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9/11

願い その2

夕方「良かったね。こちらの試合は今終了、これから帰ります。」と昭二からの素っ気ないメールを受信した。恵も「了解。」とだけ返した。

晩ご飯は久々に家族四人で外食に行った。

勇気へのご褒美という意味も兼ねて出掛けた。

「今日は勇気が主役かぁ?」

昭二が珍しくおどけ口調で言った。

勇気は黙ってニコッと笑っていた。

「何でも好きなの取って食べやぁ。」

回転するその寿司皿を子供達は次々と取って食べた。昭二は生ビールを片手に、恵は熱いほうじ茶を片手に、寿司を頬張った。他のテーブル席も家族連れでそれぞれ賑わっていた。

ここにもそれぞれ「家族」の幸せな光景があるのだな、と恵は周りを見渡していた。


この時期に長女の陽子はピアノ教室に通うようになった。回転すしでお兄ちゃんが褒められている様子を見て

「陽ちゃんも野球、陽ちゃんもぉ。」

と言い出したので恵が、

「陽ちゃんは女の子だから、ピアノなんかどう?」と咄嗟に口に出してしまったが、陽子は「やる、やるぅ。」と即行で返事が返ってきてしまい急遽「ピアノ教室」という運びになってしまった。後日取り敢えず体験入学をしたら本人が超乗り気になってしまったので、そのまま教室に通う運びとなった。

勇気のスポーツ少年団は土日、陽子のピアノ教室は月木の夕方なのでどちらも送迎は恵が

行く事にした。

こうして春はあっという間に過ぎていった。

最近はテレビで「入梅宣言」をしなくなった。

どういう主旨でこうなったのか詳細は知らないが、この年もいつからが梅雨でいつが終わりなのか分からないような気候だった。


この四月から恵の生活は変わった。

仕事を辞め家に入り、ごく普通の主婦になった。主婦といってもやらなければならない事が沢山ある。今まで家事は両親に頼っていた。子供の子育てに関しても結構頼り切っていた。

炊事、洗濯、掃除、子供の送り迎え、育成会等の付き合い。自治会やPTAもある。

恵は自分の体(体調)と相談しながら出来る範囲で自分の役目・役割を改めて考えて決めた。その中で、自治会の付き合いとPTAの付き合い、そして洗濯は両親または主人の昭二にこれからもお世話になることにした。自治会ではまだ両親がまだ元気なので、今までどおり頑張ってもらうことにした。それに、やはりまだ色々と詮索されるのが嫌だという気持ちも正直あった。当然両親もそういう場に行けば色々と聞かれるだろうけど、申し訳ないと思いつつ、甘えさせていただく事にした。両親もその辺りは最初から承知をしていた。

PTAの行事には当面主人に行ってもらう事にした。やはり、まだ先生方と会う事に抵抗があった。学校そのものに対してもまだ抵抗があった。教員を辞めた自分に後悔はないけれど、それが正解なのか本心なのかは、まだはっきりとしていなかった。変に「未練」な気持ちが湧き出てくるのも嫌。だから学校へ近づきたくなかった。我儘かも知れないが、主人にお願いした。特に理由は言わなかったけれど主人は何も言わず引き受けてくれた。

洗濯に関しては単に「体に負担がかかる」という理由で、これはお母さんとの共同作業という事になった。それまでは父と母で行なっていたので、ここで少し父の負担が減った。

洗濯物を畳みながら母と会話する時間が出来た。たわいもない話を母子でする。でも二人にとってこの時間は凄く「幸せな時間」だった。

今まで苦労かけた分、これからもっともっと親孝行をしていかなければ。

心の中でいつもそう思っていた。

おふくろの味、の継承はまだされていなく、勇気や陽子にとっての家庭の味はまだ「おばあちゃんの味。」のままである。料理が初心者に近い恵はお母さんにレクチャーを受けながらの調理となった。こうして炊事でも当面は母子の共同作業になっていた。主婦一年生の恵には勉強する事がまだまだ沢山あった。

梅雨明け宣言らしき報道をテレビで見た七月二十日に小学生の勇気と主人の昭二は終業式を迎えた。夏休みへ突入である。

夏休みといっても昭二は学校へ行くことが多く勇気にいたっては「野球」漬けの毎日となっていた。春先に「ボール投げ」で注目された「肩」はコーチの目に留まり、それ以降そのセンスを伸ばす為に一生懸命指導をしてくださったおかげで勇気は外野のライト守備から「投手」へと大抜擢された。加えて低学年チームの副キャプテンにも指名された。

あれだけ引っ込み思案で気弱だった勇気が「野球」によって変わった。

練習試合や対抗戦など、試合も増えてきた。

恵は息子の強力な応援団の一人として声援を送り続けた。暑く、そして熱い夏となった。


その頃、陽子は「ピアノ」教室で頑張っていた。この子は吸収が早い。先生も褒めて下さった。勿論、陽子だけに褒めている訳ではないと思うけれど、親として素直に喜べた。こちらも初の「発表会」が控えており、その課題曲に向けて練習の毎日だった。

恵の両親がそれに応えるように陽子にアップライトのピアノを買ってくれた。陽子も恵と同様「褒められて伸びる。」タイプだった。

音楽のレベルに関してはよく分からない両親も家で陽子がピアノを弾くたびに「陽ちゃん、上手やねぇ。すごいねぇ~。」を連発して拍手をしてくれた。それが嬉しい陽子はそれでまた弾く、それの繰り返しが続いた。

孫は子より可愛い、孫という名の宝物、とはよく言ったもの。今の両親はまさにこんな感じ。子としては少々複雑な心境ではあるけれど、これも素直に嬉しかった。いい孫になってくれて良かった。両親を喜ばせてくれることが本当に嬉しかった。

そして、夏祭り、花火、お盆。久しぶりに家族全員で迎える事ができた。

地元での夏祭りでは子供達と共に浴衣を着て参加した。昨年の今頃とは天と地の違い。

「心躍る」とはこういう事か。恵は上機嫌だった。お盆ということもあって里帰りしてきた懐かしい同級生や友達、知り合いの顔が沢山そこにはあった。

かつての「かしまし娘」ケイコの家族や良美の家族、あこがれの先輩だった「ケイイチロウ先輩」告白された健太君の姿もそこにあった。地元だから、だいたいの状況は知られている。

だから「久しぶり。」と「体、大丈夫?」の

言葉はセットだった。恵は笑顔で応えた。

ケイコが「同窓会やろうよ。ねっ。」と言っていた。「私が今回、幹事をやりますわ。」

ちょっと棘が刺さったような言い方に、

「何、どうしたの?」

「まぁ、前回の同窓会でみんなに迷惑かけたからさぁ。」

「どういうこと?」

「まぁまぁ、気にしない気にしない。今度の同窓会で話すからさ。ま、そういう事で。」

「正月休みになると思うから、また連絡するね。」

「うん、楽しみにしてる。」

「じゃあね。」

「じゃあ。」

子供達が、青年団の踊る「盆踊り」の輪の中に入って一緒に踊っていた。ケイコと恵もお互いの子供と一緒に踊りの輪に加わった。旦那衆はビールと焼そばを露天のテーブルに並べ、ほろ酔いでお盆の夜を満喫していた。


「祭りのあと」はどこか「もの哀しい」ものがある。旅行にしても、休みにしても「楽しいこと。」が終わったあとは妙に寂しさや哀しさ、脱力感などがある。

恐らく、結構な割合で学校の子供達は夏休みの宿題に追われ、去り行く夏を振り返る余裕もなく、残された夏休みの日々をせせこましく生活しているのだろう。

小学二年生の勇気も例外に漏れずその一人であった。

文武(部)両道とは、なかなか難しいものである。疲れて帰ってくる我が子に無理強いしてまで勉強させるのは酷な話ではある。

夏休み最後の一週間は練習が休みになる。

スポーツ少年団もよく分かっているようだ。

恵にとっては「夏休み」が無い経験を初めてした。学生時代、教員時代、全てに「夏休み」があった。昨年は病院にて「夏休みの無い」生活をしたけれど「我が家」で過ごすのは、そして家族と過ごす事は「初めて」である。改めて振り返り感傷に浸るつもりもないが夏休み最後の日記の締め括りは、

「今年の夏は本当に楽しい充実した夏でした。」と記した。


九月一日。二学期がいよいよ始まった。

九月は勇気の通っている小学校の運動会がある。教員時代は自分の学校と重なっていた為にいつも両親に保護者として参加してもらい、だから当然「親子種目」も父が出ていた。

子供や運動会の様子はビデオテープでしか鑑賞できなかった。

今年は私が行ける。親子種目では私が勇気と出場する。応援合戦も鼓笛隊の演奏も、紅白対抗リレーも何もかもが楽しみだった。

でも、それは叶いそうに無かった。

子供と共に夏を駆け抜け夏休みも終わった。

夏バテかと思っていた。体に違和感があったのは感じていた。でもその疲れはそのうち無くなるものだと思っていた。

九月の始めに病院へ行った。それは「疲れ」ではなく「病」だった。

それは癌の再発という「宣告。」だった。

しかし今回はもうひとつの「宣告。」が付いてきた。

「余命六ヵ月」という「宣告。」

これは言い換えれば期限付きの「死刑宣告」をされたようなもの。

恵は耳を疑った。再度先生に聞き直した。

でも返ってくる言葉は同じ。先生は至って事務的なトーンで話してくる。そういう職業だから仕方ない、いちいち感情的になって話す先生など逆にいたら困る。でも、その事務的な話し方は凄く冷たく聞こえ、それは「怒り」さえもおぼえた。でもそれ以上に「茫然自失」という感情のほうが上回った。

人には感情があり、面白ければ「笑う」

頭にくれば「怒る」悲しければ「泣く」

でも「泣く」のは嬉しい時でも、感動した時でも悔しい時でも辛い時でも「泣く。」

勿論、泣きながら「怒る」こともあるし、「笑いすぎて」泣くこともある。だから「泣く」という行為は「感情」を表現する時に出る「表情」というか「症状」だと思う。

しかし、限度を越える出来事に出くわした時は「感情表現」が出来ない。ただ頭の中が

「真っ白」になって無表情になるだけ。または精神的に限度を越えて「壊れた」状態に恐らくなる。恵も「宣告」を受けた時は「泣く」こともなく周りから見れば「冷静」に受け答えをしているように見えた。しかし、それは「冷静」ではなく「唖然」「茫然自失」の状態であり、脳が麻痺している状態だった。

人は誰しも必ず「死」を迎える。どんなに医学が発展しようとも、これは避けられない。

せいぜい、「寿命」を少しばかり延ばす事が出来るだけ。だから人は生まれながらに、

「余命宣告」を既に宣告されている。ただそれが「長い」か「短い」かの違いだけ。

地球上に存在するだいたいの動植物はこの「運命」を受け入れ、それに購う事もなくその「天寿」を全うする。人間はそれに逆らい、「医療」という技術で寿命を延ばしたり、また「永らえる」命を持ちながら自らその命を絶ち「寿命」を短くして終えることもある。

ただ、この「寿命」は受け入れる側の「受け入れ方」次第となる。

「この世」と、そして存在するかどうかは分からない「あの世」

どんな歳でも結局は「この世」に未練のある人間は「あの世」に行きたくないと思う筈。それは「生きていたい。」と思う気持ち。まだ、「この世」に居られる残り期限がわかれば覚悟することも、どう「生きていたい。」と考える事も出来るだろう。しかし、それを告げられないまま、突如として「あの世」へ導かれていく人達だっている。

人によって殺められたり事故にあったり、災害に巻き込まれたりして突如「あの世」に連れて行かれたら「無念」以外の何物でもない。

それは当事者の取り巻きの人達とっても同じ思いである。


だから。だから?

そんな色んな理由や言い訳を自分に押し当てても、でも恵は納得できる筈もなかった。

心の準備も「あの世」への準備も出来る訳がない。

そんなのしたくもない。

まだ私は四十半ば。

今の平均寿命を考えればそれこそ、まだまだ。

「人生半ば」である。子供はまだ小学生と保育園。勇気と陽子の母として、そして昭二の妻として、そして何より父康雄と母美千子の「娘」としてまだまだこれからやりたい事や、やらねばならない事が数え切れないぐらいある。その「将来」を「予想図」を「宣告」によって全て奪われてしまった。

「めぐみ先生。」としての将来はこの春で無くした。本意ではないけれど、原田家の「恵」として生きていくためにその「先生」を辞めた。でも来春頃にはその「恵」という人生の将来さえも無くなってしまう。こんなに悲しいことはない。

「やりきれない。」

「悔しい。」

「悲しい。」

「哀しい。」

「空しい。」

「苦しい。」

「憎い。」

思い浮かぶのはそんな言葉ばかり。あとは、

「どうして自分なの?」

「どうして?」

「なぜ?」

「なぜ私なの?」

この世に神というものが存在するならばその神に問いただしたい言葉。

それは恵だけではなく子供にとっても夫にとっても親にとってもそれは同じ思いである。

また、同じように「余命宣告」をされた人は多かれ少なかれこのような言葉しか頭に浮かんでこないと思う。それが「神」へ問いただすのか「医師」へ問いただすのかの違いぐらいだ。

「絶望感。」

「空虚感。」

「無力感。」

「脱力感。」

「憎悪感。」

頭の中を支配する感性。これがほぼ全てを占める。

「宣告」という、ただ一言でこれだけの感性が現れる。そして「癌細胞」は消えないけれど、「希望」や「将来」や「命」という言葉を確実に「消す」言葉でもある。

現代医学技術は日々進歩している。し続けている。術後の生存率や、かつて不治の病であった病気も治るようになってきている。

しかし、どうしても治せない病気はまだ沢山ある。

あの「風邪」にしても完全な「治療薬」は今だ無い。薬は諸症状を緩和する効果があるだけ。あとは本人の免疫力、治癒力によって治すしかない。

「花粉症」にしても「治療薬」はない。風邪をそして花粉症を完全に治す「治療薬」が出来ればそれこそ「花粉症患者」からすれば

ノーベル賞ものである。

「癌」にしても部位によって色んな治療法があり、早期であればかなりの確率で治すことが出来る。しかし進行した「癌」については抗がん剤、放射線などの「苦痛」を伴う治療(薬物療法)または治癒が目的ではなく、

痛みなどの症状を軽減する対症療法に分けられる。

この「残された時間」を治癒目的の「治療」にするか、病と共存して「痛み」のない生活を送るのか。どちらかを選択をしなければならない。

先生からはどちらの「リスク」も聞いた。

出来ればどちらも選択したくない。

最後まで望みを捨てずに「生」に拘って、

治るかどうかも分からない「苦しい治療」を

取るか「痛み」を伴わない生活だけど確実に「エンディング」へ近付いて行く方を取るか。

人生の岐路。

究極の選択。

できれば避けたい。

やっぱりどちらも選択したくない。

豪華でもなく、派手でもなく、金も名誉も無くていい。ただ「普通」の生活がしたい。

今のように。普通に「ありふれた家族」でいい。「ありふれた家族」がいい。子供が普通に学校を出て大人になり、主人は普通に教職を終え定年を迎え第二の人生のスタートを切る。両親には温泉や旅行に何度も連れて行き親孝行を目一杯してあげる。

そんな「普通」の家族生活を送りたい。

もしかしたら手術、治療によって完治出来ればその先には「普通」の生活が待っているかも知れない。でもそれは「一縷の望み」であると先生に言われた。別名「高望み」である。

恵にはそう聞こえた。そして今後の治療方針に向けての調整や検査などで一週間ばかり恵は病院に入院をした。

悩んだ末に恵は「緩和ケア」を選択した。最初の三日間はこれ以上ないくらい泣いて過ごした。あの時以来だった。

そう、同じ、この病院。

以前お世話になった看護士の森本さんは病室に何度も巡回に来てくれた。

「お変わりない?」

「・・・」思わず涙がこぼれてしまった。

「まだまだよ。何かあったら気軽に声かけてね。」

森本さんもこれ以上は言えない。

「頑張って。」とか「諦めないで。」などという言葉はかえって逆効果となってしまう。言葉を選んで話さなければならない。

多くは語らず、が一番患者にとってはありがたい。森本さんはそういう間合いを取る事が上手だった。

両親と主人には告知した。子供には最後まで告知しない事にした。

「出来る事なら私が代わってあげたい。」

母、美千子は泣き崩れた。

「お母さん、ごめんね。心配ばかりかけて。

最後まで迷惑かけちゃうね。」

男はこういう時になっても、取り乱したり泣き崩れたりはしないし、出来ない。康雄と昭二は二人で静かに席を外し売店の自動販売機で缶コーヒーを買い、お互いに無言でそれをすすった。

男同士に会話は無かった。


いよいよ恵の退院となった。これは「生還」「完治」という退院ではなく「通院治療」

「緩和治療」という名目付きの退院となる。

言い換えれば「ここでは治療しても治らないよ。」という意味である。でもこれが「現実」である。この現実を覆す事は現世では不可能である。分かってはいても心が納得していない。聞き分けの悪い子だと言われても構わない。身も心も絶対受け入れられない恵がそこにいた。

「でも、これが現実。」

「これが、現実。」

何かに反抗しても、足掻いても、もがいても

荒れ狂っても、泣いても、叫んでも、でも、

もうどうする事も出来ない、それが「真実。」

どこかで観念するしかない。

退院して暫くは家で休養をとって恵だけど、その殆どの時間が「自分と向き合う。」そして「現実を受け入れる。」為の時間となった。

時間は確実に消費していく。過ぎていく。

その消費する時間が無くなった時、人生は幕を閉じる。

くよくよしても、泣いても、逃げても、時は

止まらないし待ってもくれない。普通に考えれば当たり前の事である。

同じ「過ぎていく」時間ならば出来るだけ

「いい時間」を過ごしていきたい。今のこの「時間」は勿体ない。いつまでも駄々をこねてはいられない。両親も主人もこんな姿を本当は見たくないに決まっている。

こうしてようやく自分との「折り合い」をつけたのは家に戻ってから一週間が経った頃であった。長くも短くも感じた一週間だった。


恵は「余命宣告」を受けたものの、外見はさほど入院前と変わっていない。体調も「良い」とは決して言えないけれど日常生活は何とかこなせている。ただ同じ「宣告」を聞いている身内の両親と主人は気が気でない。

それも当たり前のことではあるが。

恵は努めて子供達の前では「平静」を装っていた。子供は観察力、洞察力がありとても敏感である。子供を結果的に騙す形になってしまうけれど仕方がない。子供達にとってはこのほうが幸せであると判断しての事。見えない所で涙は見せるが、本人達の前では決して泣かないと決めていた。


九月の終わり。

長男勇気の運動会が間近に迫っていた。

恵は「これが最後かも」という思いを馳せながらその運動会へ行く事に決めた。

当日の早朝。母と一緒に昼の弁当を家族分拵えた。母は泣きながらおにぎりを握っていた。

恵も、もらい泣きしてしまった。

主人の昭二も運良く休みが取れた。だから

原田家は総勢六人での参加。恐らく最初で最後の家族総出の運動会となった。

秋晴れの爽やかな風の吹く中での運動会。

だいたいの男親は「ビデオ」係、そして女親は「カメラ」係となり、それぞれの家族が子供達に声援を送る。昭二も他の親と同じように「ビデオ」撮影ポイントとなる第3コーナー付近でビデオをセットしていた。この日ばかりは「病気」の事も忘れ皆が運動会を楽しんでいた。

「親子参加競技」は結局、昭二が参加した。

勇気は「野球」で鍛えられていることもあって「肩」だけではなく足も速かった。二人三脚だったが昭二の方がアップアップしていた。

「どっちに似たんやろね。」

「お母さんかな。それかおじいちゃんかな。」

「いづれにしても原田家の血やろね。」

戻って来た昭二が息を切らしながら言った。

恵は周りを見渡していた。そこには色々な家族の「幸せの形」が見えた。

(ここへ来るのはもう最後になるのかなぁ。)

そう思うと胸が詰まる思いがした。

午前の部が終わり、お昼を皆で食べた。子供達も主人も両親も皆笑顔で食べていた。

体育館が食事用に開放されていたが恵の家族は運動場脇にある保護者用テントの中でゴザを広げて食べた。恵を気遣っての配慮だったが屋外での食事の方が新鮮で楽しかった。

「準備あるで行くわぁ。」

「ご馳走様は?」 「あ、ご馳走様~」

食べ終わった勇気が走り出して入場門の方へ行った。午後の部最初は「鼓笛隊」の演奏。この学校伝統の種目である。二年三年の低学年は「ポンポン」を持って行進するだけだがそれでも勇気は張り切っている。「ポンポン」にも簡単な振り付けがある。恵はこの学校の卒業生であり、恵も小学生の頃にこの「鼓笛隊」を経験している。しかし、当時は生徒数も多く低学年の出番は無く四年生、五年生、六年生の編成だった。その当時から比べると今は、ほぼ半分程度の生徒数になってしまっている。悲しいけれどこれも過疎化という「現実」であった。これも受け入れていくしかない。

規模は小さくなったけれどこういう伝統が残されている事に恵は素直に喜んだ。

鼓笛隊の行進が始まり、目の前を通り過ぎる「ポンポン」姿の勇気をしっかりと目に焼き付けた。

その後は応援合戦や保育園児の参加種目、そして紅白対抗リレーなどが控えていた。保育園参加種目は三十メートルほどの直線を走るのみ。ゴール地点には小学生のお兄さんやお姉さんがお菓子を持って待っている。「ヨーイ、ドン」の合図でこれに向かって一直線にかけっこをする。これには長女の陽子が参加していた。恵はカメラ越しではなく自分の目でそのかけっこする陽子の姿を目に焼き付けた。順位は関係ないが、陽子も一等賞で駆け抜けた。

「よかったね~。陽ちゃん。一等賞だねぇ。」

「このお菓子好き~」

「そういう事ね。」単純明快であった。

恵に封を開けてもらい陽子はそのお菓子を得意げにほお張った。その仕草に思わず笑ってしまった。

最後のリレーでは勇気も出場した。精一杯の声援を家族みんなが送っていた。恵も負けじと声を出した。勇気はやはり足が速かった。

「今日のヒーローは勇気だな。」

父、康雄が孫に賛辞を送っていた。

これが家族六人で参加した最初で最後の運動会となった。


十月になり、恵の体調は段々と悪くなっていった。不調で寝込む事もあったけれど、

勇気のスポーツ少年団「野球」と陽子の「ピアノ」への送り迎えは少々無理をしても可能な限り恵が受け持った。

(火の無い所に煙はたたない・・・)

誰が言った訳でもなく、知っているのは本人と主人、それに両親しかいないのに、恵の

病状が巷では噂され始めていた。ちょっと見ないうちに「痩せたなぁ。」という印象はどうしてもそれを連想させてしまう。「ダイエット」目的で痩せたようには見えないから、よけいにそれを助長してしまう。でも恵はそういう目で見られてしまう事についてある程度の予想と覚悟はしていた。恵はただそれを気にしている時間が勿体なかった。それよりも子供と関わる時間を大事にしたかったから。

(私はもうどんな風に見られても構わない。)


勇気は投手として一生懸命に頑張っていた。その姿に恵はどれ程勇気付けられたことか。

「勇気。」 この名前にして本当に良かった。

この頃、勇気は秋季大会に向けての練習がずっと続いていた。

そして十月の最後の土日に秋季大会は行なわれた。でもその応援席に恵の姿は無かった。

そこには父、康雄の姿があった。

大会を心待ちにしていた恵だが、体調が芳しくなかった。病魔は確実に恵の体を蝕んでいった。

陽子は十一月の半ばに「ピアノ」の発表会を控えていた。勇気と同様十月の半ばまで陽子も恵がピアノ教室へ送り迎えをしていた。

無理が祟ったのかもしれない。でもそれでも子供達のために何かしてあげたかった。


残された時間は確実に消費されていく。

その時間をどう過ごすか。色々と考えてみた。

ここで恵は自分に「趣味」がないことにようやく気づいた。持っている(いた)資格は教員免許と自動車免許だけ。思えば学校との往復が生活の大半を占めていた。

休みでも「学校」が頭から離れる事が無かった。趣味を自慢げに職員室で話している同僚教員に軽視さえしていた。しかし、今になって「趣味」があることは大事であると今更ながらに思った。趣味があればそれでストレスを解消できたり、気を紛らわせてくれたりしてくれる。趣味の種類にもよるが「教養」も当然身に付くだろう。人間的には幅も出来る。

でも恵には何も無かった。「先生」という職業こそが恵の「趣味」でもあった。

「後悔先に立たず。」この言葉に尽きる。

今からでは時間がもう無い。趣味は諦めた。


親孝行はどうか。康雄と美千子の子供として

二人の「自慢できる娘」として生きてきたつもり。教員になり家庭も持ち孫も生まれ、親にはそれだけでも「孝行」したと思っていいかもしれない。でも、ここ数年は親の世話になりっぱなし。孫の面倒や自分の面倒まで、そして親よりも先に「人生の幕」を閉じてしまうという「「親不孝者。」

せめてこの残された時間を親のために費やそう。一緒に旅行したり、買い物したり、とにかく親の喜びそうな事を一杯一杯してあげよう。そう色々考えたが、結局全てが遅すぎた。

こんな体では、自分が世話になるだけ。

親のためになんて言っておいて、結局は自分よがりな考えなのだ。

(そう、もう手遅れなのだ。何もかもが。)

受け入れたくないのだが結局その時が来るまで、ただ「待つ」事ぐらいしか出来ないのだ。

「天国」いや「地獄」へと続くその「階段」を着実に、確実に一段ずつ登っている状態なのだ。

もう、泣いても、叫んでも仕方ない。もう何も出来ない。ただ頭の中で繰り返される言葉「どうして、自分なの。」

「ねぇ、どうして?」

自暴自棄には成りたくない。でも心が折れてしまう。イライラもしてくる。

人間はいつか必ず死ぬ。何らかの理由で。

それが病気だったり、事故であったり、寿命であったり、自殺であったり、殺められたり、処刑であったり。

一番納得出来るのはその長さではなく、

「どう生きたか。」「どう生きられたか。」

であり、本人が「もうやり残す事は無い。」と最後に行って逝ければそれが一番良い。それが何年であっても。本人が納得出来ればそれが良い。

病気や事故で旅立つ事は「納得」出来ない事であり、年が若ければ尚の事である。

病気は「病」に事故は「人工の凶器」に言わば「処刑」されるようなもの。生きていたい人のその「命」を奪う行為である。だから納得できない。

恵は今「余命」という「宣告」を受け、その期限が終了すれば「病魔」により「処刑」されるという残酷な運命が待ち構えている。

納得出来る筈がない。

十一月に入って紅葉がこの辺りでも見られるようになった。例年より少し遅めの紅葉だった。

十月末の勇気の秋季野球大会の時は病院に入院していて応援に行けなかった恵だが、十一月半ばにある陽子のピアノ発表会の前には何とか退院する事が出来た。一時的ではあるが体調を持ち直した。

紅葉はその頃ピークを迎えていた。


「お母さ~ん。」会場に着くと陽子が恵を見つけて駆け寄ってきた。

「陽ちゃん。ごめんね~遅くなって。」

先に昭二が陽子を連れてきていた。恵は父に乗せてきてもらった。

「頑張ってよ~。応援してるからね。」

「は~い。」

陽子をギュット抱きしめ、そして陽子は舞台袖へと小走りで向かった。

会場は陽子のように出演(発表)する子供達とその家族、そして主催する楽器メーカーの関係者でほぼ占められ、一般の観覧者は殆どいない。それぞれの家族が我が家の子供の発表を観に来ていた。所々にビデオカメラが設置され、カメラもぶら下げて我が子の晴れ姿、演奏を撮ろうとしていた。そこにも色んな「家族」の光景があった。陽子の家族のように三世代総出組は少なかったが、こうやって出掛けられるのも、もうそんなに無いかと思えば遠慮する事は何も無かった。

「思い出作り」という言葉は出来れば不謹慎で使いたくないが、内心どこかで家族みんながそう頭の中で思っていた。

陽子の友達や知り合いが多数出ている事もあり観客席では顔見知りが多く、だから挨拶も交わした。恵の風貌はすっかり変わっていた。頬はこけて、体全体が細くなっていた。それはダイエットで痩せた体ではなく「噂」が正しいだろういう事は誰もが分かった。それをはっきりと証明する形になってしまった。

周りがまるで「腫れ物」にでも触るような扱いをしてくれた事も手に取るように分かった。でも気にしなかった。

もう、周りの視線は気にならなかった。

「陽ちゃん。頑張って・・」

出番を待つ陽子に視線を向けて心の中で声援を送った。

演奏時間は約三分ちょっと。

その「ちょっと」のために家族全員が熱い視線を陽子に送る。そんなプレッシャーも感じていない様子の陽子はいつもと変わらぬ表情でミスタッチをする事も無く鍵盤を叩いた。

演奏を無事終え、みんなに向かってお辞儀をしたあと恵の方へ視線をやり、そして小さく手を振った。恵も小さく返し、そしてハンカチで目を覆った。

父と先に会場を後にして恵は帰宅をした。

貴重な貴重な一日がこれで終わった。

それから間もなく遅めの紅葉は落葉し、山は「冬」を迎える装いとなっていった。

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