【7】 抜き打ち試練
「抜き打ち“シレン”……」夏樹は自分の耳を疑う。
日常で引用される語句とは、似たようで全く異種のそれが月島の口から発せられたためだ。正しくは『抜き打ち試験』ではないのだろうか。「先生、試練って言った?」と口元に手を当て、担任の動向を窺いながら亜矢が夏樹へ慎み深く尋ねる。
自分一人ならまだしも、彼女まで『試練』と聞き取ったのなら、月島は確かに試練と口にしたと断言できる。「ああ。言ってた」そう返答する外ない。「意味は到底、理解できないけどな」ふざけた態度で、補足を継ぎ足す。
夏樹の前方でがやがや、後方でひそひそ、クラスメート同士で夏樹や亜矢と同じ反応を見せる者が何人か窺える。
かえでの垢抜けた声も、教室の後ろ端から微かに聞こえた。
プレイボーイ巧巳の鼻声、それに呼応する莉奈子の甘い声も、夏樹の聴覚を刺激した。大多数の人間が、月島の発言に疑問を抱いているのだ。
秒刻みで、学生の口から噴出するボリュームは羽目を外した。見る見るうちに、教室は騒々しくなる。「はいはい。静かにしろーっ」と、月島は負けじとボリュームを引き上げて場の沈着を図った。「ちゃんと説明すっから」と続けて、黒板に文字を書き足す。
――ぷしゅー。空気の抜ける、重量感溢れるエフェクトが教室中の人間の目を二ヶ所に集めた。
音源は、前方ドアと後方ドアだ。「えっ」誰かが悲鳴に類似した驚愕の声をだす。「ああっ」「きゃあっ」「げっ」相次いで、思い思いの感嘆詞が宙を飛び交った。
ドアに被さっていた白壁。
夏樹は発見当初、これを科学技術の応用を重ねて制作されたロボットではないかと、朧げに連想させた。その予想が正鵠を射たと言えば良いのだろうか。ドアにぴったり張り付いた壁は、ないしはロボットは、横へスライドすると共に三組の教室と廊下とを遮断した。ミリ単位の隙間も無ければ、指を掛ける取っ手のおうとつすらもない。平坦で、無機質な壁が、そこには厳存していた。
「先生っ! ドアが閉まっていますっ!!」口調を荒げた委員長の恭介が、尻で椅子を押しつつ立ち上がって抗議した。三組の人間を代弁した行動であった。
しかし見たまんまの情景を口にしただけの彼の動きは、とても賢明なそれとは言い難い、軽率なものであった。「黙ってろ」――月島の鶴の一声。恭介の脚と床とを縫い付けた。手にした白チョークを置き、月島が身を翻しつつ「騒ぐんじゃない。座りなさい」と、威圧するように恭介へ命令した。
唇を固く結んで、恭介は渋々席に着く。
「なんで……。どうして……」亜矢の独り言を、夏樹は聴き取る。
声は掛けなかった。
というよりも、掛けられなかった。
大丈夫だ――のたった一言が喉に支えている。
原因不明の隔離に遭った今、気休めすらも発言するのを躊躇った。
「みんな、黒板を見なさい」こんこん、と黒板をノックする月島。正確には板書した文章に焦点を絞れ、という意味なのだろう。彼の誘導した通り面を起こせば、そこには簡素な数文が羅列されていた。「分かりましたね?」
「分かりましたねって……」夏樹の混乱は殊更に深まろうとしていた。
鎮火したクラスの響めきは再発した。
今度は遠慮がちに誰かが口火を切るのではなく、ほとんど同タイミングで数人の男女が騒ぎ立てたのだ。「分かるわけねえだろっ!!」野球部の芝浦汰彦に至っては、答弁というより怒声に近しいものであった。
いつのまにか笑みを消した月島は、涼しげな顔で話題を先へ、先へ、先へ、と推し進める。「黒板に俺が書いた通りだ。――第一の試練は『宝探し』だよ」
「……頭おかしくなったか、あいつ」一学期間、尚且つ二学期の頭を通し、初めて夏樹は潤の小言に同意せざるを得なかった。
不愉快な月島を視野の外へと追いやり、改めて板書された文字を心中で唱えてみる。
【 宝探し 】
【1,赤コイン】
【直観力と推理力、これに長けてりゃやい容易。胸中秘めたる故意使い、見いだすべきはもとい甲斐】
【2,青コイン】
【差別をやめよう平等社会。命とチャンスは公平河海。それならやる気が出てきたかい】
【 8:45:00 ~ 9:00:00 】
「時間ないからちゃっちゃと終わらせるぞー」長針が八を通過した掛け時計を見て、月島は早口で捲し立てる。「前には書いてないが当然、暴力は禁止だぞ。それからコインを発見した後の、コイン所有者からのコイン強奪も禁止だ。ここ重要な。くれぐれも見苦しく暴れる事ないよう頼む」時刻は八時四十二分を刻む。
なにを言っているのか、夏樹には殆ど理解出来ない。むしろ徐々に、腹が立ってきた。
ドアを封鎖されたが故の閉鎖的な空間に加え、月島の精巧な職務とは言い難い奇態に嫌気が差してきたのだ。それに亜矢の心情も計り兼ねる。心地良くは思っていないはずだ。
「制限時間は十五分。コイン一枚につき一人だけが脱出可能。複数人で仲良く脱出は厳禁。いいなっ? ――先生はそろそろいくぞっ、質問はないかっ?」
「え。先生は参加しないんすかー、抜き打ち試験に」と間延びした巧巳の質疑に問答を展開させる気はないようで、月島は「参加しません」と一答で切り伏せ、教卓の引き出しへを漁った。取り出したのは出刃包丁だ。刃渡り二十センチほどの、大きめな。
瞬間、夏樹の背筋が凍る。
喉が一気に干上がった。――馬手に刃物を握った教師が教壇に上がっている。そんなミスマッチ極まりない光景、彼は過去に体験した事がない。考えた事もない。「もう質問はないな? 先生いくぞ。――みんな、頑張れよ」
口を半開きにし、呆けていた亜矢の耳に届いた月島の声援。
これが彼の、実の子供のように可愛がってきた教え子達に贈る、最後の言葉であった。
そして間隔なく深々と胸に出刃包丁を突き立て、鮮血を撒き散らす月島。刃渡り二十センチは、ずぶずぶと彼の体内へと直角に吸い込まれる。まるで手品のワンシーンみたいだ。と、刃先が肋骨に行き当たったようで、力技で並列した骨を抉じ開けるよう、出刃包丁の柄を斜めに傾けていた。
しばしの沈黙。
訪れた静寂。瞬きすら許されない、奇妙な暗黙が場を支配する。
苦痛に顔を歪め、千鳥足そのまま黒板へと後頭部を強打し、凭れるようにずるずると月島が崩れ落ちる。口端からは血と泡が練り混ざったような凝個物が、ぽこぽこ湧いていた。
三十一人分の目蓋に、その脳裏に、ショッキングな映像が生々しく記憶される。鼻の奥と目頭をつんと熱くさせる、濃度の高い異臭が月島の傷口から漂い始める。それから悟った。――担任が自殺した。
「……いや、いやぁ」力なく首を左右に振り、亜矢の目からは涙が溢れる。「いやぁ゛ああアあ゛あああ!!」最前列から女子の甲高い奇声が轟いた。これが引き金となった。
人間の潜在意識に存在する理性の糸が、ぷつんと音を立てて千切れた。
「いやああっ、先生っ! 先生っ! いやああああああああっ!!」
「うわっ、ああああああっ!?」
「やべえっ、やべえってっ、ああああっ、ああああああっ!!」訊くに忍びない喧噪に次ぐ咆哮。金切り声に、気が触れたかの鳴き声。
発端は月島の自殺。
悲劇みたいな、嘘みたいな残酷な死。時刻は八時四十四分を刻んでいた。
「誰か先生呼んで来いっ!! 教室から出ろっ!!」誰かがやっと言語らしい指示を飛ばし、他の三十人を急き立てる。言われるがまま、成されるがままに、革靴を踏み鳴らした数人の生徒がドアへと近寄る。「どうやって外に出んだよっ!?」ドアを前にした誰かの悲痛な嘆き。
それが全員の思考を一致させた。
――それはとても悲観的な反面、もっとも現実的で最悪な思考。
廊下とを繋ぐ出入り口であるはずのドアは、天井まで垂直に背を伸ばした白壁が障害となり、蜘蛛の子一匹通れるような穴さえ見当たらない。前方ドアも後方ドアも同じだ。共通して隙間は無く、希望は無く――三センチほどの窪み以外なにも無い。「おいっ、何だよコレ」
――窪み。
――かつて取っ手が合った手元に、くぼみ。
確かに窪みには洞窟のような穴がぽっかり空いているとはいえ、人間が入れそうか否か、そういった次元の話ではなかった。これは、そう。自販機で飲料水を購入する際に小銭を入れる、あの程度のものだ。立証せずとも、脱出は不可能と結論付けるに支障を来さない。
『違反を確認』三十一人の肩が突発的に揺れる。
黒板よりも数十センチ高度な位置に、時計とセットで取付けられた校内放送用のスピーカーが作動し、声が流れ出したのだ。『二年三組担任兼数学教師、月島真史による二年三組担任兼数学教師、月島真史への暴力を確認』
「誰だよコイツっ!!」「放送委員かっ!?」誰からも、声の主を特定する言葉は上がらない。中性的な声色だ。オクターブの高い男性な気もするし、低い女の声な気もする。『刑罰を執行します』滑舌の良い中性声が、死体と成り果てた月島へと宣告する。
ばきゅ、と音の濁った方へと大勢の目線が向けられた。
そうして、何発目か数え飽きた悲鳴が教室中に反響した。
出刃包丁を胸から生やした月島の――。
黒板に体重を預け、服を赤黒く着色した月島の、脈打つ血管の浮いた首が不自然に明後日の方向へと捻じれていて――。首の骨が折れている、と認知した。
それも独りでに、放送の声が掛かった途端に――。
『……試練開始まで、十秒前。九、八』無頓着なカウントダウンが始まった。
時刻は八時四十四分五十二秒を刻んでいる。
教室から抜け出そうと白壁を叩く行為を中断し、活気盛んな男女達は時計の針を睨んだ。親の仇を見る目で、スピーカーを射殺すが如き眼力だ。
残り、七秒、六秒――。『五、四』
「………」この時、床にへたり込む亜矢へと、夏樹は声を掛けられずにいた。
放心したように月島の亡骸を視察する幼馴染の心を支えてあげたいのに、彼女に歩み寄る事が出来ない。
口は動かせるが、言葉がそれに続かない。
名前を呼んでやれない。
何しろ夏樹自身が、この日常を非常識で乗法したような現状に頭の回転が追いついていなかった。
教室内に蔓延する、鉄臭い血の香りに込み上げる胃液を、必死に飲み込んでいるのがやっとだった。
『三、二、一。――それでは始めて下さい』こうして悪魔が執筆したかのような、理不尽であり不条理である脚本の一ページ目は、その全容を三十一人の学生達の前に現した。
時計の秒針は、十二を後にしている。
これにてプロローグは終了です。
次回から、以前より目次に提示させて頂いております『残酷な描写あり』が鮮明に意味を持ってくるものと思われますので、ご注意ください。
しかし書き溜めていたストックが今回で底を尽きましたので、更新はこれまでよりも遅くなる事と思われます。ご承知おきください。