【8】 錯綜する教室
月島真史。我らが二年三組担当教諭兼、二学年全般へと数学に面した学を賦与していた彼は、一概に言い得て妙に、尊師である。
皆が一様に目の色を変える大学進学の問題へ募る不安も然ることながら、ちょっとした日常でのトラブルもお節介なほどに首を突っ込み、それを巻き起こした人物より痛手を被ろうとも、理想的な解決へと扇動してきた。フィクションで塗り固められたドラマでは定番ネタとして扱われる熱血教師ポジショニング、それが月島だ。御世辞にもジャージの似合う爽やかな筋肉質とは言えないが、まあともかくとして彼は生徒からの人気をはくし、またそれを裏切らぬ活躍を見せていた。
比良乃亜矢が彼を偲ばし、かつ幸運であったのは、こういった月島の人情味溢れる教育指導の下に二年連続で身を置くことが決定した為だ。
年に一度、進級すると同時に成績表に印刷された数字のみに基づく討論でクラス替えは行われるというのに、当然私情は一切挟まないというのに、偶発的に亜矢は三組、奇跡的に月島は三組へと揃って配属された。指定の教室まで浮かれ歩きし、月島へ「今年も宜しくお願いします」と頭を下げたのを鮮明に覚えている。嬉しい出来事は、無意識の内に記憶へと残留するものだ。――それが当人にとって奇を衒った出来事であるなら、尚更のことで。
幸運は尾を引き、世界に一人しか居ない幼馴染、村上夏樹も三組へと籍を置く。 身に余る幸運の波状攻撃に、作為的なプログラムが秘密裏に進行しているのではないかと短期、心配性な亜矢は頭を悩ませた。が、メリットしかないので、まあいいかと疑惑は疾に捨てた。使い所を誤っている気もするが、両手に花というやつだ。亜矢は胸を躍らせた。高校二年生を満喫するに申し分ない材料が揃った状態で、彼女はスタートラインの地を蹴った。
そんなある日、オープンキャンパスに参加するよう義務付ける内容のプリントが担任より配布され、亜矢の気分を滅入らせる。――大学進学。時期的にも覚悟はしていたが、未だ将来の夢と呼べる方針を定めていない彼女にとって、この通達はまさしく障壁そのものであった。
親友の鷹迫かえでに相談を持ち掛けようにも、彼女と自分とでは得意科目も苦手科目も噛み合わない。幼馴染とはいえ、夏樹も支えになってくれない。この時ばかりは自分一人の戦いだと言っても過言ではない。
気持ちを奮い立たせ、亜矢はオープンキャンパスが本格的に始動する夏休みを視野に入れ、目についた職業を片っ端から徹底的に洗った。そして道を絞った。もうこれ以上、個人の力では煮え切れない程に切り詰めた。
然れば亜矢の足は、自然と月島の待つ進路相談室へと向けられる。「失礼します」そう言って扉を叩いた彼女を朗らかな笑みで出迎えた月島は、自分の向かい席へ亜矢を腰掛けるよう手招きし、本題を切り出した。「焦らないで、ゆっくり決めようか。なにを隠そう比良乃さん、貴方自身の進路なんだからね」それから小一時間、根掘り葉掘りと穿鑿し、月島は親身な態度で亜矢と話し込んだ。
――それなら、ココで基礎を盤石に固めた方が安全ではあるな。回り道だけど、失敗するリスクを考慮すれば最善策だ。て、俺は思うけど。……あまり大きな声では言えんが、学校側は史実を元にしたデータを弄繰り回して、どうにか見栄え良くしようとパンフレットを書き換え、入学希望者を多く獲得しようとしてくるぞ。疑って掛かれというわけではないが、聞いた情報の鵜呑みにして、全てを信用しようともするな。常に信用するべきは自分の目と、価値観だ。
――真剣な体裁の月島は、目蓋と前額へ順に、ちょんちょんと指を乗せる。次いで太ももを、ぱんっと強く平手打ちした。「だから兎にも角にも、先ずは己の目で大学を見学して、己の脚で大学の門を潜ることだ。それが狙いのオープンキャンパスだ。――百聞は一見に如かず。外部の情報に惑わされず、自分を一番に信じろ」そして緊張を解そうと「ああ。俺のことは例外って方向で」と目尻に皺を寄せ、月島は笑っていた。
差支えなけりゃ、比良乃なりに見学の感想を紙にまとめて、それを俺に見せてくれ。妥協しちゃあ駄目だぞ。俺が妥協させないからな。じゃあ、夏休み明けに。良い休暇を。――これが亜矢に課せられた、月島からの独自性に充ちた宿題であった。宿題と訊いて根性が奮い立ったのは、これが初めてだった。
時は流れ、九月一日。
月島のアドバイスを一身に背負い、参加した大学見学の情報と感懐とを統括した紙を、亜矢は学校へ持参した。四角が折れぬよう透明なファイルに挿み、気候の変動しやすい空に備えた折り畳み傘と、お気に入りの小振りで軽量な筆箱らが身を潜めるボストンバッグ型の学生鞄へと仕舞い込んだ。予め前日の夜も更けぬ時間帯に、用意は済ませておいた。
従がって亜矢が情熱を注いだ紙は、今でも鞄の深層で身動ぎせずに眠っている。
そして朝のホームルームが終わり次第、月島へと提出する。これは始業式にも勝る、今日一番の最優先事項。――これは何物にも侵害させない、尊厳ある自分の意思。
時刻は八時四十五分過ぎ。
朝のホームルーム終了は四時四十分。
今すぐにでも月島へと駆け寄りたい。亜矢は、努力の成果を胸を張って表明したい。
しかし、亜矢の全身は麻酔を打たれたかのように、手の指先から腰に至るまで微塵も動きそうにはない。しかし、亜矢の涙は限度を知らないようで、際限なく両の眼から湧出し続けている。しかし、涙を払拭する微力も、立ち上がる気力すらも――、生気も、精気までも、彼女からは四散している。
まさに茫然自失である。
教室の床に腰と手を下ろし、赤黒くグロテスクな花弁を教卓に撒いた月島の骸に瞳を奪われている。半開きの口で、おっぴらいた目玉で――。顔をぐっしょり濡らして――。月島を眺めていた。
――そのすぐ手近で、夏樹は立ち往生していた。
齢十七年の生涯を振り返ろうとも、彼にとって体験したことも直面したことも、ひいては念願したこともない教室の惨状に、目を見張るばかりだ。
教師の死骸。
乱心した九官鳥が如く騒乱するクラスメート。亜矢含め、虚無に苛まれたかのように呆けるクラスメート。嘔吐するクラスメート。涙ながら近隣の者同士で手を取り合うクラスメート。塞ぎ込むクラスメート。――夏樹含め、じっと周囲のクラスメートを注意深く観察するクラスメート。
そういった理不尽なルール提示と共に教室へ閉じ込められ、試練を余儀なくされ士気を低迷させる三十一人面々の中、目先に目標らしい目標を掲げて活動しているのは「だれかっ、ドアを開けろおっ」と興奮気味に、命令だか懇願だかを口にする門倉恭介を筆頭とした、数人グループのみである。全てが男子だ。女子に奮えというのも酷な要求か。
「ど、どうするんだよ夏樹ぃ。一体全体、なんで俺らが閉じ込められなきゃいけないんだよっ」といった親友、三恵潤へと夏樹は体を返し、「落ち着くんだ。まずは目を瞑って深呼吸。それから羊を百匹数えてろ」と言い捨てた。
頭に血が昇って刺々しい物言いになったのは夏樹自身、百も承知だ。体中の血液が沸騰するのを体感した。次いで、冷たくあしらい過ぎたかなと反省する。「よ、よっしゃ分かった! 可愛い羊が一匹、高値で売れる羊が二匹、ジンギスカンが三匹……」まさか本気で数え出すとは、正直、潤のテンパり具合は予想の斜め上であった。――そもそも、ジンギスカンとはこれいかに。その羊は羊であって羊に非ず。三匹目だけ鉄鍋でぐつぐつ煮込まれていたら他の羊が腰を抜かしてしまうだろうに。
「おい。おいっ、テメエッ」耳に優しくない小野寺龍治の強張った声が聞こえた。ばっと振り返れば、あろうことか放心する亜矢の両肩を掴み、その強圧な面を近づけているではないか。「おいっ、聴こえてんのかっ!?」いきり立った二言目の声。依然、龍治の呼び掛けにも亜矢は微々たる反応も見せない。が、このワンシーンのみを酌めば、大切な幼馴染に手を出す寸前の、不慮の事態に取り乱した不良だと視るに、夏樹はそう時間を要さなかった。
「……なにしてんだ」瞬時に夏樹はカッとなり、龍治との距離を詰める。気配を察知し、龍治も首を曲げ、ガンを飛ばした。「あぁん?」
「その汚ねぇ顔をさっさと引っ込めやがれっ」夏樹の五本指は龍治の制服の襟ぐりを、龍治の五本指は夏樹の制服の襟ぐりを、交互に握りしめる。双方の目線は火花を散らせた。
非闘争主義ではあるが、時と場合による。そのことを裏付けるように夏樹の肘は後方へと弓のように引かれ、握り拳には力が込められた。例えるなら鉄砲に弾薬を装填した、といった所だろう。――月島の残した遺言の片割れ『暴力禁止』の発言など、頭の片隅にもなかった。
対し、龍治は臆することなくこれを迎撃すべく、手をグーに結んで肘を引く。
突拍子もない悪夢と閉合され、二人はすっかり平常心を逸していた。
知らず知らず、あれよあれよと取り乱してしまっていた。
「かかってこいよ、オラァ!!」龍治が怒号を吐出する。スナップにより威力が増した龍治の右ストレートは、狙い通り夏樹の喉仏へ直線的に打ち出された。
「――どいてぇええっ!!」と、鬼気迫った女子の発声が龍治の攻撃を寸止めさせる。夏樹と龍治、二人は長年コンビを組んでいる芸人のように一糸乱れぬ揃った動きで、声の音源へと顔を傾ける。それからすぐに、視力はそれを捕捉する。「わ、わっ、危ないぞっ」と慌てふためく恭介の脇をすり抜け、助走によって加速度を纏った――女子ソフトボール部エース、鷹迫かえで、その姿を、捕捉する。
彼女の手は椅子の脚を鷲掴んでおり、勢いそのまま目指す先には――白壁によって教室と廊下とを遮断された、補強済みのドアがある。
龍治から手を離しつつ、夏樹は彼女の目論みにぴんと来た。かえではドアを補強金属(金属のようなもの)ごと破ろうというのだろう。ドアさえ壊せれば――。後は野となれ山となれ。一分一秒でも早く、この死体ごと缶詰にされた教室かた立ち去りたかった。
もしや、かえでの強肩ならばドアを破壊することは可能なのかもしれない。
心強く力強い彼女に一任すれば、自分は、自分たちは、この場から逃げ出せるのかもしれない。希望点観測に過ぎないが、それは十二分に実現しうる理想像だ。突破口だ。
暴力を振るう時とは相反して、期待を込める意味で夏樹は拳をグッと握る。そして「いける……」と呟いた。重ね重ね感じる――。鷹迫は凄い奴だ――。