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さっきまでいた部屋では靄でわかりづらかったが、窓の外にはかすかに木が見えていた――のだが。
ディルが実際に窓から飛び出てみれば、着地した場所は廊下の赤いカーペットの上だった。
さらに振り返ってみると、さっき女が開けてくれた窓はすでになく……、そこは白い壁になっていた。
『…………』
ディルは窓があったはずの壁に向かって軽く頭を下げ、床を強く蹴った。
廊下は、先が見えないくらい長く長く続いていた。屋敷の構造からしてあり得ないくらい長く――。
(あの人の言うとおり、この廊下は魔法がかけられている……。立ち入った者を迷わせる幻惑魔法が)
――けれどそれは、今の獣と化したディルにとって、子供だましに過ぎない。
(温もりはあちらから強く感じる……)
ディルは目の前の長く続く廊下ではなく、その脇の、ただの壁に向かって走った。
(よし!)
普通なら激突してしまうはずの壁を、ディルの体はするりと通り抜ける。
(やっぱり……! ただの幻だったか)
抜けた先には、また別の廊下が続いていた。
ディルは新たに現れたその廊下でも、少し進んでは壁に向かって走り、体に感じる温もりめがけ、次に現れた廊下を駆け抜けた。
(上に向かっている……?)
視覚的には同じ階……、平行な場所を走っているように思えたが、時折足に伝わってくる感覚は、階段を昇っているようであった。
(獣人変化だけではこの正解の道に気づけたかどうか……。獣変化のおかげで、獣人変化の時以上に感覚が研ぎ澄まされている。……あの女の正体はなんとなく予想はつくが……。それにしてもなんで私に獣変化の才があることを……? それに自分のことを、記憶を再現したものだと言っていた。私には『姫様』の記憶はあれど、『あの女』の記憶はない……。――魂の記憶……。私は、私になる前にどこかであの女と……?)
物思いに耽りながら走っていると、一段と温もりを感じる場所へとたどり着いた。
(あの女とのことは、今考えてる場合じゃないか……!)
これは今すぐには答えの出ないこと。ディルはひとまずそれを考えるのをやめた。そして。
『ここだ……!』
ディルは廊下にたくさんあるうちの、一つの扉を見上げた。それはごく普通の――むしろ屋敷の格と比べると貧相な――扉だった。だが。
『ご大層な結界……。当たりだな』
普通に開けるにはなんの問題もなさげに見える扉だが、そこには念入りに結界が張られていた。
『だが、今の私にはこの程度……!』
銀狼の瞳が、ギラリと光る。
ディルは数歩助走をつけて走ると――扉に全力で体当たりをした。
扉の前で火花が走る。
そしてバチバチと結界が破れる音がし――扉は突き破られた。
「――――えっ!?」
『姫様!!』
部屋のなかにはディルの感じた温もり――姫神子がいた。
上等な革張りのソファの端にちょこんと座っていた姫神子は、突然扉を破って入ってきた巨狼に驚き、声を上げ体を縮こまらせた。
ディルは口をパクパクさせている姫神子のもとへ一飛びすると、彼女の足元にうやうやしくかしずいた。
『姫様……。ご無事でなによりです。お助けに参りました』
「そ、その声……。まさかあなた、ディル……なのですか……!?」
姫神子は自分に頭を下げる狼にそっと手を伸ばすと、銀の毛に覆われた頭を恐る恐る撫でた。狼は嬉しそうに頭を上げると、彼女の手に擦り寄る。
『このような姿なので驚かせてしまいましたね。申し訳ありません』
「い、いえ……。獣に姿を変える魔法があるというのは、聞いたことがあります。ディルがその使い手とは知りませんでしたが……」
姫神子は見開いた目の力をゆるゆると抜くと、泣きたい気持ちと嬉しさの入り混じった笑みを見せた。
「助けに来てくれて、ありがとう――」
そして、力いっぱいディルの体を抱きしめる。
(う、あ……!)
この時ディルは、突然の姫神子の行動にどぎまぎしながらも、今自分が獣の姿であることを心底悔いていた。――狼のままでは、抱きしめかえすこともままならない、と。
「ディル……」
代わりにディルは、その鼻先を姫神子の首元にすり寄せた。優しい温もりが、彼女の肌から伝わってくる。
『……姫様。今すぐにでも姫様をここから脱出させ、安全なところまでお連れしたいのですが……』
姫神子は体を起こすと、真剣な表情でディルを見た。
『敵の策でバラバラにさせられてしまいましたが……、他の騎士らも姫様を案じて助けに来ております。――彼らが気になります。探索に向かいたいのです』
ディルも姫神子の桃色の瞳を、じっと見つめる。
『けれど姫様をお一人にするわけにはまいりません。姫様に危険が及ばないよう、細心の注意を払いますので……。どうか探索にご同行願えませんでしょうか?』
姫神子を第一に考えなければならないのが花守りの騎士。だが、神殿まで姫神子を連れて行くあいだに、仲間達に致命的な危機が訪れないとも限らない。
好手とは言えないが、今はこの案を選ぶしかない。
「――もちろんです」
姫神子は大きく頷くと、立ち上がり、
「むしろ同行させてください。わたくしは戦いの役には立てませんが、癒しの魔法が使えます。微力ではありますが、わたくしも皆の為に働きたい……!」
はっきりとそう言った。
『姫、様……』
ディルは再び頭を下げ――さっきよりも深く――前足を折った。
『私の背にお乗りください。皆の気配をかすかに感じます。そこへ向かいましょう』




