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ある日の朝。ディルは談話室から聞こえてくる、アジュガの金切り声で目が覚めた。
「――う……ん……」
時計を見たところ、まだ夜が明けてからそんなに時間は経っていないようだ。
(こんな朝早くに何を騒いでるんだ……)
ディルは眠たい目をこすりながら、イスにかけていた上着を羽織る。そして自室の扉を開けると――。
「あら。おはよう、ディルくん。ちょうど起こそうと思って来たところなのよ」
扉の前には険しい顔をしたウィスがいた。
「はよ……。こんな早くに……。何かあったのか?」
ウィスはしっかりと身支度を整えている。朝早くからしなければならない仕事など、特に無かったはずだが……。どうしたというのだろう。
「ええ……。詳しい話はセージ様がするわ。とにかく今は談話室に来てちょうだい」
ウィスの緊張した表情から、ただならぬことが起こっているのだとディルも悟る。
「――わかった」
ディルは寝巻のまま、ウィスと並んで談話室へ足早に向かった。
胸の奥から湧き上がってくる、不安を抑え込みながら――――。
談話室に入ると、そこにはセージとアジュガ、そして沈んだ様子のジェットがいた。
「何があったんだ?」
「ディル君……」
セージは包帯の隙間から見える目をスッと細めた。
「一大事だよ」
口調こそ変わらないが、セージの声は固い。
「……どういう……意味だ?」
「うん、時間もないから結論から言うが――」
「姫が攫われた――――」
一瞬、ディルの時間が止まった。
言葉を咀嚼し、理解し――叫んだ。
「なぜ姫が!? 誰にだ!?」
セージは落ち着けと言いたげに、手をひらひらさせた。
「僕も知りたいよ。ま、とりあえず座りなさい」
ディルは心が粟立つのを感じながら、ひとまずそれに従う。とにかく話を聞かなければ、今後の動きを決められない。
セージはディルがおとなしく座ったことに頷くと、口を開いた。
「まず、事の始まりは僕の結界に侵入者があったことからだ」
◇◆◇
もう間もなく夜が明けようという頃、セージは神殿の敷地に張っている結界からの信号で目を覚ました。
(結界に反応……。こんな時間に来訪者が……? 門にはまだ到達していないようだが……、誰だ……?)
神殿と一口に言っても、その敷地は広い。
まず姫神子が住む神殿があり、その周囲には庭と畑、さらにそれを囲むように門と塀があり――その外には神殿の所有する森があった。
信号が送られてきた場所から、訪問者はまだ塀の外の森にいるようだった。
セージはベッドから体を起こすと、サイドテーブルに置いてある地図に目をやった。
地図に手をかざすと、それはほんのりと発光する。――これは魔法の地図なのだ。
「ふーん……」
地図上に投影されていたのは馬車だった。一台の荷馬車が、門へ向かって走ってきている。
普段神殿には、馬車で訪れる者は――まず訪ねてくる者が――ほぼいない。
時たまやってくる訪問者は、大体王宮からの使者だ。
「運び人か……?」
確かに、そろそろ祈りの種の運び人がやってくる時期だ。だからこの馬車に乗っているのは、運び人である王の騎士なのだろう。
「にしてもこんな時間に……」
いつもならだいたい昼を回った頃にやってくるのだが……。日程の配分を間違えたか。
(時間まで門の前に居座られるのも……、嫌だな……)
礼を知った騎士であれば、こんな非常識な時間に門を叩くことはないだろう。だからといって、門前で待たれるのも気分がよくない。
「仕方ない……。さっさと渡して帰ってもらうか……」
セージは服を着替えると、姫神子の寝室に向かった。
こんな早くに起こすのは忍びないが……。祈りの種の引き渡しには、必ず姫神子も同行する決まりなのだ。
「やあ」
「セージ……? いったいどうした?」
姫神子の寝室の前では、ジェットが警備していた。今晩はジェットが姫神子の警護担当なのだ。
「ちょっとね。運び人が来たみたいなんだ」
「運び人が……?」
ジェットは怪訝そうな顔をしながら小首を傾げる。それにセージは苦笑を返し、
「さっさと用事を済ませて帰ってもらいたいからさ、姫様を起こしてくれるかい? で、姫様の支度ができたら二人は先に門に向かってくれ。僕は祈りの種を持ってあとから行くから」
「わかった」
ジェットは素直に頷くと、扉をノックし部屋のなかへと消えていく。
セージは面倒くさそうに嘆息すると、踵を返し、種を納めている倉庫へ向かった。
姫神子とジェット、二人が門に着いた時、訪問者の姿はまだ影もなかった。
「まだ来てないのか……」
「まぁまぁ。こちらだって種の用意はまだなんですから。――あら、でも蹄の音が聞こえてきましたね」
姫神子の言うとおり、耳を澄ましてみると馬の蹄の音が、だんだんと近づいてくるのがわかる。
だが、その音は――――。
「……なんか、変だ」
「ええ……。とても急がせているような……。どうしたのかしら……」
姫神子が顔を曇らせるのを見て、ジェットは心の中で舌打ちをした。
(姫に無駄に早起きをさせたあげく、不安がらせるなんて……。王宮の騎士ってのは質が悪い……)
ジェットは姫神子のまろい頭に、手をポンと載せる。
「たいしたことじゃないだろ。森が暗いから……。怖くて走り抜けたい、とか」
「ふふっ! 王宮の騎士がまさかそんな……!」
くすくすと声を漏らし、姫神子は気を和らげた。ジェットもそれに、ホッと胸を撫で下ろす。
――昔から、姫神子が不安そうにしているのが嫌で嫌でたまらなかった。
(冗談を言うのは苦手だ……。けど、こんなくだらないことでも姫が安心するのなら……。オレも少しは……姫の役に立てるのなら……。少し、嬉しい……な)
「――あっ、見えてきましたね」
姫神子が指すほうに目をやると、確かに王宮の荷運び用の馬車が見えた。――が。
「えっ!?」
姫神子が驚愕した声を上げた。
それもそのはず。御者台に座っていた人物が、馬車から転げ落ちたのだ――!
御者を失った馬車は、それから少しだけ走り――足を止めた。
姫神子とジェットは顔を見合わせ、そして落ちた御者に駆け寄った。
「――おい! どうした!?」
「大丈夫ですか……!? ――ああっ……!」
――御者は、痛々しい姿をしていた。
火傷だろうか、手足や顔に火膨れが見える。明らかに落ちた時にできたのではない傷だ。
「何があったんだ……!?」
ジェットはぐるりと周囲を見渡した。敵の気配はない。この男はいったいどこで、誰にこんな怪我を負わされたのか。
「それも気になりますが……、とにかくお怪我を癒しましょう……!」
姫神子が癒しの術を施そうと、御者に手を伸ばしたその時だ。
瞼を閉ざしていた男が、カッと目を見開いた。
そして片方の手をジェットに、もう片方の手を姫神子に伸ばす。
「え……っ!?」
「なっ!?」
すると掌から黒い蔦のようなものが飛び出し――二人の体を拘束した。
「お前……!! 何をする!? 離せ!!」
ジェットが吠え叫ぶのを無視し、男はゆらりと立ち上がる。そして「やめて!」と暴れる姫神子を難なく肩に担ぎあげ、馬車の荷台へと放り込んだ。
その時に体をぶつけたのだろう。姫神子のくぐもった声が、ジェットの耳に届いた。
「姫っ!!」
ジェットは声の限りに叫んだ。
なんとか拘束を解こうともがくが――黒い蔦が余計に肉に食い込んでくるだけで、自由になることはできなかった。
「……ジェットっ!!」
姫神子の悲鳴にも似た声が、暁天に響く。
「…………」
男は御者台に上がると、ジェットに目もくれず手綱を引いた。
「おい! 待て!! 待てって言ってるんだっ……!!」
馬車は無情にも、元来た道を引き返していく――――。
セージが門へ到着したのは、馬車が森の中に姿を消してから、すぐのことだった。




