旅立ち後編
式は粛々と進行された。
そして棺を閉める時となった。
それを閉める前に陽子が卒園式で読んだ「答辞」を棺の前で読み上げた。
最後の文章は「お父さん!お母さんありがとう!」と元気に読み上げ参列者の涙を誘った。そして棺の周りに参列者が集まりそれぞれが一輪の花を持って棺に入れて数珠を握り締め両手を合わせた。
みんなが泣いていた。
「めぐみ先生!」
「めぐみ先生!」
「めぐみ先生!」
誰もが口にしていた。
みんなが泣きながら手を合わせていた。
「めぐみせんせい・・?」
陽子が周りの声につられるようにポツリと言った。
陽子が始めて口にした言葉。
「め・ぐ・み・せ・ん・せ・い。」
そして恵が最後に掛けられた言葉。
そうして、棺の蓋は閉められた。
陽子の卒園式翌日。
恵は荼毘にふされ、旅立った。
原田恵。享年四十六歳。
「めぐみ先生」の生涯は幕を閉じた。
あれから3年余り。
年は老いたが康雄と美千子は勇気と陽子の親代わりとして相変わらず子育てに忙しい毎日を送っている。昭二は教頭先生として相変わらず学校中心の生活をしている。再婚は考えておらず、このまま原田家の跡取りとして生活をしていくようだ。
長男の勇気は少年野球のキャプテンとなっていた。外野手からコンバートされ今ではエースピッチャーである。「エースで4番」を目指して日々練習に明け暮れる毎日である。
勉強に身が入らないところが悩みの種だが、「プロ野球選手」になりたいという夢がある以上、後押しするしかない。先生という職業については興味もなく、なるつもりもないようだ。「教員」=「聖職」という時代はもう古いようだ。昭二も今の職業は大変だと身をもって分かっているので、勇気には好きなように生きてもらおうと思っている。
陽子は元気な小学3年生。
ピアノはずっと続けている。何より名前の如く「太陽」のように明るい。
でも「陽だまり」のようにおっとりしている部分もある。
このあたりは恵に似てきたようだ。
笑い顔は恵のそれとよく似ている。
原田家は、ごく「普通」な毎日を過ごしている。これが今の「日常」
心の傷や痛みなどは「時間」が解決してくれる。それが全てでは無いけれど、大体がそうである。勿論それが良い場合もあるし、そうでない場合もある。時が経っても忘れてはいけない事は沢山ある。
有名であった人や偉人や歴史上の人、また大きな事故や事件などは、時が経っても忘れ去られず、「名」が残る。しかし、それはごく僅かであり、殆どが忘れ去られるものである。大げさな言い方をすれば、この地球上のあらゆる生物は必ずいつか「死」を迎えることになり、そしてその存在が無くなればやがては忘れ去られる。
数え切れない「死」が繰り返され、それと同時に数え切れない「生」が繰り返される。
「時」は無情である。
恵の存在はどれだけの人の心に残っているのだろうか。
「めぐみせんせい・・」
陽子がこの言葉を発することはもう、無い。
*作品について
題名 『わたしはめぐみ先生』
作成時期 2013年
枚数 264枚(目次含む)
筆名 丹羽晃成
本名 丹羽晃成
職業 自営業(建築設計)
略歴 岐阜県関市生まれ 高校卒業後会社員などを経て現在は建築設計事務所を自営。
※作品の梗概
「原田 恵」という女性の歩んだ人生を中心に書きました。
原田恵「めぐみ先生」は昭和三十七年に田舎町で(記載はしていませんが、設定は岐阜県内の田舎)に生まれました。一人っ子である恵は親から沢山の愛情を注いでもらい、すくすくと育ちました。学校に通うようになって仲良し三人組「かしまし娘」が誕生し、その後中学卒業までずっと同じ学校で学んだ。その中学で恵は「学校の先生」になりたいという夢を持ちそれに向かって進んだ。高校からは三人は別々の道に進み、恵は念願叶って「教員」になる事が出来た。その三人が成人を迎え二十代を駆け抜け、そして三人とも三十代で「家庭」を持った。それぞれの家庭にその「幸せ」が宿っていたけれど・・・。
「めぐみ先生」という愛称で、すっかり先生として板についてきた恵。しかしその「めぐみ先生」が体長の不調を訴え軽い気持ちで病院へ診断に行ったが、結果はその先の人生を大きく変える結果となってしまった。
病名「子宮頸癌」
そして病気と闘い、また「めぐみ先生」として復職するため約一年の辛い治療に耐え、無事退院することが出来た。しかし復職はせず、恵は「家庭」を選択し教職を辞めた。それからは家庭重視の生活をし「家族」としての「幸せ」を実感する毎日を送るようになった。
教員への未練もこれで断ち切れたと思っていた矢先、恵にまたも「人生の試練」が告知される。「癌の再発」そして「余命宣言」
過酷な選択「治るかどうか分からない治療」か「緩和ケア」か。 恵は残された命を「家族」と向き合う時間に費やす事にした。
そして両親や主人、子供に囲まれ恵は四十六年で人生の幕を閉じた。
「めぐみ先生。」特別な功績を残した訳でもなく特別に有名になった人でもない。けれど、当たり前だが誰にでも「人生」はあり、この「原田恵」は最後まで一生懸命生き抜いた。
勿論、本人はこの人生に納得はしていない。
「病気」にさえならなければ「先生」も続けていけただろう、又子供の成長も見届けられただろう、親孝行ももっと出来ただろう。しかし、それは叶わなかった。
恵の死で多くの人々が泣いた。でも三年もの時が経てば、その人々の記憶は薄れてしまう。
時は無情なものである。
この小説は実際に先生となり病に倒れた身近な人をモデルに書き上げました。とても綺麗で優しい先生でした。
人々の記憶が薄れる中でこの先生を記憶に残しておきたいという気持ちが強くありました。
東日本大震災が起きてもう2年経ちます。
同じように2年という「時間」はこの出来事を「風化」させたり人々の記憶から遠ざけつつあります。記憶に残し、そして残し続け震災復興が進む事を望んで止みません。




