願い その1
*願い
秋の紅葉が色づき始めた頃、恵は「自宅」へ帰ってきた。病院での「日常」が無くなり、ここで以前のような家族での「日常」を取り戻す為に。
秋の風は心地良かった。幾分やつれた感じにはなっていたが、外見は「病人」の風体では
なく、あとは落ちきった「筋肉」をつければ
以前の「恵」に戻れそうな感じ。まだ学校には復帰の報告はしておらず、しばらくは静養することにした。学校(教職)から離れて既に一年以上が過ぎていた。
この年の暮れは家族全員が穏やかに過ごせた。
親に任せていた「育児」や「家事」も少しずつこなしていけるようになった。こういった
「主婦」という生活は恵にとって初めての経験であり、またこれが本来の「母」そして「妻」の役割、役目であるということを感じるようになった。
病気になり、治療する前は「職場復帰」を第一目標に掲げて挑んだ闘病生活であったが、
少しずつその心境は変わりつつあった。
家での生活パターンは毎日同じ「事」の繰り返しだけど、でもそれが心地良い。普通に生活出来る事の「幸せ」これは「病気」に
なったからこそ感じる気持ち。
ただ、「学校」へ復帰したいという気持ちもまだ無くなってはおらず、だからその意思表示をするまでには時間がかかった。
時間というのは確実に過ぎていき、日常はく離返され気づけば春はもうそこまで来ていた。教職員にとっての年度変わりは三月末である。ここで新年度より「復帰」するか「休職」するのか「退職」するのかを決断する事になる。
恵は一人、悩んだ。
「復帰」の場合は自分の願っていた最も自然な答えとなる。これが本望ではあるけれど、そうなればまた「仕事優先」の以前の自分になる。「家庭」「家族」の大事さ、有難さ、をこの闘病を機に改めて身を持って知る事が出来た恵にとって、これをまたおざなりにする事が果たして出来るのか、そこまでして「教職」に拘るのか。
「休職」の場合は「復職」「退職」そのどちらにも対応できる回答だ。とりあえずまだ考える時間として「休職」をし、いずれ考えが決まれば、その時に決断する。曖昧な考えの時はこれを選択すべきかもしれない。
最後に「退職」これは一番勇気のいる決断となる。子供の頃からの夢であった「教職」になり、それなりの実績も作りこれからも頑張って続けていければ、いずれは教頭、校長への道も開けてくる。かつて女性として「生徒会長」をしたように今度は「女性校長」として活躍出来るかも知れない。そういう「未来」、恐らく「明るいであろう未来」を諦めるという事。しかし、それによって「家族」「家庭」にこれからも向き合える生活が続けられる。心地良い生活が出来る。
三者三様。
どうする?
どうする?
どうするの?
どうしたいの?私。
誰にも相談できない。これは自分自身の問題。
毎日、悶々としながらそれでもいよいよタイムリミットは刻々と迫ってきた。
そして迎えた三月九日。
この日に恵は「辞職願」を提出した。
恵は「退職」という決断を下した。
三月九日、サンキュー。この日を忘れないように、そして今までの教員生活に感謝を込めて敢えてこの日にした。
この日取りについては恵らしくない発想だけど、周りの人たちにも憶えていてくれたら嬉しいという気持ちでこの日にした。でもこういう理由であったことは最後まで誰にも言う事はなかった。
「復職」については確かに未練があったけれど、ひとつは「以前の忙しい仕事中心の生活」に戻る事によって失う「家族」の時間。もうひとつは、その仕事生活を支える「体の不安」があった。
「休職」については、一見無難な選択ではあるけれど、その間も少なからず給料は頂く事になる。楽といえば楽だけど、そんな悶々とした時間を過ごすのに「給料」まで頂くのは誠に申し訳がない。勿体無いと言う人がいるかも知れない、いや必ず居ると思うけれど、こういう所はやはり「性格」の問題でもある。
例えるなら、生活保護を受けられるのに、「仕事もしないでお金を頂くのは忍びない」という後ろめたい気持ちから「保護申請」をせずにいるという方がいると聞くが、こういう日本国民ならではという気持ちと一種似ているような気がする。かと思えば宝くじなどで「一攫千金=楽して金を儲けたい。」という一面も持ち合わせている。考えてみればおかしな部分もある。
まぁ、いずれにしても恵はこの「休職時」に頂く給料は「忍びない。」「後ろめたい。」という気持ちに至り、だからそれを選択しなかった。
こうして、恵の「教員生活」はピリオドを迎えたのだった。
四月から長男の勇気は小学二年生、長女の陽子は保育園の年中になる。恵も四月からは
「主婦」一年生として「家庭」に入る事になった。「妻」として「母」として、そして「娘」としての恵がここからスタートした。
今年で四十五歳。少し遅めの主婦デビュー。
学校(大学)を卒業して直ぐに教員になり、
結婚しても家事、育児などを殆ど親に任せていた恵は本当に一、否ゼロからのスタートとなった。
まず、「妻」としてのスタート。
これについては、取り立てて何かを変える事もなく、まぁ今までと特に変化は無い。夫も教員である為、夫婦といっても「同士」のような関係。学校給食があるので「愛妻弁当」を作る訳でもなく、かといって帰宅すれば玄関まで行き、三つ指ついて「旦那様、おかえりなさいませ。」という妻をするキャラでもない。強いていえば恋人時代ではないが、たまには二人で出かける、という程度で「妻」としての役割は果たせるのではないかと恵は思っていた。
夜の営みについては勘弁してもらうようにした。夫もそれについては何も触れてこなかった。恵はホッとした安心感と、そして少しだけの淋しさを感じた。
「娘」としてのスタート。
一人っ子である自分を手塩にかけて育ててくれ、また孫が生まれればこれまた子育てに明け暮れ、恵の「教員生活」を全面的に支えてきてくれたこの両親には「感謝」以外の言葉が出てこない。振り返ってみれば「親」が元気なことを理由に取り立てて何かしらの「親孝行」をしてこなかった事にやっと気づいた。
四十五歳にして今だ「両親」の世話になっている「娘」そして「子供」である。これからはまず「娘」ではあるけれど「子供」からは卒業、つまり「世話」にならないよう、また少しでも「親孝行」をしていこうと心に決めた。手始めにまず、
・炊事洗濯の手伝い。
・子供の送迎(保育園)
・掃除をする。
・旅行に連れて行く
・体を大事にする(自分の)
日記帳にはこう箇条書きをした。
「母」としてのスタート。
「先生」としては合格だったかも知れないが子供の「母」としては「不合格」だったと恵は自分で烙印を押していた。仕事の疲れや家への仕事の持込などの為に子育てを「両親」に任せてしまい、常に「仕事優先」の生活をしてきた。子供が「おばあちゃん子」「おじいちゃん子」になっていてもそれは仕方ない。ストレスと病気の因果関係は分からないが、結果的に「病気」を患った。そして家族みんなに迷惑を掛けた。家族に寄り添って生きてこなかった報いがこの「病気」をもたらして来たのだとも考えるようになった。これからはこの二人の「母」として精一杯の愛情を注いでいこう。もっと早く気づくべきだったと
恵は後悔をした。
四月を迎え、それぞれが新しいスタートをきった。子供は新たな学年へ、そして夫は新任教頭先生となって新年度を迎えた。
週末に家族全員で近くの川沿いにある公園へ桜の花見に行った。
この年の「桜」は例年になく「綺麗」だった。
「綺麗」に見えたと言った方が正解かもしれない。
公園沿いに流れる川は昔、恵が川遊びで溺れたあの場所。あの頃は公園がなく一面が畑と田んぼだった。公園の木製ベンチに座って恵は当時の事を少しだけ思い出した。川の形状は少し変わっていたけれど、昔と同じように川原があって、土手もあって、そこにある石ころや土手の土はたぶん恵たちが遊んでいた頃よりずっと前からここに在る物だったかもと考えると妙に懐かしくなった。あれから四十年ぐらいの時は流れているけど、ここでの思い出は一生忘れる事はないと思った。あんなに大きくて怖いと思った川は今改めて見ると、そんなに大きな印象はなく、ただ静かにゆっくりと流れている「清流」に見えた。
小学校のグラウンドに大人になってから来たら妙に「小さく」見えたあの感覚のように。
この公園は県道沿いにあるので色んな人が利用する。春はここで花見、夏には川原でバーベキュー。悲しいことに地元の人間はあまり利用していない。川遊びにしても昔のように子供たちは無闇に泳げない。
今は学校に「プール」があるから。子供達はそのプールを利用し「危険性」のある「川」では泳がないようにとの学校から通達されている。
「川」で泳いで経験し、その「川」の怖さを知っているからこそ「川」と付き合っていける。遠ざけていては本当の怖さを知ることが出来ない。それ故に川で溺れて亡くなる人が近年多いのだと、恵は新聞でそういう記事を見る度に思った。
夏になったら、子供達を敢えてここで泳がせよう、そして「川」の面白さや「怖さ」も体験してもらおうと恵は考えた。学校に知られないように。「川」の「怖さ」を誰よりもよく知っている恵だからこそ出来る「教育」
「屋外授業」である。
子供達を取り巻く環境や学校も恵の時代とは
だいぶ変わってきた。
子供達は放課後グラウンドで遊んだ。時には日が暮れるまで遊んで帰った。また「道草」も楽しみの一つだった。
(寄り道し、遊んで帰る家路かな。)
下校する楽しみ。
今は恐らくどこの学校でも一斉(集団)下校が「当たり前。」
道草も寄り道も出来ない。「不審者」に備えて地域の大人が付き添って家路まで歩く。
付き添いの大人は無事に子供を家路まで導く役目の為、道草、横道、裏道などはさせてくれない。自分達が「道草世代」でその「楽しみ」を知っていても。それが出来ない。
子供達にとって、というより「親」からすればそれが「安心」かも知れないけれど、ただ大人に付き添われ、ひたすら真っ直ぐ歩いている子供達を見ていると、どこか「表情」が無いように見えてしまう。
このまま大人に守られ続けて果たして「成長」が出来るのか、少し心配になる。
放任しておけとは言わないまでも、でも昔でも「不審者」や「変質者」はそこそこ居た気がするけれど。
また、放課後にグラウンドで遊ぶにしても、子供達は一旦家に帰ってからまた「出直す」
という形を取らされているとも聞く。
これは「グラウンド」で何か事件事故等が起きた場合に「一旦家に帰ってからの出来事。」なので学校では責任を負わなくても、若しくは責任を問われる事は無い、という主旨であるとも聞く。
これは学校側に問題があるのではなく、とかく学校側に口を出してくる保護者が増えてきている実情がこうさせたのも起因しているように思える。体罰問題もまた然りである。
ビンタ、平手打ち、ゲンコツ、ケツバット。
恵が育ったあの時代はこれが「当たり前」
でも訴える親はまずいない。当時はこれも
「教育の一環」であった。
それを「愛のムチ」とも呼んだ。
今はそれを一括りに「体罰」=「犯罪」扱い。
このように昔の学校社会と今の学校社会は
確実に変わってきており、確実に「先生方」は昔より「負担」や「制限」そして「ストレス」が増える職業となっている。教員であった頃の恵もこの「矛盾」と戦いながらそれでも何とか対応して頑張ってきた。
でも教職に「復帰」していたら今までと同じようにその「矛盾」や「ストレス」と向き合って行かなくてはならない。恵は改めてこの時期に「辞職」を選択して良かったのだと自分に言い聞かせた。
長男の勇気は徒歩で小学校へ通学しているので見送りだけで済むが、長女の陽子は車での送迎が必要な為、今までは父と母が送迎していた。当然これは選手交代で恵の役目となり、毎日の日課となっていった。
駐車場に車を停めてそして助手席から陽子を下ろし、手を繋いで玄関まで送り届ける。
保育園の保母さんはみんな明るい。
「陽子ちゃーん。おはよぅ~」
(テンション、高っ!)
「おはよぅ」
「お母さん、おはようございま~す!」
「おはようございます。」
「陽子ちゃん。お母さんに送ってもらったの?」 「うん。これから毎日そうだよ。」
「あらぁ、そう、良かったわねぇ~。」
「うん。」
「お母さん、綺麗なお母さんだねぇ~。」
「うん。」
「いえいえ。」
「じゃあ、靴を脱いで行こうかぁ。」
「今日から私が送り迎えしますので。」
「はい。分かりました。ご苦労様です。」
「じゃあ陽子ちゃん。お母さんにバイバイ。」 「バイバーイ。」
「バイバイ。」
陽子は多分いつもと同じように奥の教室へと走っていった。
恵はお母さんから聞いていた。
「最初の頃は泣いて泣いてねぇ。それはそれは大変だったんよ。」
学校に勤めていた以上、時間的に送り迎えは無理だったので、子供に申し訳ないなと思いつつも、ついついお母さんに甘えてしまっていた。改めて「親」に支えられ、助けられていた事を実感した。そして子供に淋しい思いをさせていた事にも。
「陽子ちゃーん。お母さんがお迎えに来たよー。」保母さんは、やはり明るい。そして元気。
「はーい。」友達とバイバイして向こうから走ってくる我が娘。その笑顔が眩しい。愛しい。
「陽子ちゃん。じゃあ、また明日ね。バイバイ。」保母さんとハイタッチをして、
「バイバーイ。」
「先生、有難うございました。」
「ご苦労様です。お気をつけて。」
先に陽子は車へと走る。そして助手席のドアの前で待っている。
おじいちゃん、おばあちゃんの車では後部座席に乗せられていた陽子だが、本当は助手席に乗りたかったようだ。安全を考えれば後部座席に乗せることは致し方ないが、やはり子供は電車でも何でも「乗り物系」は大概一番前に乗りたがる。陽子はたぶん我慢していたと思う。
「はい、どうぞ。」恵は笑顔でその助手席ドアを開けた。乗り込んだ陽子はダッシュボードに両手をつけて小躍りしている。
「陽ちゃん。座らないとダメよ。」
「はーい。」
「夕飯のおかず、買って帰ろっかぁ。」
「わーい、やったあ!」
帰り道沿いにあるスーパーへ寄り二人で買い物をして帰る。こんな、ごくごく普通の光景が傍から見たら何でもない事なのに、恵も今までの恵であれば傍の側にいたら何でもない、何とも思わない光景なのに、今その当事者となって見える景色が変わった。
このスーパーで買い物をしている全ての、ほぼ全ての人が、これから「我が家」に帰り家族の為に食事を作る。それぞれが、それぞれの「家族」の為に帰って行く。そして、それぞれの「幸せ」がそこにある。そう思うだけで嬉しく思う。普通であることの「幸せ」がそこにある。そんな景色に見えた。
教師という仕事も辞め家族に向き合えるようになったことで恵は「家族の幸せ」という「形」を得ることができた。
長男の勇気は地元の少年野球に入団した。
練習はほぼ毎週の土曜と日曜日。
送り迎えは主人が気を使ってくれ申し出てくれたが、恵は可能な限り自分が行くとそれを断った。それまで任せっきりだった勇気との時間を少しでも取り戻したい、そんな気負いもどこかにあった。まだ小学二年生、充分に取り戻せる、そう思っていた。
少年野球の保護者、別名「育成会」は組織がしっかりしており、役や当番などの割り当ては当然の事、試合での応援や指導者への配慮、懇親会、送迎、弁当など、親も子供と同様に結構しんどい。しかし、「子供達のため」という同じ方向に向かっていく者同士は結束力が強まり、苦労も分かち合える。また、試合での応援にも、より一層力がはいる。チームの子は全て自分の子供のように思えてくる。
子供達は子供達のチームワーク。親達は親達のチームワークが養われる。一石二鳥だった。
これが理想ではあるが、全てがこうなるとは限らない。指導者やコーチに恵まれなかったり、保護者同士の中で「派閥」が出来て陰口を言い合ったり、育成会に非協力的だったり。人が集まれば必ず「問題」は出てくる。
勇気の所属するチームは「リトルリーグ」のように将来プロ野球選手になれるような選手を育成するチームではなく、昔から在る地元の「スポーツ少年団」の野球チーム。レベルよりも「健全」な青少年になるための育成組織という組織である。勿論「勝つ」事にも拘り少しでもレベルアップできるように指導者、コーチは頑張っているが、両者とも基本的に「ボランティア」であり、それは団員の親だったり地元の有志でそれ(指導)を担っている。指導者講習会や野球教室へ出張ってそれなりの努力はしているが、そこはやはり「一般人」であり保護者の一人でもある。負けが続けば、まず良いようには言われない。
勇気が所属するチームの指導者は一生懸命に指導してくださる方だったけれど、チームの成績はそれに値する成績を残せないようだった。指導者は学校でいえば「教師」と同じ。
教師をしていた恵は指導者の心情を思いやり同情した。
田舎で、地元という面もあり、大体が「顔見知り」という事もあって恵はその「育成会」には割りとすんなり溶け込んだ。周りも元教員であった恵を歓迎した。教員を辞めてもみんなからは「めぐみ先生。」と呼ばれていた。
最初は「もう辞めましたからぁ。」と謙遜して言ってはみたけど、それも途中で言う事を辞めた。先生というのは例えば定年退職してもその先ずっと「〇○先生」と周りから呼ばれていく変わった職業である。恵は定年まで働いていないけれど、周りからは「めぐみ先生」という「名前」として周知されている。恵も逆に「原田さん」とか「恵おばさん」と呼ばれると「違和感」を感じる。だからこのまま「めぐみ先生」と呼ばれてもそれはそれでいいのだと納得した。
地元には野球の他にサッカー、バレーボール、剣道などがあったが勇気は野球を選んだ。
特に理由はなく、周りの友達が入ったから。
だから、ほとんど初心者である。主人も野球未経験者であり、よく公園で見かける父子のキャッチボールの風景は原田家には無かった。
「僕は運動音痴だから。」いつだったかそんな事を昭二から聞いたような記憶がある。
そんな主人、昭二が赴任している学校で「教頭」という役職でありながら「バレーボール部」の顧問という役を仰せつかってしまった。
これは辞令なので「運動音痴だから」といって逃げる訳には行かない。そして程なくして
昭二の「部活動顧問」生活が始まった。直接の指導・コーチはもう一人の教員が取り仕切ってくれるが、試合の申し込みや会議、手配などの雑務、そして試合の観戦、応援送迎、保護者への対応など、こちらもほぼ土日の行事である。したがって勇気の野球については完全に恵に「お任せ」の状態となった。
勇気は初心者と言ってもまだ小学二年生。
でも他の子も殆どが「初心者」といっても過言ではない。せいぜい1年早い程度。だから皆ほぼ同じラインからのスタート。
長男だけど、どちらかというと引っ込み思案で兄妹喧嘩をしても妹に負けるような大人しく、か弱い勇気だが、この「野球」に出会って勇気は変わっていった。
人間誰しも一つぐらいは「取り柄」があるというが、勇気は「肩」が異常に強かった。簡単なスポーツテストの中で「ボール投げ」を行なった結果、勇気がなんとダントツの一番。勿論肩だけで投げている訳ではないが、
「地肩」が強くないとボールは遠くへ飛ばない。「これはいい武器ですよぉ。」とコーチが恵に話しかけた。「そうなんですか?」
「何とかものにしたいっすねぇ。」コーチが笑顔で言った。「よろしくお願いします。」
勇気は母がコーチに頭を下げているその様子を遠巻きに見ていた。
(勇気、ボール投げ一番だったよ。)と昭二に恵はメールを直ぐ送った。昭二の学校は試合で携帯を見られないと分かっていたけれど、いち早く知らせたかった。結局返信はなかったけれど、でもそれでも良かった。それで満足だった。