二十二歳
*二十二歳
ケイコはその頃違う場所で酒を飲んでいた。
都会の、ちょっとお洒落なバー「F」で。
相手は誰もいない。ひとり酒。
『マスター、おかわり。』
『お客様、飲みすぎですよ。』
『大丈夫、大丈夫。もう一杯だけ。』
テレビのドラマでよくある光景のようだった。
シチュエーションもそれと同じ。
ケイコは苦悩していた。
ケイコは高校を卒業後、銀行に就職した。だからめぐみがやっと社会人になったのに対し、ケイコは既に四年間を社会人として生活してきた。ケイコは大学に行けたのに行かなかった。正確に言えば行けなかった。それは経済的に苦しかったから。だからケイコは就職を選択した。
家では自分を抑え家族の事を考える子だった。就職するにあたりケイコは銀行を選択した。地元では一番大手の銀行だった。理由は幾つかあった。
まずは銀行というのは潰れない事。今の時代では破綻、吸収合併、買収など一般企業と変わらなくなってしまっているようだが、この頃は銀行が倒産するなどという話は聞いた事がない。
第二に家から車で通える範囲にあるという事。母親が病弱なので母を支えてあげたいという気持ちがケイコにはあった。
第三にやりがいのある仕事だと思った事。
女性でも頑張れば昇給や昇進があると思っていた。『安定感』のある公務員を選択しなかったのはそれが理由だった。めぐみは大学まで行き、そして教員という『公務員』になったけど、それはそれでめぐみにとっては良い選択であり、ケイコはそんな『公務員』になっためぐみを羨ましいとも思った。でも自分は苦労して学校へ行かせてくれた両親のために早く就職してお金を稼ぎたい、そして家計を助けるのが役目だと。そう思っていた。
そうするのが当たり前だと自分に言い聞かせて自分の気持ちを抑えた。
でも、本当はケイコにも夢があった。色々と。小さい時はアイドル、高校の時はモデル、デザイナー。または大学へ行き『花の女子大生』たる生活をしてみたいというのも本当はあった。自分がもっと裕福な環境で育っていたら全てが選択肢としてあげられ、そしてそれが実現出来たかもしれないと思う時も確かにあったけれど、思っても仕方がない。
今ある環境の中で精一杯の事をやるだけ。
逆境をバネにするのだ。ケイコはその一心で生きてきた。小さい頃から親の苦労は見てきた。父の仕事がうまく軌道に乗っていない事も子供心に分かっていた。だから中学の時に制服を盗まれても父には隠し通した。そんな気の強さと優しさは、いわば環境が作り出したものなのかも知れない。
ケイコは不倫をしていた。
不倫相手は会社の上司だった。相手はケイコより十歳年上の三十二歳、二十八歳で結婚をし、二歳の子供もいた。ケイコと知り合ったのは二年前のこと。ケイコが二十歳そして彼が三十歳。会社対抗の球技大会で一気に仲良くなってしまった。ケイコが学生時代の部活動でやっていたソフトボールで一緒のチームにその「彼」はいた。
「うまいね。君、経験者でしょ。」
(一応エースで4番でしたけど。)とは言えず
「えぇ、少しだけかじってましたぁ。」と謙遜して言ってみた。
「そんなことないって。形が出来てんじゃん。
カッコいいよ。」
「そぅですかぁ?」
「俺、西田っていうけど。君は?」
「私、神田、神田恵子と申します。」
彼、西田は学生時代バレーボールをやっていたとのことだった。だから背高も180㎝近くあり、なかなかの好青年に見えた。勤務は違う支店だったが、たまにケイコの支店にも顔を出していたので初対面ではなかった。
当時は彼が結婚している事を知らなかった。
西田はちょうどその頃、妻が妊娠をしており
実家に里帰りしている頃だった。
「かっとばせー、ケ・イ・コ!」西田が応援をする。
ケイコは4打数3安打の猛打賞だった。
「俺、ソフトボールのような小さいボールはダメやわぁ、ケイコちゃんはうまいなぁ。」
西田は当たればとんでもなく飛ぶが、大振りなので三振かホームランの両極端。でも楽しそうにしているその横顔をケイコはさりげなく見ていた。試合はケイコ、西田がいるチームが優勝した。勿論、最優秀選手、MVPはケイコが頂いた。
慰労会と祝勝会を兼ねた宴会はその晩に居酒屋にて行われた。ケイコと西田はそこでの盛り上がりに同調するように互いへの気持ちも盛り上がっていった。妻が里帰り中の西田には夜の「時間」がたっぷりとあった。
「二次会、行かない?二人で。」隣に座るケイコの耳にそう囁いた。周りの騒音で他の者には聞こえていない。酔いもあった。口では返事をせず、小さく頷いた。一次会が終わって
西田は酔ったケイコを送っていく、とみんなに言い、「送り狼になんなよ。」と同僚に冷やかされながら二人でタクシーに乗った。
「お洒落なショットバーがあるから、そこへ行こうか。」ケイコはまた静かに頷いた。
二人でそのバー「F」へ着いたのは午後⒒時
を軽く過ぎていた。今日は土曜日。明日は仕事が休みだからトコトン飲めるね、と西田は上機嫌だった。二人で乾杯をし直し、グラスを重ねていくうちに二人の距離もまた近くなっていった。ケイコも勿論、上機嫌だった。
午前二時を過ぎた頃、「お客様、そろそろお時間となりますので。」とマスターに言われるまで二人は盛り上がっていた。幸せな時間はあっという間に過ぎるもの・・・
「ここは、僕が出すから」と西田は会計を済ませ、二人でタクシーを待った。
(もしかして・・)と不安とも期待とも分からない感情がケイコの頭をよぎったが、タクシーは着々とケイコの家へと向かい、近くで停車した。「今日は楽しかったね。また会ってくれるかな。」
「はい。」とケイコは言葉にして西田に伝えた
「じゃあ、また。」と言って西田はケイコの手を握った」温かい、そして大きな手。部屋に戻ってもしばらくは眠れなかった。東の空はもう白々しくなりかけていた。
西田とケイコはこれを境に仲良くなっていく。
ケイコの支店に来ればさりげなく手を振り、そしてケイコもさりげに手を振り返す。
社内恋愛は基本御法度なので「さりげなく」「わからないように」が鉄則なのだ。だから同僚にも内緒にしている。相談も出来ない。でもケイコはそれでも結構だと思っていた。相談する事など何もなかったから。
それに密かな「恋愛」そのほうが燃えるようなそして刺激的な気がした。
ケイコにとって「密かな恋愛」とは実に心地の良い響きだった。
「人の道から外れる」「規則を守らない」
そんなことしないと分かっていても、人は時にそちら側へ走ってしまうこともある。それが「恋」だったり「愛」のために。
ロミオとジュリエットもいわば「禁断の恋」人にとってこんな「刺激的」なものはない。
真面目に生きてきて、そしてこれまで「燃えるような恋」などしたことがないケイコは、二十歳にしてようやく「恋」に落ちた。
西田は十歳年上で体も大柄、共に体育会系で
話していても楽しい。他愛のないことでも、
彼といると楽しい。ケイコは西田にどこか「父親」をダブらせていた。父親のように自分を包み込んでくれる、そんな父のような人をどこかで求めていた。そこに西田がピッタリと当てはまった。
次第に週末の夜が待ち遠しくなっていった。ケイコと西田が結ばれたのは付き合いだしてから約1ヵ月後の事、それからはちょくちょく会い、郊外のホテルで二人は体を重ねあった。こうしてケイコは西田の「女」となっていった。でも、西田にとっては「女」に付け足す言葉があった。「都合のいい女。」
「恋」と「愛」は似て非なるもの。「恋」は好きになった最初の頃のウキウキした状態。だから「恋」に落ちたり、「恋」に溺れたり、なんて言葉が存在する。「恋」する女は綺麗になるって言うのは感情がウキウキワクワクしてホルモン分泌が活発になり、よってより女性らしくなるようだ。まさに「恋」の成せる技。最高の化粧品。
「愛」はその先にあるもっと深い感情も込めている。だから「愛」に落ちたり、溺れたり、なんて言葉はあまり聞かない。ただ、両者(恋、愛)に言えることは、どちらも何時か消えて無くなるものだということ。
中には消えないでいる方もいるだろうけど。
「愛」と「愛情」にこの方式を当てはめれば、最後に残るのは「情」ということになる。これは共に長いお付き合いをした者同士にしか残らないもの。でもこの「情」さえも消えてしまえば即ち、それが「人」と「人」の別れになるだろう。弱冠ハタチのケイコはまだ、やっと「恋」に落ちたばかり、「恋」は盲目。
ケイコの視線の先には西田しかいなかった。
「交際」はその後も順調に進んでいった。
春の球技大会から半年後に会社の慰安旅行が
あった。行き先は温泉が有名な和風旅館。
バスこそ違っていたが、ケイコも西田も勿論同じ宿での「お泊り」である。二人はウキウキだった。夜になれば「お決まり」である宴会が始まり、ケイコは何食わぬ顔で普通の同僚と同じように西田にもお酌をしていた。旅行に行く前に二人で示し合わせた。
「宴会が終わってから二人だけになろうぜ。」
西田の部屋の同僚は案の定、二次会に繰り出して行った。二次会といっても場所は「ストリップ劇場」ご丁寧に玄関横付けで「送迎バス」が来ている。愛想のいい運転手兼客引きは旅館サイドとも顔なじみのようだ。
お互い、持ちつ持たれつの関係なのだろう。
西田の同僚達は上司に連れられて浴衣姿のまま乗り込んでいった。去年は西田もその仲間であったが、今年は酔っぱらったフリをしてそれを断った。「ストリップ」に行けば最低でも二時間は帰ってはこない。
見計らって西田はケイコを部屋に連れ込んだ。
「いいの?」
「大丈夫だって。」
「見つかるとヤバいでしょ。」
「いいって、いいって。スリルあるじゃん。」
ほどよく酔っている二人は、「二時間」という時間制限のなかで何度も抱き合った。
「浴衣姿。色っぽいよなぁ、興奮するよ。」
「やだ、恥ずかしい。」普段はボーイッシュなケイコでも、ここでは猫なで声をあげる可愛らしい「女」となっていた。
「西田さん。私、私の事・・・」
「好きだよ。」
西田が察して言った。
「私もよ。」
ケイコはそれ以上、何も言えなかった。
「好きだわ。」とか、ましてや「愛しているわ。」なんて言葉を発したことが今までに一度となく、とてつもなく恥ずかしかったから。ドラマや映画では「セリフ」として言っているから俳優さん方も面と向かって言えるけれど、私生活ではそんな事絶対言えないわ、とケイコは思っていた。
慰安旅行が終わり、週明けに出社したら同期の同僚である溝口良子が声をかけてきた。
「ねぇケイコ、昼休みちょっと時間ある?」
「いいけど、何?良子」
二人は同期で割と気も会うほうなのでお互いを名前で呼び合う仲だった。
二人は昼食を兼ねて会社の休憩室へ行った。
ケイコは自分で作った弁当、良子は今だ母に作ってもらっているという弁当を広げ食べだした。
「ケイコさぁ、最近あっちのほうはどう?」
「あっち?って何よ?」
良子は親指を立てて
「これよ、これ」
「どうして?」
「彼氏いる?」
「いないわよ、そんなの。」
「本当に?本当に?私にだけは本当の事言ってよね。」
良子は社会人になってから初めて出来た気の置けない友人。正直、西田との件をこのまま隠し続けていくのもしんどいなと思いかけていた頃だった。
「誰にも言わないって約束できる?」
「やっぱり!」
すかさず良子は確信したように言った。
「まだ何も話してないけど、何?」
「あんた、もしかして同じ会社の人と何かあったでしょ。」
「えっ?うん。まぁ。でもどうして?」
「ちょっと噂になっているのを聞いていたからさぁ。」
「何?ちょっとって、どういう話なの?」
「この前の慰安旅行でケイコが男の部屋から出てくる所を偶然見たって話。ねぇホントなの?」
ケイコは迷ったが、それは本当の事。観念してそれまでのいきさつも含めて良子に全て話した。
「社内ってのはまずいわよねぇ。とりあえず当面は隠し続けるしかないかな。で、どうしたいのよ、ケイコはその人と。」
「よくわかんないけど、でも・・そのぉ、好きになっちゃったから。」
「結婚退職だったら社内規則にも触れないし、そうしちゃえば。」
まだ、結婚というには早いかもしれないけれど、それもアリかな。とケイコは一瞬思ったが、良子には「まだ、早いわよぅ。」とだけ答えておいた。
「で、ケイコはその西田って人の事、どこまで知っているの?」と言ったあと、直ぐに
「あ、ちょっと待って。西田さんて、最近よくうちの支店に顔を見せる隣の支店の人?」
「ええ、そうだけど。」
「ちょっと時間くれる?あの支店に後輩がいるから探ってみるわ。」
「探ってみるわって・・」
「ちょっとね。」良子は眉をちょっと寄せて芳しくない顔をして言った。何か思い当たる節があるようにケイコには見えた。
「それまで、ちょっと大人しくしてて。」
一応、小さく頷いたが、でもそんな事急に言われてもケイコは西田に会いたくて会いたくて仕方がない。毎週の週末夜は彼と過ごすのが当たり前となっている。このルーティーンだけは誰にも譲れない。そしてその週の週末も夜は彼と体を重ねた。
いつものホテルのベッドで。
「ふーっ」ことが終わったあと、ベッドの上で煙草に火をつけ深呼吸するように息をはいた。
「良かった?」
「ええ。」
ケイコは西田の胸に顔をうずめた。そしていつもの待ち遠しい「週末」はあっという間に過ぎていった。
週明けの月曜日。朝礼が終わって直ぐに良子がケイコのもとにやって来た。
「ケイコ、今日仕事終わってから時間ある?」
「今日ならいいわよ。」
「なにか、あったの?」
「夜、話すわ。」
良子は耳打ちして持ち場へと急いで行った。
特に気にすることも無くケイコは一日の仕事を終えて、良子と近くの居酒屋に入った。
喫茶店のような場所だと会話が漏れてしまいそうだったので少しぐらい騒がしい居酒屋を良子は選んだ。
「なんか飲もう。やっぱり、とりあえずビールにしとく?」
「とりあえず生二つと枝豆と、あと串と。」
良子が少しテンションをあげて店員に頼んでいた。
「さあて、何から話そうかねぇ・・」
「なによ。その意味深な言い方。」
「まずはビールが来てからにしましょ。」
「別にいいけど。」
先にビールと枝豆が来た。
「では、お疲れさ~ん。」
乾杯!は、しなかった。
「結婚してるわよ、彼。」
「えっ?今、なんて言った?」
聞き取れていたけれど理解が出来てなかった。
「だからぁ、あの西田って人は二年前に結婚しているのよ。相手はかつての同僚らしいわよ。」
この頃、テレビのドラマでは「不倫」を取り上げたドラマが流行っていた。
当然世間も「不倫ブーム」がトレンド化されていった。
そこそこ皆が平和で何不自由なく生活出来ることを、ある人々は「平凡」と捉え、そこに「不倫」という「刺激」を求める人々。ドラマに感化され次々と主人公になっていく人々。「不倫」そのものに憧れ、相手を略奪した時点で「不倫」という「刺激」がなくなり別れていく人々。
何ともおめでたい国、ニッポン。そんな皆が浮かれていた時代の真っ只中をケイコ達は生きていた。
「ケイコと付き合えるようになったのは、彼の奥さんが妊娠して実家に帰っているからなのよ。」
ケイコは自分がまさか「不倫」というそのドラマの中にいるとは思ってもみなかった。自分が騙されているなんて。
「もうすぐ帰ってくるみたいよ。」
「赤ちゃん、生まれたの?」
感情を抑えてケイコは静かに口を開いた。
「うん、そうみたい。それがいつになるのかは分かんないけど、でもそれよりこれからどうするのよ?」
ケイコはずっと黙ったまま下を向いていた。
そして涙がこぼれた。
「悔しい・・」
人前では殆ど泣いた事が無いケイコが良子の前で「悔し涙」を流した。
「だよねぇ・・。」
良子はそれ以外、暫く声を掛けられなかった。
「なんか私に出来ることある?」
「自分で何とかする、自分で。」
「私も悔しいわよ。そういうのって絶対許せないもん。」
「ありがと。良子」
西田は誰にでも声を掛ける「軟派」な人で有名だということを良子は聞いていたが、それは最後までケイコには言わなかった。
あくる日ケイコは、いかにも一晩中泣きました的な顔をして出社してきたが良子には笑顔を見せた。作り笑顔だと分かっていたけど。
やはりそれから西田からの連絡が極端に少なくなっていった。妻と子供が帰ってくればそれは当たり前の事。
でもケイコの気持ちはまだ収まらなかった。
「不倫」の事実を知ってから2ヶ月が過ぎた頃、西田と会ったケイコは遂に口を開いた。
「全部聞きました・・・」
「あぁ、そう。」
「全部」の意味、内容を西田は悟っていたようだ。
ついにバレましたか。という表情だった。
「でも、ケイコの事は好きだからさぁ、これからも・・・」
急に軽い男に見えてきた。
「じゃあ、別れてよ。奥さんとさぁ!」
昼間の喫茶店で他の客にも聞こえるような大きな声でケイコが叫んだ。
「それはゴメン、出来ないんだ。」
「どうして?どうしてよ!」
不倫ドラマによくあるシーンだ。
「ゴメン、としか言えないよ。とにかくゴメン」私はこんな男に惚れてしまったのか。
情けない思いと怒りがこみ上げてきた。
そして目の前にあるグラスの水を西田の顔に思い切りかけて、という気持ちを抑え(それをしたら余計自分が惨めになる)
「じゃあ、さよなら。」
とだけ言い、静かに席を立った。ドラマではその後追っかけてくる場合も多いが、西田はその場を動かなかった。
「やれやれ」と独り言をいって煙草をふかした。
彼はまた次のドラマの共演者となる女を探すだろう。
ただ、ケイコにとっては性格上周りに強がっていても「初めての恋」が「不倫」では傷が大き過ぎた。傷口も深すぎた。そしてケイコはその代償を求めるように無言電話を何度もかけるようになった。「嫌がらせ」と相手に分かってもいい、むしろ分かって貰いたい。いつまで引きずっているの?と言われようとも、惨めになるでしょ?と言われようとも構わない。とことん嫌な女になってやる、そう思いながら無言電話を続けた。
西田の家の周りもウロウロした。子供を抱いた奥さんを庭先で見つけた。いっそ声を掛けて「不倫相手です。」と名乗りをあげようとも思った。
でも、最後の最後で踏みとどまった。
「こんなことしていてどうなる?」
自分の中の「理性」がギリギリのところでストップをかけてくれた。
ハタチで経験した「恋愛」での「トラウマ」。ケイコは二十二歳になってもまだ引きずっていた。
バー「F」でのひとり酒。
「酒」はかなり強くなった。
「良美!起きなさいよーっ。時間ないよぉ」
「分かってるってぇ。」
午前5時、農家の朝は早い。良美の朝はいつもこんなだ。農家だけど、朝はパンと牛乳、そして取れたての卵の目玉焼き。米は嫌というほどあるので、かえってパンのほうが新鮮らしい。
田畑良美は農業高校を出て地元の農協に就職した。田畑家には跡取り息子がいないので良美が婿殿を貰い家業の農家を継いでもらうために農業高校へ行かせた。良美はそれを苦とは思わず、小さい頃からそうなるのではと、
それに逆らう理由もないという、親にとっては育てやすい子だった。農協では金融関係の窓口業務に配属された。仕事的にはケイコの銀行と変わらない。ただ、農協の窓口には銀行と比べて「お年寄り」が多い、それも地元の知った顔ばかり。畑仕事の帰りや青果を卸に来たついでなど。それは「農家」関係者のための「銀行」のような雰囲気である。
だからおとなしく、おっとりとした性格、そして「綺麗」というよりは「健康な子」の良美はお客様にとってマドンナ的な存在だった。化粧もまだまだ未熟ではあったが、肌は「もち肌でピチピチ。」それだけで「良美ちゃん、べっぴんさんやわぁ。」とおばあちゃん方に人気があった。
良美は真面目だけが取り柄な子。高校時代の部活でやっていた卓球をそのまま続けていたこともその一つで卒業後は地元の卓球クラブに所属していた。
その「腕」は確かなもので、それは県の大会に地区代表として選ばれる程の腕前。少女時代の「おとなしい良美」は徐々に変わりつつあった。良美の卓球スタイルは「カットマン」タイプ、性格がプレーにも反映される。相手のスマッシュを拾い続け、粘って粘って
粘り続け、チャンスを待ちスマッシュを叩き込む。
「攻撃型」も魅力あるが、良美の「カット型」も見応えがある。自宅敷地内にある納屋の空いた場所に卓球台があり、始めた頃は親とどっこいどっこいの勝負だったのに、今や足元にも及ばない。そんな娘の成長に目を細めながら各大会には両親揃って応援に行っていた。
職場である農協は上司や支店長、同僚も全て地元の人達ばかり。みんな「気心」が知れていることもあり、良美にとってはまさに「天職」だったのかも知れない。
週3回の卓球に窓口業務、休みの日は大会かゴロ寝。良美の生活スタイルは次第にこの繰り返しとなっていった。
こんな生活が約二年間続き、そして良美は成人式を迎えた。会場は地元の役場前にある公民館だった。良美は美容院に行き、振袖をまとって会場へと向かった。
懐かしい顔がそこにはあった。3クラス九十五人中、出席したのは八十六人もいた。ただ、ケイコの姿はそこになかった。大学2年生だった恵とは久しぶりの再会だった。「ケイコ来ていないみたいね。」「どうしたのかしら。」
二人であれこれ言いながら、でもそれ以上の詮索はしなかった。(ただ、都合がつかなかっただけだわ、きっと)
「良美、何かしっかりしてきたわね。顔が大人だわ。」大学二年の恵はまだ「学生顔。」
それは否めなかった。「もう二年も働いているもん。」良美が笑顔で言った。(社会人だよ。こっちは。)心の中で呟いた。
「恵のほうはどう?華の大学生生活、羨ましいわぁ。エンジョイしてるぅ?」
「華、とはいかないけど、まぁぼちぼちね。」
「ぼちぼちって、何よ。ぼちぼちって。」
働いている人を前にして「楽しいよ。」とはさすがに言えなかった。「おーい、めぐみー、よしみー。」向こうで集まっている集団の中から声が掛かった。「行こっ。」恵は良美と集団に加わった。懐かしい恩師の姿もあった。
「恵、元気―。」
「変わってへんなぁ。」
「良美はなんか垢抜けたというか、あんな性格だったっけ?」
「俺、喋ったことないから分からんわぁ。」「そういえば俺も。」
「だよね。」
他の女性たちもそこそこ化けていたけれど、良美は性格も明るくなったようで同級生からのウケは良かった。(なんか取り残された気分)恵は少しだけそう思った。恵はまだこの先二年間を学生でいなければならない。
(早く社会に出て今度会った時にはみんなに、大人になったね、と言われたいわ。)
式典のあとに簡単な同窓会が行われた。
「ケイコがいないじゃん。」
「ケイコは?」
「今、銀行員みたいやで。」
リーダー格だったケイコは、やはり話題の中心となっている。それがきっかけとなり欠席した人の消息が次々と話題になっていった。遠い場所に嫁いで行った人もいれば結婚してもう子供までいる人もいた。中には地元に住んでいながら欠席している人もそこそこいた。
学生時代にあまりいい思い出がない(はっきり言えば、いじめられていた)人にとってはこれほど嫌な行事はないだろう。いじめた側は忘れてもいじめられた側はずっと忘れる事は出来ないだろう。「暗黙の了解」で、その人たちの「欠席理由」は問わないことに自然となっていた。良美にとっても学生時代は「目立たない派」に属していたから同窓生とこうして再会しても特に感激することは無い。
でも、参加して良かったと良美は思っていた。
(みんな、褒めてくれたわ。)
色んな人と連絡先を交換した。名刺を差し出す男子もいた。恵の下宿先(学生寮)の電話番号もそこで教えてもらった。
二次会に誘ってもらったが「メイン派」が殆どだったので、さすがに良美は辞退した。ケイコが来ていたら必ず行っていただろうに。
全然変わってない人、面影までもが変わってしまった人、色々いた。みんながそれぞれの人生を歩みだしていた。
良美の生活は充実していた。仕事も卓球も。
人からは「地味」だと見られようと関係ない。
「愛」だの「恋」だの良美には興味がない。
しいていえば恋人は「卓球」だった。
しかし、一年後に生活スタイルが変わることになる。親からは高校卒業時に言われていた。
「期限付き社会人。」それは3年間であった。
二十一歳になったら仕事を辞めて家業を継いでもらうという約束をしていた。高校卒業時にはそれを安易に「はい。」と返事していた良美ではあったが、辞めたくはなかった。
両親を前にして良美は今の気持ちを伝えた。
「約束破って悪いけど、もう一年だけ、あと一年だけ仕事がしたいの。」
「良美がそう言うなら、好きにしなさい。」
お父さんが何か言おうとする動作を遮ってお母さんが先に言った。
「お母さんがいいなら、まぁいいか。」
お父さんはお母さんの体を心配し、出来れば
もう家業(家事)の手伝いをと思っていた。
もう一年我慢すればいい、今まで我が儘らしい事を言った事も無く、おとなしい娘が初めて自分の意見を言ったのだ。お母さんがいいと言うならば従うしかない。
「私、卓球で日本選手権大会に出たいの。
この一年はこれに賭けてみるわ。」
「そうなの、頑張りやーよ。」
笑顔でお母さんは答えた。父も静かに頷いた。
それからの一年は良美にとって人生で一番といっても良いほどの充実した一年になった。
日本選手権大会に県の代表として出場するためには地区大会を勝ち抜かなければならない。
それは良美にとって容易な事ではなかった。まず、練習を週3回から週5回に増やした。週末は色々なクラブへ遠征をした。練習の時間も増やした。さらに寝る前の僅かな時間にトッププロ選手の試合のビデオを何度も何度も見て研究した。まさに「卓球漬け」の毎日だった。「でも、上手い人は皆こんな生活をずーっと続けているんだわ。」
良美は一年間という期限付きだから、まだ我慢出来るけれど、これが日常というのは耐えられないと思っていた。そう思いながら「やっぱ、凄いわぁ・・」と唸りながらビデオテープを見ていた。練習は人を裏切らない、努力は人を裏切らない。
真面目な良美は着実に技術を上げていった。
7月に行われた地区大会で良美は一般女子シングルスの部に出場し、そして優勝した。
圧倒的だった。会場が近かったので両親も応援に来ていた。会社の同僚も数人来ていた。
地区予選はあくまでステップに過ぎない。次は十月の県大会だ。良美は練習に前にも増して打ち込んだ。毎月発行している農協の広報誌に良美が掲載された。地区予選で圧勝したことが取り上げられた。そして良美は地元ではすっかり「有名人」となっていた。
あの、おとなしい良美が?
と同級生はみな思うだろう。それ以来、窓口業務では「頑張って!」「応援するでね。」と来る人来る人に声をかけられ、「みんなが応援してくれているんだわ。」と実感した。
十月の県大会は県の総合体育館で開催された。
県では一番大きな体育館、良美も数回しか来たことがない会場だった。今回は家から車で1時間以上かかる場所だったが、両親もまた応援に来てくれた。さらに勤め先の農協の支店長はじめ同僚が横断幕を引っ提げて来てくれた。「緊張するわぁ。」
地区予選を勝ち上がってきた連中だけあってみんなが自分より上手く見えた。
「よしみーっ!ファイトーッ!」同僚の声が会場に響いた。卓球の会場というのは他のスポーツ、例えばバレーボールやバスケットボールのように会場がどよめくような歓声があがることがあまりなく、割と淡々と試合が各自行われている。なので、この同僚の声は周囲の視線を集めた。良美にもしっかりと聞こえていて良美は恥ずかしそうに小さく手を振った。
ベスト8まで行けば県の代表メンバーになれる。試合はトーナメント戦、だから3回勝てば「夢の全国大会」となる。1回戦はさすがに緊張した。先行されてしまったが、力強い「応援団」の声援のおかげで気を取り直すことが出来た。その応援に後押しされて良美は本来の「粘り」を発揮し、そして勝利をもぎ取った。
(応援されるのって、すごく嬉しいわ。)
良美はそのサポーターに向かってVサインをした。
試合には「流れ」がある。普段めちゃくちゃ強い人でも「流れ」に乗れないと負ける場合が少なからずある。また逆の場合も然り。勝負事はそんなもの。だから面白い。良美はまさに「良い流れ」に乗っかった。2回戦はその典型だった。
(あと、1回だわ。あと1勝すれば・・・)
両親は観客席で泣いていた。応援団の同僚達も歓声をあげて喜んだ。良美はみんなの前で一礼をし、そして両親の前で感極まり涙を流した。
それを見て、もらい泣きする同僚もいた。
結果はベスト8。準々決勝で敗退はしたが、「全国」の切符をやっと手に入れた。
十二月に行われた全国大会には1回戦で負けてしまったけれど、良美は満足していた。
年が明けて3月、良美は4年間勤めた農協を退職した。恵が教員として社会人になるのと入れ替わるように・・・