闘い
*闘い
病院に着くと早速、看護士の森本さんが来てくれ、入院する部屋まで案内してくれた。両親は恵の「荷物」をロッカーへ収めて、すぐに入院手続きの書類を書かされていた。しかしそれが終われば、後は両親のやる事は無い。
「完全看護」だから付き添って泊まっていく必要もない。(簡易ベッドは一応あるが。)
書類を受け取った森本さんは、「先生が来るまでしばらくお待ち下さいね。」と言って出て行った。時間を持て余した三人は部屋の中を物色?しながら先生を待った。
そして主治医となる山中先生は約二十分後に部屋に入ってきた。
「お待たせしました。原田さん。しばらくです。」
「お世話になります。」
「よろしくお願いします。」両親が頭を下げた。
「出来る限りの事はさせていただきます。」
先生も頭を下げた。森本さんが続いた。
「今日から早速、検査のほうに入って行きますので、お着替えだけお願いしますね。」
病院レンタルもあったが、持参しても構わないということだったので、恵は自分で用意した「寝巻き」に着替えた。
「では検査前になったら呼びに来ますね。」
と言って森本さんはまた出て行った。付添い用の椅子に腰掛けた両親はこれといってすることがなく、たまに父が立ち上がって窓から外の景色を眺めていた。
「もう帰っていいよ。お母さんたち。」
「まだ、もうちょっといるわ。」
父は黙ってまだ外を見ていた。
「失礼します。原田さん。もうじき検査に行きますよ。」森本さんが入ってきた。
「はい。」
「じゃあ、わしらもそろそろ、あれだな。」
父が母に目線を送りながら言った。
「そうね・・・。」
「では、よろしくお願いします。」両親が森本さんに頭を下げた。
「お気をつけて。」
「じゃあ、頑張ってね。恵。」
「うん。気をつけて帰ってね。」
後ろ髪を引かれる思いで二人は病院を後にした。恵の病院での生活がいよいよ始まった。
再度の精密な検査を受け続け、そして治療方針が先生より告げられた。
「抗がん剤による化学療法と放射線治療の併用」手術に関しては現時点で未定との事。
病期はⅣまできていると告げられた。山中先生の説明は丁寧で分かり易く、また口調も優しかった。看護士の方々も皆、優しかった。
診察室では「聞き分けのいい」患者として落ち着いた応対をしていた恵ではあったが、夜病室で一人になった時には涙をこぼしていた。そしてやがてそれは号泣となり、枕に顔を伏せて声を殺して泣き続けた。
今まで気を張っていたその「糸」がプツリと切れた。
消灯した薄暗い部屋には夜間二時間おきに看護士が見回りに来る。泣き顔を見られたくない恵はその都度、横を向いて「寝たふり」を
していた。看護士は何も言わず、布団をそっと掛けなおし、背中をそっと優しくさすってくれた。
涙だけがこぼれ続けた。夜間担当の看護士は森本さんから引き継いだ、まだ二十代と思われる看護士だった。
次の朝、泣き腫らした顔で検診を受けた。
恥ずかしかった。スッピンであることよりも恥ずかしかった。山中先生は相変わらず穏やかな表情で「お大事にしてください。」と言った。恵はまた流れようとしてくる涙を必死で堪え黙って小さく頷いた。朝ごはんが終わった頃に森本看護士が引き継ぎを終えて部屋に来てくれた。
「原田さん。今日もよろしくね。」至って明るい。森本さんは見た所、自分と同世代のよう。「原田さん。何でも気兼ねしないで言って下さいね。あまり無理しちゃあダメですよ。」
なんか見透かされていそうで恥ずかしかった。
でも、なんかちょっと嬉しかった。
「看護士さん。」
「名前でいいわよ。」
「あ、では森本さん。失礼ですけど私と同世代ぐらいですか?」
「昭和三十八年生まれ兎年よ。」
「えっ、私より一つ下?てっきり年上かと思ってました。」
「ちょっとぉ。それって老けてるって事?」
「いえいえ、しっかりしているってゆうか。」
「こういう仕事してるとこうなっちゃうのよ。」場慣れしているというのか肝が据わっているというのか、物怖じしないところが恵には新鮮に見えた。
「私たち、気が合いそうねぇ。」
「えぇ。」
「ほんと、何でも話してね。溜め込まないでね。」
「主任!」別の看護士が呼びに来た。
「じゃあ、また。お大事にして下さいね。」
「はい。」泣き腫らした瞼が少しだけ引いたような気がした。
病院での一日は、恵にとって「退屈」な一日だった。学校では自分が子供たちの為に色々と動き回っていたのが、ここでは「何もしなくてもいい。」ただ「待つ」だけの生活。診察、食事以外は殆ど「自由時間」。だけど「制限」がある。病院という「箱」の中でしか動けない。(何か出来る事はないかしら・・。)
そして恵は自分なりに「入院生活」を充実させてみよう考えてみた。一晩中泣き続けた事や、森本看護士との出会いで恵は気持ちの切り替えが少し出来たような気がしていた。
「自由時間」を利用して、病院内を歩いてみた。小児科病棟には、何やら「教室」のような部屋を見つけ、近くにいたナースに聞いてみた。
やはり、患者のための「学校」(養護学校)
との事だった。考えてみれば「長期療養患者」の為にあって然るべきなのだが、教員を
業としてきた恵はこういった学校があることを恥ずかしながら初めて知った。
ガラス越しに見える「教室」の中の様子をしばらく覗いてみた。頭に帽子を被っている子が多い。やはり副作用などで「髪の毛」が無いのだろうか。マスクをしている子も目立った。小さいながら「病気」と闘っているこの子供達を目の当たりにして、とても切ない気持ちになった。(私の子供がもし、こんな病気になっていたら・・・)
親として、これ以上悲しい事はない。そこでやっと気づいた。(私の両親が今、その立場なんだ。)私以上に辛い思いをしているのがここに来てやっと分かった。
小児科病棟を後にして、また院内を「散策」をしてみた。そして分かった事。
ここは「病気」を治す所、「入院」する所、「患者と医師、看護士とあと少数の一般人」しかいない所。そういう場所だという事。
また、行ける場所としては「広いロビー」「小さめの図書コーナー」「自販機」「売店」ぐらいであるという事も「分かった事。」
食堂は病院関係者と患者の付き添い、又は見舞いの方が「出入り」する所、「喫茶店」も患者が安易に出入りできない「場所」だと恵は認識した。
その夜、夜間の看護士に引き継ぎを終えた森本さんが帰り際恵の部屋に立ち寄ってくれた。恵は今日見てきた事をざっくりと話した。
考えてみると今日は「人」と会話していない事に気づいた。だから話し相手、話す相手を無意識に探していたのかも知れない。森本さんはそんな「気持ち」を汲んでくれたのか終始「聞き役」に徹してくれた。
「原田さんはお仕事が学校の先生なのよね。」
「えぇ。」
「小児科のその教室、興味があればいつ行ってもいいわよ。先方には私が話しといてあげるから。」
「行ってもいいかしら?」
「勿論、歓迎してくれると思うわ。」
「ずっと寝ていてもあれだしね。」森本さんの言う、あれとは「暇」だという意味であることを恵は察した。
その夜から恵は日頃の日課であった日報(日記)を復活させた。
家から病院が遠い事もあって、なかなか頻繁には家族が来られないが、それでも両親は足繁く病院へ通ってくれた。今は「携帯電話・メール」といった便利な「文明の利器」があるから夫や子供達とはそれで交信が出来る。
それでも今や「不要」とも言われる「公衆電話」は各フロアーにまだ設置されている。この「公衆電話」が必要な方もまだまだいるのだと、そして自分の両親もこれに該当するのだと改めて思い知った。
恵の「日記」もパソコンや携帯ブログで作成するのではなく、「手書き」で作成していた。
これはやはり「先生」とは文字を「打つ」のではなく、「書く」事が大事だと思って続けている事。だから大学ノートとボールペンをベッド横の戸棚に常備して、いつでも「書ける」ようにしておいた。戸棚に収納されているテレビは有料カードにて視聴できるが、あまり見ないようにしていた。というよりも見ないようになってしまった。特にワイドショーの内容には「患者」の立場からして「何の意味もない。」内容にしか感じなかったから。バラエティ番組を見ても心底笑うことが出来なくなっていた。天気予報を見ても外に出ない者には全く意味はなし。暇つぶしで見るにはお金が勿体無い。そうしているうちにだんだんどうでもよくなってきた。その代わりに売店で新聞、そして「図書コーナー」で借りた本をベッドやロビーなどで読むようになった。
ずっと「文字」には関わっていたかった。
「学校の先生」というプライドが恵にはまだ残っていた。今は「休職中」だけど病が治って「復職」した時に備えて「文字離れ」だけはしないようにという思いがあった。
病室に訪れるのは「家族限定」にしていた。
身内にも友人にも極力内緒にして入院していた。みんなが知らないうちに病気を克服し、
知らないうちに復職する。そうしたかった。
しかし、「火のない所に煙はたたない。」
どこからともなく、少しずつ「噂」は広まっていった。恵はまだその事に気づいてはいなかった。
自宅では、ごくごく普通の生活が繰り返されていた。元々子供の世話(ご飯、洗濯など)は母と父がやってくれていたので恵は教員という仕事に打ち込めていた。取り立てて「不憫」ではないことが、不幸中の幸いだった。
病院では、いよいよ治療に取り掛かることになった。主治医の山中先生より治療方針の説明を受けた。抗がん剤による化学療法と放射線による治療の併用との事。抗がん剤は三週間を「ワンクール」として全部で十二クール。その間に様子を見ながら放射線治療を試みる。単純計算で約九ヶ月の期間を要する。これにはさすがの恵も「うわぁ・・。」と声を漏らしてしまった。「そうでしょうなぁ。」先生が同情してくれた。傍にいた森本看護士が恵の肩に手をかけて「一緒に乗り越えましょ。」と優しく微笑んだ。
この日の日報(日記)。
「○月○日。今日、先生より治療方針の説明を受けた。切除してすぐ終わり、なんて簡単な物じゃなかった。考えが甘かった。ただ先生の言うとおりにするしか方法がない。セカンドオピニオンはしない。私は山中先生に全てを委ねます。そして必ず治って帰ります。それまで父さん母さん、家の事お願いします。
帰ったら、ちゃんと親孝行しますからね。」
そして翌日から抗がん剤による治療が始まった。副作用についての説明はあったが、個人差があってこればかりはなんとも言えないらしい。「結果次第。」これが答え。
それから一週間の間、恵は日記を書かなかった。正確に言えば「書く気力」が出なかった。
副作用は相当なものだった。激しい頭痛と吐き気がずーっと続く。夜も昼も関係なく。吐き気がしては容器に吐き、胃の中の全てのものを吐ききった後は胃液までも吐こうとする。
全てを吐いてしまうこの作用。これが抗がん剤の力。「良薬、口に苦し」と言うが「良薬、副作用強し。」なのだろうか?そう思うしか救われないこの辛さ。最初は泣いていた恵だが、いつしか涙も枯れ果てていってしまった。
そして泣く「気力」さえも無くなっていった。
病院での「地獄」が始まっていた。治療を始めて一週間で恵は体重が4kgも落ちた。
抗がん剤は恵の「体力」「気力」を奪い続け引き換えに「苦痛」のみを与え続けた。
副作用が少し治まった頃、日記を再開した。
「○月○日、抗がん剤の副作用により体重減。でもこんなダイエットはやりたくない。食べたくても体が受け付けない。副作用が強いということは、それだけ強い力があるから癌にも効果がある、そう思って耐えるしかない。
他の癌患者も皆そうだよね。小さい子でも頑張っている子、いるんだもんね。」
毎日が「苦痛」の繰り返し。病院がだんだん「牢獄」のように思えてきた。「水責め」ならぬ「薬責め」をされている気分だった。
ただ、先生と看護士は「敵」ではなく「味方」であり「同士」。敵はあくまでも「癌細胞」だ。薬は恵の中に潜む「敵」をやっつけるために攻撃してくれているのだ。恵も自分の持つ「免疫力」で攻撃するしかない。早くこの「牢獄」から抜け出すために。
そして、待ちに待ったワンクールが終わった。
しかし、まだやっとワンクール。気が遠くなるような話だ。恵は大きく溜息をついた。
両親は治療中何度も見舞いに来たが、日に日に痩せていく娘をただ見守るしか手立てがなかった。親にとっても「生き地獄」だった。
居てもたっても居られず、先生に噛み付いたこともあった。
「恵が苦しんでいます。もう少し何とかならないのでしょうか。先生、どうかお願いします。」母、美千子が涙ながらに訴えた。
「お気持ちはよく分かります。娘さんも必死で闘っておられますので、見守ってあげて下さい。」先生は冷静に応対した。
「見守るって言ったって・・・」
「そうです。見守るしかないのです。これからまだ先は長いのです。気をしっかり持って娘さんの支えになってあげて下さい。」
子供が苦しんでいるのに、親として何もしてやれないやりきれなさ、もどかしさ。
「代われるものなら変わってあげたい。」
美千子は呟いた。
「先生、どうぞよろしくお願いします。」
父の康雄は努めて取り乱すことなく頭を下げ、うな垂れた美千子の両肩を抱えて部屋を後にした。
「あなたはどうなのよ!あんなに恵が苦しい思いしているのに!」
廊下で美千子は怒りを康雄にぶつけた。
「・・悔しいよ。」
「えっ?」
「悔しいに決まってるだろ!」
そう吐き捨てて康雄は涙を堪えた。
「わしらは先生に頼るしかないんや。それしかないんや。」
「わしらが恵の前で泣いたらあかん。絶対泣いたらあかんぞ。」
美千子は黙って静かに頷いた。
恵の前では絶対泣き顔を見せないと決意した二人は、それからは努めて明るく恵に接した。
その甲斐あってかどうかは分からないが、恵の体調は少しずつ回復していった。
そして体力が付いたところで第2クールを迎えようとしていた頃、少々であれば「好きな食べ物」を食べてもいいと先生から聞いたので、食欲がある時は恵の大好物である、
「鰻の蒲焼」を康雄は買ってきてはそれを食べさせた。
国産は値段が少々高いが、親にとっては「お安い御用。」である。
苦しい闘病生活の中で恵の唯一の楽しみ、ご褒美がこの「鰻を食べる事」になりつつあった。
「お父さん、昔は川で鰻を捕ってたよね。あれは本当に美味かったわぁ。」
「正真正銘の天然はやっぱり味が違うでよ。」
「だよねぇ。」
「鮎も美味かったわ。串に刺して塩焼きにしてさ。」
「鮎、食べたいか?」
「うん。」
「よし。今度持って来るでな。」
康雄はもう「鰻捕り」や「鮎の友釣り」をしてはいなかった。でも、恵が「食べたい」物はどんな事をしてでも調達したかった。それが恵にとっての唯一の「楽しみ」だから。
どこかお店で買って調達すればいいのだが、康雄はそれをしなかった。それでは恵に「嘘」をついているようで納得がいかない。あの慣れ親しんだ川で、もう一度「鰻」と「鮎」を捕って「蒲焼」と「塩焼き」を恵に食べてもらいたい。昔と違って今はそれが容易な事ではなくなってきているが、康雄はそうしたかった。
恵のために「何か」をする事で康雄は気を紛らわす事ができた。
そうして来る日も来る日も康雄は「川」へ出掛けるようになった。その日の釣果は慣れない携帯の「メール機能」を使い送信するようにした。携帯電話の機能には疎いが、恵とやりとりする(繋がる)唯一の手段としてこの「メール機能」だけはモノにした。また「絵文字」も少し習得した。
そして毎日毎日雨が降っても、カンカン照りの日も朝から「川」へ行った。
それは差し詰め小説「老人と海」の「川」編「老人と川」のようだった。
毎日送られてくる父からの「メール」に恵はだんだんそう感じて、思わず笑ってしまった。
当の本人(康雄)はそんな事露程も知らず、一心不乱になって「鰻」と「鮎」を追いかけているのに、だ。康雄は変な「生きがい」を知らず知らずのうちに見つけてしまった。
一方、母の美千子は孫二人の世話、面倒を見る事が次第に「生きがい」となっていった。
長男「勇気」5歳。長女「陽子」まだ3歳。
やがて病院の外では「秋」の面持ちとなり、
康雄の「生きがい」は季節と共に終了した。
結局、総合釣果は鰻が二匹、鮎は十匹という結果に終わった。それは全て恵の胃袋に納まった。
秋になれば鮎は「落ち鮎」鰻は海へと下っていく。川の中の世界では「次の世代」に向けて親達が自分の命と引き換えに子孫を残そうとしている。
康雄も気持ちは一緒である。しかし、親が命を差し出しても報われることはない。「医療」という力でしか助けることが出来ない。康雄はやるせない気持ちで一杯だった。そんな気持ちを紛らわせるため、次第に康雄は「酒」に頼るようになってしまった。駄目な事だと、知っていながら。
男は結構「女々しい」生き物なのです。
一方、もう一人の「男」である亭主の昭二は教師の仕事を淡々とこなしながら週に2度の割合で病院へ見舞いに行っていた。
「婿養子」の身分である為、なかなか家での「居場所」が見つからず病院では消灯ギリギリまで恵の病室に居続けた。
一般的には家庭に「仕事」を持ち込まないのが良しとされるが、昭二の場合は他にこれといった趣味もなく会話はどうしても「学校」での出来事となってしまう。同じ教員である恵にとっては、分かり過ぎる内容だから別に構わないだろうけど、職場復帰を願う恵にとっては教職である夫を時に「羨ましく」もあり「恨めしく」もある。
最初は「うん、うん。」と聞いていたけれど、
段々笑顔は無くなり、そのうち相槌も打たなくなっていった。そうして次第に「夫婦」の会話は減っていった。お互い気まずい関係となってしまった。
昭二は家に帰っても子供達がすっかり美千子に懐いているのであまり相手にされず、康雄ほど「酒」を飲まないのでその相手になることも出来ない。義理の父なので気も使う。
義理母と義理父と婿。実に難しい関係。
昭二は次第に自室でパソコン相手に過ごす時間が増えていった。
発泡酒缶を片手にインターネット。
これが昭二の唯一の楽しみ(ストレス解消)となった。ストレス解消ならば、例えばギャンブル、風俗、スポーツ。色々ある。しかし
前者2つは「教職」という仕事をしている以上なかなか出来ないし、やったこともない。真面目に勉強をし「教育学部」卒の昭二にとっては「別世界」の話。興味はあるけれど、もし生徒や保護者、PTA関係者などに目撃でもされたら、と考えるとどうしても出来ない。「文系」の昭二にはスポーツも無理、むしろストレスが溜まってしまうかもしれない。他にも「趣味」を探せばそれは星の数ほどあるけど、全ては「妻が闘病中なのに、そんな事をしていていいのか?」という結果に至ってしまう。世間体もある。近所の目もある。そうして削っていくと結局「家の中」で「誰にも見られず。」「誰にも咎められず。」に行き着く。それがパソコンである。
「オタク」「ヒキコモリ」「インドア」
何と言われてもいい。これが昭二のストレス解消法。
恵のいない「原田家」は段々それぞれが好き勝手に生きようとしていた。みんながそれぞれストレスを抱えていた。歯車は一旦狂いだすとなかなか元には戻らない。そんな状況の中で恵は新たなストレスの「種」に悩まされた。
先生からの「予告」もあり、「覚悟」もそれなりにしていたけれど、出来ればやはり避けたかった。女性にとっては大事な事。
それは「髪の毛。」
治療の副作用で抜け始めた。抜ける量は半端ない。洗面台の排水溝、浴室の排水溝が髪の毛で詰まる日が続いた。日に日に薄くなっていく「頭」を自分で見るのも人に見られるのも嫌になった。だから、夫の昭二にもメールで伝えた。
「気持ちの整理がつくまで、病室には来ないで。」
毛が抜け続ける毎日を恵は泣きながら過ごした。瞼を腫らし赤い目をして化粧もしない。とても人に見せられる状態ではなかった。それでも同年代の看護士、森本さんはそんな恵に優しく接してくれた。
「今はねぇ、おしゃれなカツラもあるのよ。」
こういう患者さん用の物が今はあるのだ。
「元に戻るまでの辛抱だから、ね。」
「この際だから色々と試しちゃえば。」
そうなんだ。一生「坊主頭」ではなく、今だけなんだ。そう思うと気が少し楽になった。
「カタログみたいな物ってあるの?」
恵は、ほんの少しだけ「元気」を取り戻した。
やがて「秋」は終わりを告げ病院の外はすっかり冬の装いとなっていた。師走に突入だ。
そしてクリスマスが近い頃、病状も落ち着いてきて、恵はやっと夫と子供を病室に招きいれた。長男の勇気と長女の陽子は二人とも同じ保育園。まだ、子供達にはお母さんの病気の意味を知る由もない。子供達にとって病院は「退屈なところ。」それに最近は専ら母の美千子が面倒を見ているのもあって、すっかり「おばあちゃん子」になってしまい、こうやって久しぶりに恵に会えても、妙によそよそしい態度が見て取れた。恵は母に感謝をしながらも「哀しさ」そして「虚しさ」を感じた。
「はい。これ」と勇気が両手で差し出したのは小さなショートケーキ。保育園でクリスマス会があり、そこで貰ってきた物をそのまま持ってきたのだ。その箱の中には
「おかあさん、はやく、よくなってね。」
と書かれた手紙も入っていた。みんなが帰った夜遅くに恵はそれを泣きながら、一口一口、ゆっくりと食べた。手紙はベッドの枕元のあるポールに貼り付けた。
クリスマスの夜。ひとり窓の外を眺め、
「今年もあと、一週間かぁ。」と小さく呟いた。
師走やら、年の瀬やら、世間ではバタバタしているようだが、ここ病院は「毎日が同じ。」
しかし、病院には「盆休み」や「正月休み」はない。先生や看護士さんには、本当に頭が下がる。それでも、やはり年の瀬は病院内も少し雰囲気が違う。外泊していく患者が多い。
それにより病院内が少しいつもより「静か」になる。
かくいう恵にも、その「外泊許可」が下りた。
「お大事になさってね。良いお年を。」
看護士に見送られ、恵は「年越し」のために
実家へと帰って行った。
久々に帰った実家は今までにない「温もり」を感じた。
「マイ・スイートホームだわ・・」
体力も体重も落ち、髪の毛も抜け落ち、すっかり「患者」の様相となってしまった恵だが、
家族全員で迎えられる新年を心から喜んだ。
それは親にとっても主人にとっても子供にとっても同じだった。「ごめんね、みんな。」
みんなで観る「紅白。」
みんなで聞く「除夜の鐘。」
みんなで行く「初詣。」
みんなで食べる「おせち料理。」
みんなで。みんなで。がいい。
そう、「みんな。」で居る事の「幸せ」
かつては「日常」であった「家族」という「みんな」の時間。
それが今では「貴重」な時間となってしまった。それを実感した「年越し外泊」だった。
そして「箱根駅伝」を見終わった一月三日の夜に恵は病院へ戻った。そして「治療」という病院での「日常」がまた始まった。
ワンクール三週間、そしてまたワンクール。
これの繰り返し。病魔、そして副作用との闘い。これが恵の「日常」
普通の人にとってはこれが「非日常」である。
恐ろしい毎日。
苦痛な毎日。
憂鬱な毎日。
おぞましい毎日。
面白くない毎日。
無情な毎日。
そして、でも、
負けたくない毎日。
毎日頑張って記している日記帳の内容は、
だんだん「闘病記」になっていった。
ワンクール、そして休養。そしてまたワンクール、休養・・・そしてまた・・・
病魔も治療薬も恵の体の中で闘い続け、その代償は全て恵の体が負担していた。
身も心もボロボロになろうとしていた。
でも、これで病気が治るのなら。それだけが
副作用に耐えられる唯一の支えだった。
ワンクール、休養そしてまたワンクール・・
そして、やっと「終了!」
「よく頑張りましたね。」
先生からの労いのお言葉。
「気力」そして「家族」の支えが、この「病魔」を退治したのだ。と日記に記した。
季節は春夏を通り越し、もう秋になろうとしていた。治療の成果は確実に出た。
病巣は、ほぼ無くなっていた。しかし安心は出来ず、再発に注意して今後も定期検診を受けるようにして下さいとの説明を受け、いよいよ正式に「退院」の許可が下りた。
天にも昇る気持ちだった。
振り返れば長い道のりだったけれど、「結果」が良ければ全て良し。
髪の毛もほぼ元通りになった。カツラにはお世話になりました。これを紹介してくれた看護士の森本さんにも色々と支えてもらい感謝の気持ちでいっぱいだった。
「お大事にしてくださいね。」
森本さんにとって恵はただの患者の一人に過ぎない。でも恵にとっては心を許せた唯一の看護士さんである。そんな思いもあって
思わず涙がこぼれた。
「お世話になりました。」
「元気でね。お大事に。」
二度とここでお世話になりたくはないが、
先生や看護士さん方には本当に頭が下がる思いでいっぱいだった。先生や看護士に深々と頭を下げて恵は約一年間に渡る闘病生活を送った病院を後にした。