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「今のはなんだったんだ、いったい……? 頭のなかを無理やりかき回されたみたいだ……」
ディルはわずかに残る、目が回った時のような気分の悪さにうんざりしながら、今いる場所を確認した。
――そこは小さなソファとテーブルだけが置かれた、簡素な部屋だった。
「これは……」
部屋には白い靄がかかり、幻想的な雰囲気を醸し出している。
「ん……?」
体の重たさを感じながら立ち上がると、ディルはソファの端に誰か座っていることに気づいた。靄のせいで顔は見えないが、ゆるやかに流れるドレスから女性だと思われる。
「…………」
その人はぼんやりと窓を――靄で外は見えないのに――眺めていた。
「――……ぁ!」
ソファに座る女性は、ディルの視線に気づいたのか、小さく声を上げる。そして自分の向かいのソファを、優雅な動きで指し示した。
「どうぞ、お座りになって」
「…………」
ディルは訝しみながらも、彼女の言葉に従った。
――ここは敵地のなかだ。しかし、なぜだか彼女に警戒心を抱くことはなく……、不思議と言うとおりにしてもいいと思えた。
「さすがですね。事前に飲んだ薬の効果もあるのでしょうが、精神干渉の魔法がまったく効いていないみたいです」
女は嬉しそうにくすくすと笑った。
「精神干渉……」
ディルが繰り返して言うと、彼女は「ええ」と膝の上で指を組んだ。
「この屋敷の主、蜃気楼の術師の魔法がこの部屋には満たされています」
「蜃気楼の術師の――!?」
「はい。あなた方は屋敷に入ってから、二つの魔法をかけられています。――まず一つは転移魔法。あなた方はこれによってバラバラにさせられました。といっても、幻影の分身が使った魔法なので、たいした力はなく、転移といっても屋敷内だけですが……」
「幻影の分身とはなんだ?」
「蜃気楼の術師は、今非常に力が弱っていて……。普段ベッドから起き上がることはありません。ですがその代わりに、自分の姿をした幻影を使って雑事をこなしています」
「雑事」
女は小首を傾げると「侵入者の排除などです」と答えた。
「この幻影は自動で動き、蜃気楼の術師が使える魔法の一部も使うことができますが……。代わりに本体と繋がっていません。ですので今、あなた方がどこにいるのか正確な場所は把握していないでしょうね。本来の力を発揮できないのは憐れですが……。今は好都合です」
言って、女は短く息を吐いた。
「――さて、二つ目の魔法ですが……」
「もしかして、この靄か?」
「当たらずとも遠からず、ですね。ここには先程言った、精神干渉の魔法が用意されていました。――転移魔法で戦力を分散し、精神干渉で戦力を削ぐ、という罠だったようですね」
ディルは納得がいかないと言いたげに眉を寄せる。
「転移魔法で戦力の分散……は、わかる。実際私達はバラバラにさせられたようだからな。でも精神干渉で戦力を、というのはどういうことだ? 靄が見えるだけで効いている自覚はないが」
女はフッと柔らかく笑んだ。
「だから『さすが』と言ったんです。本来ならこの部屋には、入った人間の心の古傷を分析し、挙句チクチクとそこを痛めつけるという……嫌ぁな魔法罠が待っていたんですよ? ――あなたの魔法耐性が強かったのと薬のおかげで、その罠は効果を発揮できずにいますが」
「私は魔法使いではないし、そんなに耐性の強いほうだとは思っていなかったが……。アジュガの薬がよっぽどよかったのかな」
「さあ? それはどうでしょう――――」
「――なに?」
ディルが体をこわばらせた。緊迫した空気が流れる。
「まったく魔法にかかっていないとは言えません。――だって私は、その魔法の産物……。あなたの記憶の底から掬い上げられた金の粒の一つ……ですから」
女は一つずつ説明していきましょう、と立ち上がり窓の側に歩み寄る。――彼女の金の髪が、靄のなかキラリと輝いた。
「わたくしは、あなたの魂のなかにあるたくさんの記憶の一つを再現した存在。幻……と言っていいでしょうね」
「私は、本物のお前に会ったことがあるのか」
「はい。今ではないどこか、ここではない場所で」
窓を背に、彼女は目を細めた――ような気がした。
「……お前は、私の『古傷』なのか?」
「さあ……。それはわたくしにはわかりかねます……」
女はわずかにうつむき、呟く。
「……少なくとも、今のあなたの『傷』ではないと思いますけどね」
「お前の言うことはわかりづらいな……」
くすりと笑うと女は、「ですが」と口を開いた。
「わたくしがこの場に再現された理由はわかります」
女が一歩前に出る。彼女の顔はいまだ靄に隠され見えないが、まるで昔話に出てくる姫君のような意匠の古いドレスを着ていることはわかった。
「わたくしの半身が、わたくしを呼んだのです――――」
ディルは目を丸くした。
彼女の言う意味は、わかるようで――わかってしまうと頭がどうにかなってしまいそうな混沌を秘めている気がした。
「ディル、お願いします。わたくしの半身を助けてください」
「それは……。当然……だ。私は、あのお方の騎士なのだから――」
たくさんの情報が、頭のなかを交錯する。それでもディルは、胸のなかにある変わらぬ想いを口にした。
整理するのはあとだ。それより今しなければならないこと、それだけは明確だ。
「――ありがとう」
彼女は片手を胸に当てると、安心したかのように息を吐く。
「それではあなたは、ここから急いで出なければなりません」
女の言葉に頷き、周囲を見回し初めて――ディルは部屋に出入り口が一つもないことに気づいた。唯一外に繋がっているのは女の側にある窓だけだが、その窓ですら外が見えない為どこに出るのかはわからない。
「大丈夫――」
ディルの考えていることがわかったのか、女は優しく言うと窓を開けた。
「『銀狼』であるあなたならば、どこに向かえばいいのか正しくわかるはずです」
「それは……、『獣人変化』のことか――」
――獣人変化。
本人の性質に合わせた獣に、半分だけ変化することができる、神話時代の魔法の一つ。
現代では使える者の少ない希少な魔法だが、ディルに魔法を教えた人物の十八番であること、またディル自身に変化の素質があったことから、ディルはこれを幼い頃から得意としていた。
――彼を筆頭とした盗賊団の名は、獣人変化したディルの姿から取られた名前だ。
彼らがその名を世間に轟かせたのは、盗賊としての働きぶりの他に、ディルの異形めいた姿が特徴的だったからというのがある。
「さあ、あなたの力をみせてください」
「…………」
ディルは静かに瞼を閉じた。
「我が身に眠りし獣性よ――」
ディルの体が、うっすらと発光し始める。
「今こそ目覚めよ。我は大地の支配者なり――!」
詠唱を終えた時、その変化ははっきりと体に現れていた。
銀の髪の隙間から覗くのは、狼の耳。
指は太く、爪は鋭く伸び――――。
人と獣が混じったような姿になっていたのだ。
ディルは腰に手を回し、ズボンからふさふさとした尻尾を取り出すと「これでよし」と独りごちる。
そしてじっと空を見つめ意識を集中するが……。すぐに悔しげに顔を歪めた。
「確かにこの魔法を使えば感覚は鋭くなる、が……。残念なことに、今何も感じ取れない……」
「そんな中途半端な姿ではいけません。あなたの『本当の力』を発揮しないと」
「本当の……力……?」
女は頷く。
「その魔法は本来それで完成ではありません。ただ、現代の人間にはそこまでしか姿を変えることはできないというだけ……。ですが――」
女はしずしずと近づいてくると、ディルの頭に向かって手を上げた。
「ここでわたくしが幻として現れたのも、導きなのでしょうね……」
すぐ近くまでやってきたおかげでようやく見えた女の顔は――ディルの知る彼女とよく似ていた。
「あなたならこの魔法の真価を発揮できる。さあ、あなたの力を見せてください――」
女の手からまばゆい光が放たれる。
その光に包まれると、記憶の蓋をこじ開けられるような、不可思議な感覚に陥るようだった。
何かを思い出しそうで、思い出せない。
だが、体の奥底からふつふつと澄んだ魔力が湧き上がってくるのを感じる。
(知らないはずなのに知っている。私は『獣変化』のやり方を知っている――――!)
背を丸めてみると、体がとろりと溶けていくような感覚になる。そしてそこからどう変わればいいのか、自分ではなく『魂』が指示をしてくる。
「それが現代の人間が失った魔法の一つ。『獣変化』……」
彼女はディルの前足を取ると、どこか寂しげに微笑んだ。
――銀色の体毛に長い鼻面。
そう、ディルの姿は今、完全に狼と化していた。
『お前が何者なのか……は、なんとなくわかったつもりだ。だが、私にこんなことができるのを、なぜ知っているんだ?』
「……それは、まだわからずともよいこと……。ただの記憶の再現であるわたくしの話すことではありません」
『わかる時が……来るのか?』
「それはどうでしょう……。ただわからずとも、あなたが今為さねばならないことは変わらないでしょう?」
女はディルの背を柔らかな手で撫でると、窓を指す。
「この屋敷は侵入者が迷うように、至るところに魔法がかけられています。ですが今のあなたなら、迷うことなく目的の場所までたどり着けるはず」
『…………』
ディルは先程と同じように、精神を研ぎ澄ましてみた。すると、さっきはわからなかった温かなものをかすかに感じた。
『あっちに何か……』
「わかりましたね? では行きなさい。行って、あなたが助けるのです」
ディルは彼女を見やると、黙って頷いた。
そして一飛びに窓を越え――部屋の外に飛び出す。
「半身をお願いしますね……。強く、賢き銀狼よ――――」
言うと女は白い靄と共に掻き消え――部屋には誰ひとりいなくなった。




