拝啓
夜が明けようとしていた。群青に染まった街を見渡しながら、彼女は呼吸を整えた。朝の屋上は彼女のステージだった。来週にはオーディションが控えている。邪魔になったイヤホンを取り、パーカーを脱いだ。「いつだってラストダンスだ」コーチにはしつこくそう言われている。もしこれがラストダンスだったとしたら、いくらか口惜しく思えた。誰も観客がいなかったからだ。誰かに見せたいか?このぎこちない身体を?普段の自問に立ち戻ってしまう。
東のビルの隙間から、陽が射した。眩しかった。陽になれば良いじゃないか。眩しくて人の眼を刺すような。そうやって踊ればいい。
見せ物じゃないんだ。どこか深いところで、そう叫んでる。
携帯の待受けは赤いアネモネだった。父に教えられたその花が彼女は好きだった。丸みを帯びた可愛らしいそれは、いつしか彼女の親友になっていた。いつだったか、山道の脇に群生する白い花が、アネモネの仲間だと聞いて驚いたことがあった。すぐに彼女は友人になった。風になびく群れはほんとうに美しかったのだ。
あの陽もアネモネだ。私だって、私だって。
イヤホンで耳を塞ぐと、彼女はふたたび踊り始めた。街を染めていた群青が少しずつ、白へ白へと透過していく。