほうがいいぞマジで。ちょっと過大評価気味。自分が一番すごいえらいって考えんのはアブネーよ」

「考えてない。俺なんかよりルキ兄貴のほうがよっぽどすばらしい人だ」

 断言。

「ハイハイ、このブラコン。ともかくそうやってっと、どっかのクソ親父みたくなりかねねーから気をつけろ」

「また言うか」

 さすがにムカつく。

 殺気を露骨に出せば、次兄は受け流した上に頭をかいた。

「ま、なるとは思ってねーけど。アガはちゃんと人の意見聞く耳持ってるもんな。ただ、お前と金の価値は自分で思ってるほどでもねえってことだ。地位や金に興味のない人間も世の中にゃいる。オレらみたいにさ」

「それは理解している」

「アイリスちゃんもそう。なのに不要なもんあれこれ一方的に押しつけられ、挙句上から目線じゃーなぁ。そりゃ断るよ」

「俺の元妻という立場も利用価値がないということか?」

「妻の座どうでもいい人間が、元妻の称号ありがたがるか?」

 ……その通りだ。

「それでも妻役やってくれる女性がいるとすりゃ、例えばどうしても金が必要ってケースな。身内が病気とか借金で。小説でよくあるやーつ」

「確かにありがちだな」

「相手もそんくらい追い詰められてなきゃ、お前の横暴さには耐えらんねーんじゃね」

「そこまで言うか」

 ズケズケと。だからこいつは嫌いなんだ。

「それか、本気でお前のこと好きだから、見せかけでも短い間だけでも一緒にいたいか―――」

「―――『好き』とはどういう気持ちなんだ? 理解できん」

 俺はきいた。

「アイリスも愛情がどうのと言っていたが、俺には分からない。なぜそこまで皆求める?」

「…………」

 次兄は黙って俺を見やった。

 どこか共感のまなざしで。

「……そーだな。オレも生まれが生まれだし、分かるよ。ローレルとセンセーに会ってなきゃ、お前みたいになってたかもな」

 頬杖をついて考えこむ。

「そーだなぁ、なんつったらいいか……安らぎ、かな?」

「安らぎ?」

 なんだそれは。

「オレにとってローレルは安心できる場所だ。彼女がいるだけで落ち着く。心がこう、ホッとする感じ? 何となくそれなら理解できるんじゃね、アガだって兄妹弟にそんな感情なら持ってるだろ。それを、兄妹弟以外の誰かに感じたらそう」

「ホッとする……?」

 思い浮かぶのはアイリスだ。

「一生傍にいてほしい。見返りなんて求めず、喜ぶことをしてあげたいと思う。幸せにしたい、笑っていてほしい……。オレはそう思うかな」

「…………」

 こいつは自分の幸せよりも相手を優先し、一度は手を離した過去がある。まったく理解不能だが。

「なぜ自分が損しなければならない? こちらが何か提供すれば、相応のものを支払うのが当然だろう」

「んー、何でも損得勘定につなげるクセもやめたほうがいいぞ。商売だけにしとけ。人間関係はそうもいかねーの。あー、ホラ、お前だって療養中のスミレちゃんの内職は手数料抜きで売ってやってたじゃん。それは損じゃねーだろ?」

「あれは、でないとレティが怒り狂うだろうが。しかもあいつ、後になってやっぱり惜しいとか言い出して、全部買い取ったよな」

 最初の頃はあいつも金がなかったが、俺やルキ兄貴の指導である程度小遣い稼げるようになるとスミレの作ったものを全て買い集めた。そして途中からは俺が売ったとみせかけて全部買いあげていた。

 レティも貢ぎ癖があるというか、囲い込む性格というか。

「口実はどうあれ、そーゆーことだよ。色々自覚がねぇのが欠点な」

 次兄の指が俺の眉間をつき、ぐりぐりシワを伸ばした。

「何する。やめろ」

「シワ。すげーの寄ってんぞ。お前はさ、ほんとはもう分かってんのに気付けてねーだけだ」

「はぁ?」

「ほら、またシワ寄った。ただでさえ不機嫌そうなツラがよけいひどく見えんぞー。ンなに人を威圧してどうすんの? なことして先手打って身を守ろうとしなくても。もうそんな必要はねーだろ?」

「…………」

 虚を突かれた。

 ……そうだった。俺も最初からこういう態度だったわけじゃない。俺を拾ったライバル商会の連中や母方祖父といった『大人』に対抗するため身に着けた技だった。敵を圧倒するくらいでなければ、子供だとナメられる。『大人』をなぎ倒していかねば生き残れない。

 傲慢な言動も、相手からどう見えるか計算して動くのも、生き延びるための手段だったはずだ。

 自分でも知らぬうちに、いつしかそれが『当たり前』になっていた?

 最初は演技だったものが『俺』になってしまっていたのか?

 俺は……。

「ある程度は元々の性格だったのが、環境のせいでより強まったってとこだろ。でもま、そろそろやめていーんじゃね? 楽になってもさ」

 次兄は軽くデコピンしてきた。

「いてっ」

「お前は一人じゃない。オレたちがいるんだ、ちょっとは頼れよ。え、頼りない? んじゃあ、嫌いなオレにめんどくさいこと押しつけるってことにしてもいいさ。それならできんだろ?」

「……まぁな」

 こいつになら遠慮ゼロで何でも押しつけられる。

 ……それにしても、何だか慣れてるといった口ぶりだな? どういう意味だ?

「よーしよし」

 疑問はわしゃわしゃと髪の毛かき混ぜられて吹っ飛んだ。

「おいっ、いいかげんにしろ!」

「別にオレは独身主義を否定するつもりはねーのよ。オレだってそのつもりだったし。そのほうがお前が幸せならいいさ。でもなぁ、お前は独りじゃダメだわ。気ィ張り続けて生きてきたから。誰か癒してくれる存在が必要」

「……?」

 癒し……?

 眉をひそめる俺に、次兄は苦笑して手を離し、ドアのほうへ歩いた。

「ま、グチならいつでも聞いてやるよ。どうすりゃ彼女落とせんのかって相談もな。考えとけ~」

「…………」

 後ろ姿はいつものヘラヘラとした男だった。

 ……だが。

「……ありがとう。ナキア兄貴」

 ぼそっと小さくつぶやいた声は聞こえたはずだ。一瞬体が震えたのが見えた。

 しかし振り向いたり茶化したりはせず、ヒラヒラと手を振っただけで出て行った。

 俺が見られたくないのが分かっていたんだろう。そういう察しができる男だ。

 ……俺の尊敬する兄はルキ兄貴だけだ。でも。

 ぐちゃぐちゃになった髪をなでつけた。


   ☆


 あくる日、俺はアイリスの家を訪ねた。

 彼女の家はそこそこ裕福な貴族で、跡継ぎの兄は結婚してすでに子供もおり、盤石だ。

 兄夫婦は目の不自由なアイリスとこれまで通り一緒に暮らすつもりだったが、アイリス自身が邪魔はしたくないと離れに移った。そこをレッスンスタジオに改装し、人に迷惑かけずいつでもピアノを弾けるようにちう口実で。

 いきなりの訪問に、父子はあからさまに怯えていた。

「ああああああアガリアレプト様、どどどどどういったご用件であらせられますでしょうかその」

 めちゃくちゃどもって震えている。今にも殺されそうだと顔に書いてある。

 そこまで恐いか。

 俺だって脅そうと思ってもいないのにそこまで怯えられると不愉快だ。

 つい眉間にシワが寄りかけ、ナキア兄貴の言葉を思い出した。

 ああ、そうか。こうやってイラついて不愉快をあらわにするから余計恐れられるのか。

 意識的にシワを消そうとしながら、

「アイリスに会いに来た。いるだろう」

 今日は自宅で練習しているはずだ。予定は把握している。

「でででですよねもちろん、はい。ここここちらでございます」

 当主である父親自ら案内に立つ。右手と右足が同時に出てるぞ。

 アイリスの住む離れはコテージのようなもので、自然の中に建てられていた。貴族の持ち物にしては素朴というか。

 アイリスは演奏中だったにも関わらず、すぐに気づいた。

「あら、アガリアレプト様」

 鍵盤をたたく指を止め、こっちを向く。

「よく分かったな」

「足音や気配で分かります。特に、アガリアレプト様はオーラが強いので。ああ、お父様、言い忘れてましたわ。ごめんなさい。アガリアレプト様は私のレッスン室に興味がおありとかで、近いうちに見に行きたいとおっしゃっておいででしたの。ほら、後援してらっしゃる音楽家の卵たちのため、施設を作る計画があるとかで」

「な、なるほど」

「ええ。ですから、私がご案内と説明しますわ。お父様は戻られて大丈夫ですのよ」

「そ、そうか。それじゃあおもてなしの用意をしに一旦戻るよ!」

 父親は猛ダッシュで逃げた。

 ……やれやれ。

「上手い口実を考えたものだな。礼を言う」

 もちろんそんな話はしたことがない。アイリスが父親を納得させるためとっさについた嘘だ。

 だがまぁ、確かに設備に興味はあるから後で見ておこう。

「いいえ。それでどうなさいましたの?」

「別に。なんとなく会いたいと思って来ただけだ」

 アイリスはあっけにとられた。

 俺はぐるりと室内を見回した。中央にピアノ、壁際には楽譜のぎっしり詰まった棚。アイリスの場合、普通の楽譜は読めないため点字のような特殊な楽譜だ。さらにそれを録音した記録媒体も山のようにある。

 南側の壁は一面がガラス張りで、太陽光がふんだんに入ってくる。こちらから見るとさながら森の中で演奏しているようだ。

 落ち着いた空間。自然で素朴、アイリスの性格そのものだ。

「なるほど。こういったリラックスできる空間での練習がいいということか。」

「え? ええ」

「参考になる。これまでは防音重視で窓もない部屋や本物さながらのステージしか用意しなかったが、こういった違うテイストも考えてみよう。ジャンルによってはそのほうが合い、効率が上がるかもしれん」

「はあ、そうですわね」

「……なぜ俺が来たのか分からないといった顔だな。俺にも分からん」

「はい?」

 ますます分からないといったふうに首をかしげられた。

「ただなんとなく、お前の家と家族を見てみたくなった。俺は普通の家庭というものを知らんからな」

 アイリスの家は和やかだ。静かというのとは違う。それは俺の育った所だ。

 ギスギスした雰囲気で、人を蹴落とすことしか念頭になかったライバル商会。俺は駒として扱われただけ。

 思えば俺も使用人たちも、いつ叱責されるか怯えていた。理不尽にクビにされる者も大勢いた。

「うちは賑やかというか騒がしいし、普通ではない。こんな家もあるんだな」

「……そうですね。うちはみんなおっとりしてますので、そのせいもあるかもしれません。アガリアレプト様のご家族も素敵だと思いますわよ? みなさん仲が良く、元気いっぱいで楽しそうじゃありませんか」

「よすぎるのも考えものだぞ」

 特にリリスとか。次は何しでかすやら。

「とりあえず、お座りになります? そちらに休憩用の椅子があると思いますわ」

「ああ」

 脇に小さいテーブルと一脚の椅子があった。

「お茶も用意させますわね」

 ベルを鳴らそうとするのを止める。

「いや、それはいい。そこまで長居するつもりはない」

 座ったものの、いつものように足を組んでふんぞり返ることはしなかった。

 アイリスは困惑したように考え込んでいる。

「……先日お前に言われたことを考えてみたんだが」

「はい? どの件でしょう」

「お前がよく口にする愛情というものについてだ。やはり俺には分からん」

「それは……」

「だが、お前の家族とこの家を見て、言いたいことの意味は理解した」

 それで来たのかとアイリスは納得したらしい。

「そうでしたか」

「兄妹弟が俺に結婚したらどうかと言ってくるのも、俺を思ってのこと。それをめんどくさいと一蹴し、妻役を雇ってごまかそうとするのはやってはいけないことだったのだというのも理解した」

「ええ」

 兄妹弟を裏切り、悲しませる行為だった。

「それで今日は口癖のように言ってらした契約を持ち出さないんですのね」

「ああ。もうやめようと思う」

 アイリスの前だとこういうこともすんなり言える。自分の非を認めるのは嫌いな俺が。

「それはよかったですわ。いい加減困っておりましたので」

「遠慮なく言うな」

「ゆっくり、ご自身のペースで奥様を探せばいいんです。ご兄妹弟だって分かってくれますわ。急ぐ必要はありませんのよ」

「……だが俺には分からない」

 感情そのものが。

「弟君たちに伺われては? 参考になると思いますが」

「もう聞いた。だがまったく分からん」

「ええと……一度、頭を空っぽにして見てください。今から言うことに当てはまる人がいるかどうか、考えてみてくださいね。理由は特になくても一緒にいたい、いると安らぐ、温かい気持ちになる……そう言われて思い浮かぶ人はいませんか?」

「君だな」

 無意識に『お前』でなく『君』と言った。

 アイリスが自分の胸に手を当てたまま、あっけにとられたように目をまたたかせた。

 俺は正直に続ける。

「ナキア兄貴にも同じようなことをきかれて、思い浮かんだのは君だった。しかし俺は愛情という者が分からないから、これがそうかどうか知らん」

「……アガリアレプト様」

「なぜ俺は妻役が必要と考えた時、真っ先に君に持ちかけたんだ? 他の女は最初から考えもしなかった。断られてもしつこく依頼したのはなぜだ?」

 本当に分からない。

 今までどんな難問も苦境も自力でどうにかしてきたのに。

 途方に暮れてアイリスを眺める。

「…………」

 アイリスも黙ってしばらくそのままでいた。

 ややあって立ち上がる。見えないとは思えぬほどしっかりした足取りで俺に近付き、ふわっと俺の頭を包みこんだ。

「そんな、途方に暮れた子供みたいな顔しないでくださいな」

「子供扱いするな」

 ちょっとムッとしたが、おかしなことにそこまで腹は立たなかった。

 むしろゆっくり頭をなでる手が心地よい。

 大人しくされるがままでいると、アイリスが笑った。

「ふふっ。かわいい人ですわねぇ」

「……俺をかわいいと評した人間はいないが」

 恐いとはよく言われる。

「かわいいですよ。ほんと、ほっとけないわ」

 くすっとまた笑われる。

 なんなんだ。

「我ながら、なんでこんな厄介な人をと思うけれど。そういうものかもしれないわね。他の人が妻役をしてほしくないと思うし。……なんだか少しリリーさんの気持ちが分かる気がするわ」

「何の話だ?」

 いぶかしげに見上げると、ぽんぽんと頭に手が置かれる。

「契約ではなく本当の妻として、ならお話お受けしますよ」

「は?」

 理解できず眉をひそめる。

 今何て言った?

 本気で脳が働いてない。

 どうした俺。

 マヌケな返答をする。

「何が?」

「結婚しましょうか」

 アイリスはいたずらっぽく唇に指をあてた。

 たぶん俺は今世紀最高のアホ面で固まってたことだろう。

 ……は?

「あら。面白い」

 慌てて頭を振る。

「いやいやいや。何て言った」

「結婚しましょうか、って言いましたの。あら? これって逆プロポーズになるのかしら」

 楽しそうに笑っている。まったく理解できない。

 え? 何が楽しいんだ? 俺のマヌケ面? それはおもしろいだろうが。

 アイリスはのんびり続ける。

「交際すっとばして結婚なんて思いもよりませんでしたけど、まぁ人生予想外のことだらけですものね」

「おい、正気か」

 マジで何を言ってるんだこいつは。のほほんとしてる場合か!

「まぎれもなく正気ですわよ。ま、こんなめんどくさい人ほっとけない、傍にいてあげたいと思ってしまったんだから仕方ありませんわ。ところでアガリアレプト様、お返事は?」

「めんどくさいって言うな。というか、お返事って、俺は子供か」

「時々そんなふうに思えますわ」

 地味にグサッとくるぞ。

「愛情のない結婚はごめんだと言ってなかったか」

「言いましたわ。それは今も変わりません。でもいいでしょう? 私はアガリアレプト様のこと好きですよ」

「な……っ」

 俺は口をパクパクさせた。

「アガリアレプト様も自覚がないだけ。まぁ、時間をかけて教育……言わせるのも楽しいかと思いまして」

「おい。色々どういう意味だ」

 不穏なこと言わなかったか?

「ダメな子ほどかわいいとはよく言ったものですわ~。ともかくアガリアレプト様は自覚がないので、私のほうが動かないと進まないでしょう? というわけで逆プロポーズとなったわけですけど、どうしますの? 嫌なら撤回しますわよ?」

「い、いや嫌じゃない!」

 慌てて否定した。でないと本気でアッサリ去られる。

 アイリスは小首をかしげ、

「どっちですか。結婚します? しませんの?」

「する」

「よくできました」

 ナデナデされた。

 だから俺は子供か!

「おい、さすがに怒るぞ」

「どうぞ。私はちっとも恐くありませんの。そんなことより今後の予定を考えたほうが建設的じゃありません? いつ入籍するのかとか、どこに住むのかとか。アガリアレプト様ならこれも商売のチャンスとして、色々キャンペーン展開するでしょう?」

「! そうだな。リリスのところでウエディング部門立ち上げさせ、発表に使う。さらにこれまで発売した曲をあわせてアルバムとして売ろう。収録曲はどうする?」

「そうですわねぇ、まずはこれとこれと……」

「アルバム限定の曲も一つ入れるか。今から作れるか?」

「ええ」

 俺はすばやくそろばんを弾き、メモを取り始めた。

 アイリスはにこにこして相槌を打っていた。

 ……なんだか上手く操縦されているきがするのは気のせいか?

 でも妙にそれも悪くないと思えた。


   ★


 うちのダンナさまは子供みたいだなぁ―――とよく思う。

 私、アイリスは休日も机に向かって仕事してるアガリアレプト様を眺めながら考えた。

 正確には私は見えていないので、雰囲気で判断している。

 ―――アガリアレプト様と結婚すると決めた日、彼はキャンペーン計画をスラスラ思いついていたかと思ったら、急に止まった。どうやら急に我に返り、どうしたらいいか分からなくなったらしい。

 頭がよく、これまでどんな難題も自力でどうにかしてきただけに、それが通用しない場合パニクるようだ。で、固まってしまう。

 あら、意外となんというか。

 これはやっぱり私が引っ張らないとダメそうね。

 私は彼の手を引いて、もっとテンパっているというか恐慌をきたしている両親と兄のもとへ連れて行った。三人とも青ざめ、何やら決死の覚悟を決めていたらしい。

「お父様お母様お兄様。私、アガリアレプト様と結婚することにしましたので」

 驚きすぎると声も出ないのか、みんなまさにその状況だった。

 一番焦っていたのは、面白いことにアガリアレプト様だった。

「おい、アイリス、いきなり今言うか!?」

「あら。アガリアレプト様が意外と繊細なので、私から言っただけですわ」

「嫌味にしか聞こえないんだが」

「そうですか? 傲慢なようでいて臆病なところもあって、かわいいじゃありませんの」

 くすくす笑ったら渋い顔された。

 そういうところがかわいらしいのよ。

 のんきに笑っている私に父がおずおずと、

「あの……アイリス? 脅されているとか、無理強いされてと過じゃないんだな? もしそうなら、わしの命と引き換えにしてでもお前を逃がすつもりだぞ」

 兄も悲壮な決意を固めてうなずいている。

 あらあら。

 アガリアレプト様から「俺はどんな極悪非道な暴君だと思われてるんだ」という空気が伝わってきた。

「大丈夫よ、お父様。私の意志で決めたことだもの」

「ほ、本当に? 脅されてるんじゃないのか?」

「む、無理してないよな?」

「こ、断れないだけじゃない?」

 家族の説得が大変だった。

 どうにか信じてくれたけど、信じられなかったのはアガリアレプト様自身だったみたい。

 まったくもう。しょうのない人ね。

 これも私が引っ張ってご兄妹弟に報告に行った。

 皆さん一様に「はっ? え? ええええええええ!?」で。まぁ喜んでくれた。

 特にサタナキア様が感に堪えないといったふうに、

「よかったマジで……これで肩の荷下りたー! ありがとう! ローレル~、やっとオレ楽になったよー!」

 奥様に抱きついて感涙にむせび、「よく分からないけどよかったね?」と頭ポンポンしてもらっていた。

「ようやくローレルのことだけにかかりきりになれる。あー、幸せ」

「? 何が? どうしたの、ナキ君?」

「お嫁さんのことだけ考えてればよくなって幸せ~ってこと」

 言葉だけ聞けば新婚のノロケだけど、なんだか危ないにおいがした。私は目が見えないぶん、人の感情に敏い。

 なんというか、ネビロス様と似た、執着と裏工作の香りが。

 ……まぁ、よその家庭の話なのでほうっておきましょう。ええ。

 つまり、これまでサタナキア様がアガリアレプト様の諸々の後始末をしていて、もうやらなくなってもよくなったと。苦労が忍ばれる。

「これからは私が手綱しっかり握っておきますわ。心配いりません」

「女神か! マジ感謝!」

「おい。どういう意味だ」

 ムスッとしてたけど、アガリアレプト様は有能な商人。大々的に報道してキャンペーン展開し、アルバムも発売。関連して才能ある無名のアーティストたちもニュースで取り上げさせ、彼らの仕事も大幅に増えた。

 リリス様に急きょウェディング部門を立ち上げさせ、式場の花や食器、テーブルウェアに至るまで特集を組ませてしかも即日ネットで注文できるようにするという徹底ぶり。予想通り注文が殺到し、生産が追いつかない状況だとか。国外からも注目されている。

 小物一つすら逃さず販売戦略にかけるとは、さすがという他ない。

 当面の住居は警備の問題で城ということになり、ご兄弟の奥様同様私が引っ越した。

 最初アガリアレプト様の部屋に足を踏み入れた時、仕事関連の本や資料しかない殺風景さにあきれた。せめてもうちょっと何か置きましょうよ。

「なんだか寂しい部屋ですわね。花くらい飾ったらよろしいのに」

 私が家具一通り持ってきてよかった。でなければ座るところもない。

「花なんか置いてどうする」

「きれいでしょう? 私は見えませんけど、香りは分かります。これじゃあまりに寂しいというか……ちょっと色々変えていいですか?」

 ナチュラルテイストの家具を置き、カーテンや絨毯も淡い色彩に代えてもらう。花瓶に花も飾ってもらった。

 アガリアレプト様は鼻を鳴らし、

「フン。勝手にしろ。……まぁ悪くないしな」

 素直じゃないわねぇ。

「ええ、勝手にします。ただ一点、お願いがありまして。なるべく床に余計なものは置かないでもらえますか? 家具の配置を変える時も、先に言ってくださいな」

 でないと私はぶつかってしまう。決めた所に物が置いてあれば、慣れているからスッスッと動けるのだけど、言われてなくていつもと違うと非常に困る。

「人は気配で分かるんですが、物はそうもいかなくて」

 アガリアレプト様はハッとして、

「ああ、そうか。気をつけよう。メイドにも周知しておく。ぶつかって怪我でもされたら困るからな」

 怪我したら大変って意味ね。そう言えばいいのに。

 アガリアレプト様の言動は基本クーデレと解釈することにした。デレがほぼないけれど。

 ……こうして思いがけなく始まった新生活。けっこう上手くいっていた。

 アガリアレプト様は常に不機嫌そうだし相変わらず威圧的だけど、私はちっとも恐くないし。本当は違うと知ってるもの。

 本音が分かってると、「素直じゃないなぁ。かわいいなぁ」と思う。私がニコニコしてるとアガリアレプト様も毒気を抜かれるようで、「フン」と言いつつ大人しくなる。野生の獣を手懐けてるみたい。

 アガリアレプト様は仕事に対して熱心で真面目。ルキフグス様を見ていて自分はちゃんと休憩をとるようにしているし、定時に上がるようにもしているけれど、オフの時でもたいてい何かやっている。ワーカホリック気味。

「アガリアレプト様何してらっしゃいますの?」

「輸出に関するデータを分析している」

「今日はお休みですわよね? 仕事から離れてみてはいかがです?」

「…………」

 沈黙。

 これは対処に困っている時の反応だ。

「……一応お聞きしますけど、お休みの日って普段なにしてらっしゃいますの?」

「…………」

 アガリアレプト様の眉間のシワが深くなる。

 はあ。

「ルキフグス様ほどでないにしても、十分ワーカホリックですわね。兄君を見ていれば、仕事ばかりはいけないとお分かりでしょう」

「うるさい」

「はいはい。今日は仕事以外のことをしてみましょうか」

「なんで俺が」

 私は小首をかしげてみせた。

「あら。おできになりませんの?」

「できるに決まってるだろうがっ」

 この人の操縦方法って意外と簡単なのよね。

 アガリアレプト様はパソコンを立ち上げて、

「では株価のチェックを―――」

「それお仕事ですわよね」

 デイトレーダーの。

「オークションに出品しておいた美術品の現在価格は」

「それもお仕事ですね」

 古美術商としての。

「各国の最新動向の報告を聞」

「お仕事です」

「売れ残りの在庫品をどう処分するか考え」

「モロにお仕事じゃないですか」

「オンラインショッピングのセールと輸送体制の強化」

「ですからお仕事です」

「リリスのとこのウエディング部門とマタニティ・ベビー部門の広告を」

「全部お仕事関連ですってば」

 アガリアレプト様は撃沈した。

 ダメだわ。この人、息抜きってこと知らない。

 厳しい商人のもとで結果を出さなければ野垂れ死に、という環境で育ったからとにかくお金を稼ぐことしか分からない。子供らしく遊ぶことも、誰かに甘えることも知らない。したいとかいう問題じゃなく、そもそも「知らない」。そんな発想すら浮かばない。

 生き抜くためにはひたすら知識を身につけ、強い人間を演じて武装し、金儲けをするしかなかった。

 私は肩をたたいてフォローした。

「まぁ、落ち込むことありませんわ。これから趣味を見つければいいんです。別に何歳になってから始めてもいいでしょう? 金銭的なことは抜きにして、楽しいと思えることを探しましょう」

「楽しい……?」

「何か思いつくことありません?」

「金を増やすことだな」

「お金以外って言いましたわよね」

 もう。

 この人にとっては本を読むのも音楽を聴くのも美術品を見るのも、全て分析対象として。そういうふうに育てられてしまったから。

 単純に「きれいだなぁ」とか「いいなぁ」と思えない。

「じゃあ、アイリスならどうするんだ」

「私は分析目的ではなく単に面白そうと思うから本を読んだり、自然の中でのんびりしたりしますわ。読むと言っても私の場合、正確には朗読を聞くわけですが」

 たいていの本には魔法がかけてあって、スイッチを入れれば朗読してくれる。元々は子供向けに施された処置だ。

「どんな本だ」

「普通に流行りの小説とかですよ。私個人のお気に入りは鳥や花の本ですわね。魔法で直接脳内にビジョンが映し出されるようなものが特に。……そうですわね、ちょっと庭に出てみません?」

 私はアガリアレプト様を誘って、城の中にある庭園へ向かった。というか、まだ今一つ城内の地理に慣れていないので連れて行ってもらった。城内は人が多く、白状をついていても人とぶつかってしまいがちなため、誰かにつかまって誘導してもらうのが安全。

 庭園は前王の頃から大幅改修し、静かで調和のとれたくつろぎの場となっていた。私は気に入っている。

 池の傍の木陰に私たちは腰を下ろした。

「いい天気ですわねぇ。こうやって、何もせずぼんやり過ごすのもいいものですよ」

「理解できん。時間の無駄だ」

 と言いつつ立ち上がりはしないのよね。ふふ。

「まぁそうおっしゃらずに。花の香り、鳥のさえずり、水のせせらぎ、そんなところで穏やかな事案をのんびり過ごすなんて平和じゃありませんか」

「……平和か。確かにな」

 私はスッと空に向かって手を上げた。

 羽音がして、小鳥やちがやってくる。一羽は指先に、一羽は肩にとまった。

「鳥を飼っていたのか?」

「いいえ。野鳥ですよ。私って昔から、こうやってのんびりしてると鳥や動物が寄ってくるんです」

「動物? 俺を見るとすっとんで逃げていくぞ」

 でしょうね。

 ちらほらと気配が増え始めた。犬猫、リスやウサギ、馬かしら。

「ほら」

「犬猫はともかく、馬は厩舎から勝手に出てきたのか」

「そう怒らずに。どこからともなく集まってきちゃうんですよ」

「おい。ペガサスやフェニックスまで来たぞ」

「ああ、たまにありますわ」

 いつものことだと言えば、「ええ?」という反応された。

 動物たちはアガリアレプト様にビクビクしながらも近くにいる。

「……動物がここまで俺の近くに来るの初めてだ」

「どれだけ恐れられてたんです。……触ってみては?」

「は? 速攻逃げるに決まってるだろ」

「まぁまぁ。ほら」

 手を取って動物たちに合図する。みんな緊張しつつも触らせてくれた。

 アガリアレプト様は感動したらしい。

「へえ……」

「なんというか、よかったですわね。まぁアガリアレプト様の気迫なら、たいていの動物は逃げるでしょう。耐えられるのって一定以上のレベルの魔物かしら」

「そうだな。たいていの魔物なら何もしなくても平伏する」

 サルガタナス様なら「恩人」としてであっていい話だけど、アガリアレプト様のほうはね……。

 ひとしきり触れ合うと、解散してもらった。

「リラックスできるよう、歌いましょうか?」

「リサイタルなら仕事だろう」

「いえ、軽く口ずさむだけです。そういうの、誰でもよくやるでしょう?」

 穏やかな旋律の童謡や子守唄を口ずさんだ。

 おそらくアガリアレプト様は誰にも歌ってもらったことがない。

 私の演奏や歌声は鎮静効果がある。無意識にのせる魔力がそうさせるらしい。

 アガリアレプト様はリラックスしてきて……眠気がでてきたようだ。眠そう。

「そのままお昼寝されたらいかがです?」

 急にシャキッとして、

「いや、駄目だ。敵が襲ってきたらどうする」

「敵って……ここは城内ですよ」

 スミレさんが襲われて以来、警備が厳しくなったと聞いている。表立ってではなく、密かな警備が。

「油断してると思って、昔の女が刃物持って襲い掛かってきたことがある。一度や二度じゃない」

 そりゃサタナキア様が裏で後始末必死でするはずだわ。

 たぶん未然に防ぐため、お見合い斡旋したり職を紹介したり、気をそらすよう工夫したのね。あれだけ感激していたのも納得。

「自業自得ですね。どうせひどいフリ方したんでしょう」

「バッサリ言うな。そういえば俺が結婚すると聞けば昔の女たちが何かしてくると思ったが、何事もないな」

 サタナキア様が対処して、みなさん幸せだからよ。今十分満たされていれば、昔の男など興味はない。

 それでも何人かは私に興味があったみたいで、接触してきた。でも私がアガリアレプト様の不機嫌をスルーしてるのを見て、何やら納得して大人しく帰っていった。

「彼女たち曰く、『あ、自分はこんな上手く操縦できないわ。任せた! じゃ!』ですって」

「俺は操縦なんかされてないぞ!」

「ええ、そうですわねぇ。まぁとにかく大丈夫ですよ。私の歌は鎮静効果があり、戦意や悪意をかき消す力があるそうです。ですから安心してお昼寝してくださいな」

「しない」

 つーんと顔をそむけるも、しばらくするとまたうつらうつらし始めた。

 私は歌いながら彼の頭を引き寄せ、自分の肩にもたせかける。アガリアレプト様は抵抗せず、安心したようにそのまま眠ってしまった。

 規則正しい寝息が聞こえてきたのを確認し、歌うのを止める。

 しばらく寝かせてあげましょう。

 この人のことだから、うたた寝なんてしたことないに決まってる。

 静かに、緩やかな時間が流れた。

 私はふいに口を開いた。

「―――ルキフグス様。そこにいらっしゃるのは分かっておりますよ」

 生垣の向こうから音もなく宰相様が現れた。

「よく分かったな。まぁ、隠そうともしなかったが」

「私は目が見えないぶん、他の感覚が鋭敏なんです。生き延びるための知恵ですわ」

「そうか」

 アガリアレプト様のしゃべり方はルキフグス様に似ているところがある。意識してかそうでないのか、尊敬する兄に似せているのだろう。

 ルキフグス様はクスリと笑った。

「アガのいつも周りに展開してる刺々しいオーラが消えたと思ったら、こういうこととは」

「たぶんですが、うたた寝などされたことなかったんでしょう?」

「ないな。そもそもアガは寝顔を人に見られるのを嫌う。隙を見せないためにな。見たことあるのは俺とナキア、リリスくらいのものじゃないか?」

 弟君たちには兄としてのプライドがあると。

 リリス様は別枠なんですね。小さい頃寝かしつけしててそのまま自分も一緒に寝てた……とかありそう。

「君と会ってからこいつもだいぶ柔らかくなったし、結婚後は顕著に威圧的な雰囲気が消えた。まぁたいていの人間にとっては10%減くらいだろうが、それでもだいぶマシだ。礼を言う」

「いいえ、私は何もしておりませんわ」 

「本当に兄妹弟一同感謝している。アガはいつもピリピリしていて余裕がなく、トラブルメーカーで心配だったんだ。俺たちは家族の温かさは与えてやれたが、こうして寄りかかる場所にはなりえなかった。そんな相手ができてうれしいよ」

 ルキフグス様からは優しい兄の思いやりが伝わってくる。

「そうでしょうか。皆さんがいなければ、アガリアレプト様はもっとひどいことになっていたと思います。十分皆さんのおかげで救われたのでは。アガリアレプト様は騒々しいと言ってましたが、それってつまりにぎやかで楽しいって意味ですもの。素直じゃありませんからね」

「ははっ。そうだな。さすがアガの本音を正確に読み取ってる。―――ところでアガのことだから、縁談除けのために妻役を雇おうとかろくでもないこと考えて、契約持ちかけられたりしなかったか?」

「…………」

 さりげなく突いてきたわね。

 これは……気づいている。アガリアレプト様は誰にもバレてないと思ってたようだけど、兄君たちはそこまで愚鈍ではない。お見通しだったんでしょう。

 ルキフグス様は穏やかな表情のままたたずんでいるが、内心は違うことくらい分かる。私は視覚以外の感覚が敏感だと言ったでしょう?

 私はにっこり笑った。

「いいえ。そんなことありませんでしたわ」

「そうか。もしそうだったらゲンコツじゃ済まなかったが」

 つまり『やっぱり。あとでゲンコツの上、説教だ』か。

 お互い相手の言いたいことは理解しつつ、表面上は穏やかに会話を続ける。

「あら、大丈夫です」

 私が自分できちんと対処しておきましたので。

「ならいいんだが」

 いやいや、兄として叱っておかないと、って?

「もう大人なのに、いつまでもお兄様を煩わせるわけにはいきませんわ。私がしっかり手綱握っておきます。ご心配いりません」

 私以外に提案持ちかけてはいないし、これからは私が見張ってますわ。

 正確に理解したルキフグス様はうなずいた。

「そうだな。もう結婚したんだから、以後は君に任せよう。だがもし手に負えない事態が起きたら遠慮なく言ってくれ。俺たちは協力を惜しまない」

「ありがとうございます」

 ルキフグス様は「礼には及ばない」と言って仕事に戻られた。

 ……あの方も相当なワーカホリックよねぇ。誰かお嫁さんもらって、やめさせたほうがいいんじゃ。選挙より先に過労で倒れそう。

 真っ先に浮かぶ候補といったら輝夜姫だけど……。

 彼女はできるのかしら?

 ちょっと考え、頭から振り払った。

 人の恋路に余計な口はださないものよ。

 アガリアレプト様だけで手いっぱいだしね。

「……ん……?」

 もぞっと身動きして、アガリアレプト様が起きた。でもまだ寝ぼけているらしい。

「……ん?」

 あら、ぼけーっとしちゃって。かわいいわ。

「もう起きられたんですの? もっと寝ていていいんですよ」

「……いや、なんかスッキリした」

 ぼんやりしているようで、素直。

 もにゅもにゅと目こすってる。

「それはよかったですわ。休息って大事でしょう? あ、寝てらした間何事もありませんでしたわ、ご心配なら」

 ルキフグス様がいらしたことは黙っていよう。

「ああ。…………」

 そこではっきり覚醒したらしい。ビシッと固まった。

 あららー。貴重なシーンだったのに。

 まぁいいわ、これから何度でも見られるもの。ふふ。

 私は気づかなかったフリをして、

「戻られます?」

「あ、ああ、そうだな」

 必死でごまかそうとしてる。

 人に弱み見られるの嫌いだものね。

 不器用でかわいい人。

「……おい、何笑ってる」

「いいえ、別に。それより誘導してくださいません?」

 アガリアレプト様はぶつくさ言いながらも私の手を取って立ち上がらせ、腕につかまらせてくれた。ちゃんと白杖をつく右手の邪魔にならないよう、左側を。

 こうやって本当は優しいのよね。

「仕方ない。こっちだ」

「はい」

 ほんと素直じゃないんだから。

 くすくす笑いながら、睨まれてもスルーして、私はかわいいダンナさまの横を歩いた。


   ☆


 まったくもって理解不能だ。

 俺はアイリスのことを考えながら仕事をさばいていた。別のことを考えながらもスピードは落ちていない。俺はマルチタスクだ。

 そもそもあれだけドライに応対しておいて、なぜ急に「結婚しましょうか」などと言える?

 アイリスといると調子が狂う。リリスのように「振り回される」という意味ではなく、なんだかホッとして素が出てしまうというような。

 ありえない。この俺が。

「よーっす」

 ひょっこりナキア兄貴が姿を現した。

「げ」

「『げ』って何だよ、実の兄に向って」

「何の用だ」

 そりゃそんな声も出るだろうが。

「今日はここらへんにしといて、ちょっと休めー。来いよ」

「まだ定時じゃない」

 時計を見ればまだ三時だ。

「いーからいーから。あ、皆さんそんなワケで弟は連れてくよー。お疲れさん」

 無理やりずるずる引きずられた。

「おいっ!」

 抗議すると、ナキア兄貴は小声でささやいた。

「……お前が眉間にすげぇシワ寄せて不機嫌オーラ全開だから、みんな恐がってんだろ。気まぐれなオレが無理やりサボりに付き合わせたってことにしとけ」

「―――」

 俺は口を閉じた。

 あまりに不機嫌そうで、補佐官の誰かが泣きついたのか。ルキ兄貴は忙しいから、ヒマそうで一番言いやすいこいつに。

「……そんなに恐いか?」

「こえぇよ。いっぺん鏡見てみろ。オレらは兄弟だから平気だけどさー。アイリスちゃんと結婚してからだいぶ丸くなったんでホッとしてただけに余計だったんだろうな」

「…………」

 空いてる応接室の一つに引きずり込まれた。

「ま、茶ーでも飲めや~」

 どこから出したか、缶コーヒー。

 めいめい椅子に腰かけ、

「ほんで、なーに不機嫌なんだよ。アイリスちゃんと結婚して幸せいっぱいなんじゃねーの?」

「…………」

「ルガみたく黙るなよ」

 うるさい。

 そっぽ向いて頬杖ついた。

「……なぜアイリスが俺と結婚したのか分からないだけだ」

「お前がほっとけないからだろ。ダメな子ほどかわいいってやつ」

「おい」

 誰がダメな子だ。

「つまりー、幸せすぎて信じられなくて不安なんだな」

「誰もそうとは言ってない」

「へいへい。今までどんなピンチも自力でどーにかできたから、相手が予想超えまくってくるとフリーズすんのがアガだよな。リリスにもそうだろ」

「リリスは予想外すぎるんだ」

 あの妹の行動を予想できるか。

「あれこれ考えんのやめりゃいーんだよ。とにかく惚れた女が妻になってくれたんだからラッキーくらいに思っとけや」

「俺は愛情というものが分からん。だから惚れていない」

 残念そうな雰囲気出された。

「ルガ以上に鈍感っつーか……。まぁアイリスちゃんは年単位で気長に育てるつもりらしいから……あの子すげぇやり手」

「あ?」

「あの子は精神的にすげー大人だから、寄りかかれるだろってこと。お前の性格的に甘えるのはムリかもだけど」

「やらん」

 甘えるってなんだ。

「えー。妻に甘えんのって夫の特権だぜ? 膝枕とかしてもらえよ。いいぞ~。ローレルがやってくれたんだけどさぁ、あったけー柔らけー最高」

「ノロケるなキモイ」

 ウットリして戯言吐くな。

「やってもらえって。つか、面白いからオレがそれ見たい」

「絶対やらん!」

 なんでこいつに見せてやらにゃならないんだっ。

「なこと言ってっけど、お前この間……あ、何でもねー。ま、適度に休めってこった。んで、仕事中にその凶悪なツラやめろ」

「うるさい」

 とはいえ、部下の仕事の効率が落ちるとめんどうくさい。

「……そういえばお前は妻にどう接してるんだ」

「あ、気になる? 参考にってことな。んー、オレの場合は参考になるかなー。何しろ昔、一緒に暮らしてたも同然だったんで。すでに家族みたいな? 普段はローレルが難しい本読んでて、オレはぐーたらしてるよ」

 文字通りぐうたらしてるとは思えない。そう見せかけて何か裏工作してる可能性がある。こいつはルシファーのとこで副業やってるからな。

「副業に精を出すほど金に困ってるのか? 本業のほうの給金だけでも十分だろう」

「オレ、貯金ねーの。稼いだ金のほとんどローレルに送金してたもんでさ。発掘や調査の資金は国家予算から出てるけど、個人的に欲しい本とか史料は自費だろ。そろえてやりてーじゃん。あ、そういやこれリスト。お前のツテで手に入んねえ?」

 メモをざっと見る。

 電卓をたたき、

「集められる。手数料はこれな」

「うげ、しっかりマージン取るのな。いいけどさ」

 フン。多少割安にしてやっただろう。

「そこまでして買ってやりたいのか」

「んー、ま、オレの自己満足でもあるさ。単にローレルの喜ぶ顔が見たいだけ」

「喜ぶ顔……?」

「そ。好きな子が喜んでくれたら、それだけでうれしーじゃん」

「…………」

 うれしい……?

「弟たち見てみろよ。レティはスミレちゃんが安心できる環境作るためならなんでもやってるし、ルガはジャスミンちゃんのドジ防いでるし、ネビロスはリリーちゃんの周りから害悪取り除くのに余念がないだろ。……ネビロスはやりすぎだけど」

「レティも無自覚なのが危ない。まともなのはルガだけか」

 ナキア兄貴は首をひねった。

「いんや? それがそーでもねーの。ジャスミンちゃんってあの特性のせいで、過去何度も人から非ひどい目に遭わされてたらしくてさ。友達に去られたり、好きだった相手に冷たくされたり。それを知ったルガが何やったと思う?」

 嫌な予感が。

「……まさか一人ひとり突き止めて復讐したんじゃないだろうな」

「ルガも医者の矜持があるから、復讐はしねーよ。淡々と問い詰めただけ。でもその『だけ』がこえーの!」

 元々無口な男が言葉少なに、淡々と道理を説いてくる。しかもプレッシャーつき。

「兄貴と似てんだよ、やり口が! 冷静に正論でくるもんだから、反論もできねえ。兄貴ほどプレッシャーひどくないにしたって、そりゃ泣いて土下座するわ!」

「兄たちから見習っちゃまずいものを見習ったな。一人ずつネチネチたぶるのもお前似だ」

「ええ? オレそこまでじゃねーよ?」

「自分を自殺未遂に追い込んだ連中に何をした」

 過去の件を知って、嫌な予感のした俺とルキ兄貴はルシファーにきいてみた。案の定、こいつはルシファーと手を組んだ直後にやらかしていた。

「ルキ兄貴が言ってたぞ。自分も許せないから叱れないが、ちょっとやりすぎじゃないかとな」

「あはは」

「まったく、うちの兄弟は全員おかしい」

「出生がなぁ。義理の弟のルシファーだって大概だし、みんなおかしいや。リリスに尽くすにしたって度を越してるよな」

「あいつの職業は執事か下僕なんじゃないか」

「下僕は職業じゃねーよ。分かるけど」

 ため息をついた。

「はぁ……まったく参考にならん」

「いっそアイリスちゃん本人にきいてみろよ。なんで自分と結婚したのか、どうしたらいいのか、どんな夫婦になりたいのか」

「…………」

 きく? 本人に?

「夫婦の形はそれぞれじゃん。二人で話し合って作ってくもんだろ。そうやって言葉を交わしてれば、お前もいつか自分の気持ちが見えてくるさ」

「……そういうものか」

「そ。ためこまずに本人にあたってみな。周りに八つ当たりしないでさー」

「していない」

「アイリスちゃんの好きなこととか喜ぶことも本人にきいてみ。言っとくけどこれまでの彼女みたく、やたら高い宝石だのドレスだのはやるなよ」

「それは分かってる」

 そんなものじゃ喜ばないだろう。

「オレもさぁ、ローレルに言われたんだ。いつも人のことばっかで、自分自身は何をしたいのかって。言われてみると分かんねーんだわ。オレは今までずっとそうしてきたから。いきなり違う生き方って難しいよな。だもんで、オレはローレルと一緒にそれを探してくことにした。彼女がそうしようって言ってくれたんだ。お前にも分かるといいな」

「…………」

 その夜、くつろぐアイリスにきいてみた。

「私がなぜアガリアレプト様と結婚したか、ですか? 前にも言ったように、かわいい人だなぁと思ったからですわ」

「俺とかわいいは結びつかん」

「素直じゃない大きな子供みたいでかわいいですよ。ほっとけないなぁって。そんな人をのんびり育てるのも楽しそうだと思いまして」

「だから子供扱いするな」

「はいはい。こういうことをきけるようになったなんて、ずいぶん進歩したものですわ。……そうですねぇ、私は物はいりません。ドレスも宝石も見えませんしね」

 あっさり言う。

「この間のように、時々のんびりゆったりひだまりで過ごす、そんな暮らしがしたいです」

「そんなものでいいのか?」

 拍子抜けした。

「高価なものじゃなく?」

「なんでもお金と考えてしまうのがアガリアレプト様の悪いクセですわ。お金も大事ですけど、そのほかにも大切なことはいっぱいありますよ。……ゆったりした時間を共に過ごし、何かあったら協力して乗り越えていく。そんなふうにやっていきましょう?」

 力を抜けというように、肩をぽんぽんたたかれた。

「私はアガリアレプト様の主義や生き方を否定する気は決してありません。それは人それぞれですもの。ただ、たまにはちょっと肩の力を抜いて、私に時間をさいてほしいと思うだけですわ」

「……そうか」

 アイリスは自分の考えを人に押しつけない。

 相手を尊重し、ふわりとくるんで場を穏やかにする。

 ……俺はずっとがむしゃらに走り続けてきた。生き延びるために。でももう祖父もライバル商会もいないし、クソ親父も牢の中だ。

 国の収入も安定し、もはや俺がいなくても問題ない。

 弟たちも全員結婚して独立した。

 残るはルキ兄貴だけだが、あの人なら大丈夫だ。

 ……休息―――か。

「俺は……ようやくがんばらなくてもいいんだな……」

 そっとつぶやいた。

 安堵すると同時に寂しくもあった。

 アイリスが俺の隣に移動してくる。これまで自分が座るためだけの椅子一つしかなかったが、アイリスは二人掛けのソファーを持って来た。

 一人掛けでなくこっちに座った俺も変わったということだろう。

「ええ。よくがんばりましたね」

 優しく頭をなでられる。

「疲れたでしょう? ゆっくり休んでくださいな」

「……ああ、そうさせてもらうか」

 自分が疲れていることにすら気づかなかった。

 ……アイリスの傍は心地いい。穏やかで安らぐ。

 俺は変わらず愛情というものが分からない。だからこの感情が何かは不明だ。

 でも―――。

 アイリスと共に過ごすのは、悪くない。

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