【6】 凶鞭を執る凶師
「全員、席つけー。ホームルーム始めるぞー」と、三組担任の教師、月島が、学級委員長の門倉恭介を連れ添って教壇へと上がった。時計の長針は六と七の中間を刻んでいる。およそ二分遅れた、朝のホームルームが始まろうとしていた。
それを確認した鷹迫かえでは、「じゃあ、また後で」と言い残し、窓際の自分の席へと足を運ぶ。「おう。悪かったな、鷹迫」村上夏樹が、かえでの後ろ姿を目で追った。そして、担任から注意を受ける前に自席へと腰掛ける。
窓際で、縦に並ぶ六席の前から六番目が、かえでの席であった。
つまり最後尾だ。
その二つ前には、つまりは前から四番目の席には、異性であるかえでに言い負かされた、図体だけは大の男、小野寺龍治がやさぐれた面構えで、唇を尖らせていた。
「……あんま、調子にのんなよ」と、龍治は呟く。さながら呪言だ。
一方のかえでは、彼の警告を右から左。彼の脅しなど意に介さず、窓際の最後尾の席へと腰を下ろした。
夏樹の隣で、挙動不審な態度で、月島と恭介が後にした教室のドアへと視線を配る比良乃亜矢。そわそわと満身を揺らす。「工事は終わったのかな……」
「月島先生か、もしくは門倉が工事の概要を説明してくれると思うぜ」
「……そうだよね。うん。そうだよね」一先ず亜矢も、自分の中でリーズナブルな結論を導き出したようだ。気を紛らわせる為からなのだろう。それは彼女が彼女自身に言い聞かせているようであった。
一言、二言、月島と言葉を交わした恭介が教壇を下りて、教卓の真正面の席へと歩み寄る。
廊下側から数えて三席、夏樹より二席前の、まさに委員長らしい席が、委員長である彼の席だ。――教鞭を執る教師から見て真ん中の、もとい黒板と教卓の真ん前は、委員長の特等席である。
「よし。号令かけろ」月島の、ほどよく気の抜けた声が恭介のスイッチを入れる。業務を遂行しようとする、やる気スイッチだ。
中目黒高校は土日を除いた毎朝の恒例に、当番が決まってホームルームを始めるけじめとして号令をかける。八時三十五分の時点において、彼の仕事としてはこれが該当する。
「起立っ! れいっ! ……おはようございますっ!」テンポ良くクラスの“ほぼ”全員を立たせ、一瞬だけ間を空けてから腰を曲げ、挨拶の決まり文句を口にする。夏樹と亜矢も、しっかりとした挨拶を述べた。
最後尾なだけあって、かえでのハキハキとした声は夏樹の耳に届いていた。新学期早々、女子ソフトボール部は行われていない。元気が有り余っているのだろう。「ざいまーす」と適当に流す三恵潤や、起立の段階で起立すらしていなかった龍治とは偉い違いだ。
社交辞令の動作一つをとっても、人間性がこうもはっきり浮き彫りになるのは面白い。
ならば、特筆すべき点のないほどに普通の挨拶を行った自分と亜矢は、これといった面白味のない人間となるのだろう。言い換えれば、高校生らしい高校生だ。夏樹は、自分の高校生らしい高校生に、満腹していた。
「着席っ」ががが、っと椅子の脚が床を擦る音がして、立ち上がった全員は席に着いた。
月島は半開きの眼でそれを見渡すと、持参した黒いボール紙を表紙とした出席簿に手をかける。ぱらぱらとページを捲り、日付の噛み合う箇所で動きを止めた。
「鮎河充」
「はいっ」男子出席番号一番、充が大きな声で返事をした。
これを皮切りに挨拶と並んだ恒例行事、点呼が開始された。
「伊井幸作」男子出席番号二番、吹奏楽部のオーボエ担当が手を上げる。「江元浩人」男子出席番号、三番。「大賀健介」男子出席番号、四番。
滞りなく点呼は進む。
夏樹は番が巡ってくるまで、無気力にもボーっと月島の口元を眺めていた。
片や、亜矢は組んだ指とドアとを、交互に見据えていた。
「小野寺龍治。……小野寺龍治。おい、返事しろー」と、男子出席番号五番の龍治へと月島が言葉を掛けるも、彼はそれを悪びれる様子もなく無視。
黙々と月島は出席簿へと目を落とし、空白の出席欄にボールペンで丸をつけた。
彼の反発にも慣れたものだ。「門倉恭介」男子出席番号六番の名を、何事も無かったかのように呼んだ。当然、委員長は模範的な聞き取り易い声で、お手本のような返事をした。
問題が生じたのは、もう間も無くのことだ。「木村巧巳。……木村ぁー、居ないのかー?」教室が静まり返った。
――あれ? と、夏樹が首を捻った。
男子出席番号七番、木村巧巳の姿がない事に今更ながら気付いたからだ。
振り替えってみても、やはり姿は見当たらない。右斜め後ろは空席だ。
空席は二か所あった。
一つは木村巧巳のもので、もう一つは彼と交際の間柄にある女子出席番号十番、布佐莉奈子の席だ。新学期初日、熱々カップルは欠席だ。
「参ったなあ……」と月島は、ばつが悪そうに後頭部を爪で掻いた。「誰か、二人から連絡を受けた者はいないかー?」数秒ほど、生徒たちは周囲の友人と情報の伝達を試みるが、無駄骨であった。誰からも、どこからも声は上がらない。
「夏樹ぃ、知ってるか?」潤が体を傾かせて訊いてきたが、メールアドレスの交換すらしていないカップルの居場所を認知しているはずもなく、夏樹は平手を宙で泳がせた。「朝からしけこんでんのかねぇ。えっへへ」卑猥な想像を掻き立て、潤は椅子へと腰掛け直す。そういう趣向の話題が苦手な亜矢は、ひっそりと頬を赤らめていた。
教卓の月島が、背後の時計を一瞥する。
いやに粘っているな、と夏樹は不思議に思った。
そんなに欠席者が出ることが好ましくないのだろうか。「先生。早く進めましょうよ」恭介の急かす発言に、ようやっと月島はボールペンで出席簿に書き込みを再開した。
木村巧巳、布佐莉奈子、二か所の欄にペケをつける。
「……小十嵐三木緒」こうして、巧巳と莉奈子の欠席を確定させ――男子出席番号七番の名前を月島が呼んだ時、不意に階段を上がる足音が夏樹の耳に飛び込んできた。
それも二人分。
ぺちゃくちゃと話し込みながら、ゆっくりと三階へ接近しているのが分かる。
間違いない、巧巳と莉奈子のカップルだ。
「お。遅刻の身で余裕じゃねえかー、あいつらめぇ」とは言うものの、月島の顔つきは目に見えてぱっと明るくなり、軽やかな手首のスナップで出席簿の書き直しを行っている。
なんだか妙な絵面だ。
この月島の態度も工事の件と関連しているのかと、夏樹は接点を探ってみる。が、未だ閃きはない。
少しして、廊下から巧巳のそれとハッキリ分かる声がした。「うわっ、なんだこの扉」次いで莉奈子の戸惑った声色。「めっちゃ閉鎖的なんですけど。なにこれーっ」どことなく楽しそうだ。彼ら、彼女らにとっては予想外であるドアの補強工事を前に、テンションを上げているのが分かる。
夏樹や、他の生徒達と大差ないリアクションを一頻り披露した男女は、開かれっぱなしの前ドアからクラスへと侵入し、「すいませーん」と月島へ、冗談半分に頭を下げた。
へらへらと、口元を緩ませた謝罪だった。
不良の龍治とは別系統ではあるが、遊び人巧巳の身なりも大概だ。
これまた洒落たキーホルダーの大量に付属した財布を尻ポケットから垂らし、ぶかぶかの制服ズボンを腰まで下ろしている。開いた襟元からは、愛嬌のある小動物がプリントされたシャツが露出していた。一見して、校則違反の宝庫である。夏樹の好みとは掠りもしないファッションセンスだ。
そんな彼と付き合っているくらいだから、莉奈子もそれなりに校則を破った格好をしている。
胸元のボタンは外され、今にも谷間が零れ落ちそうだ。正直、目のやり場に困る。スカートは内側に折られ、膝上までの丈しかない。ちょっと屈んだだけでも、下着を公衆の面前に晒してしまいそうだ。 巧巳が誠実を欠落しているとしたら、彼女は羞恥に乏しいと言えよう。
ある意味、お似合いのカップルであった。
ところで、いつまで二人は固い握手を交わしているのだろう。クラスに出現した時から、手は繋いだままだ。まさかとは思うが、それで電車の乗り、街中を通行したというのか。――夏樹には信じ難く、由々しき事態だ。重ね重ね、もっと恥じらいを覚えるべきだと思う。
巧巳の鼻声が、「あのー。もういいっすか?」と告げる。反省の色、皆無だ。それを見た月島は――笑顔を浮かべる。
「おう。さっさと席着け。――それにしても危なかったなあ、二人とも。危うく無条件で失格になるとこだったぞ」そう言って、月島はしつこく笑った。目を丸くして、巧巳と莉奈子は互いに見つめ合う。
やりずらそうに、巧巳が口を開いた。「あの、失格ってなんっすか」
「あっはっは。点呼をとったら説明してやる。だから早く席に着けー」予想通り、月島は質問を濁した。笑顔は絶えない。
「入口ん所のドアと、関係あるんすか?」
「それもこれも、ぜーんぶ引っ括めて説明するから心配すんな。ほら、お前らは遅刻なんだから、行った行った」手をぱっぱっと払い、強制的に話題を終了させた。
仕方なく、蟠りを残したまま巧巳は巧巳の席へと、莉奈子は莉奈子の席へと移動する。
大きな音を立てて、学生鞄を机の上に置いた。
これで空席は全て埋まった。
満足気な表情で、月島は点呼を続けた。「斉藤美野助」男子出席番号、八番。「榊原雄大」男子出席番号、九番。
――男子出席番号、十番。十一番――。十二番――。十三番――。機械的に作業的に、抑制もなく、澱みもなく、月島の声は十三人もの男の名を読み上げた。
「村上夏樹」男子出席番号、一四番。「はいっ」――男子出席番号、十五番。
「三恵潤」男子出席番号、十六番。「あいっ」――男子出席番号、十七番。
男子、計十七名の在校を確認。欠席なし。「よし。次は女子だ」ものの数分で、十四人の女子の名前も読み終えた。かえでのアホみたいな大声が印象的だった。
女子、計十四名の在校を確認。
欠席なし。
男女合計、三十一名の在校を確認。
欠席なし。
「おーっし、全員いるなあ。うんうん、先生は嬉しいぞ。こうやって誰一人欠けることなく、二学期という新境地を開拓することが出来たんだからな」と惚気つつ、月島が手元の書類をまとめて、教卓の端に寄せた。
いよいよか、と夏樹は身構える。点呼は終了した。となると次こそ、ドアの補強工事に関する内容を月島は明らかにするはずだ。
咳払いのした方へ意識を向ければ、そこには強張った亜矢の横顔があった。一刻も早く、彼女の緊張をほぐす為にも月島の言質は必要不可欠だ。概ね、大した事ない理由に決まっている。亜矢は心配性なのだ。年を幾度と重ね、プラス思考のワードが口癖になったのも、心の根幹では臆病である事から派生しているのかもしれない。
そう。
幼馴染だから知っている。
村上夏樹は知っている。――比良ノ亜矢という女は、周囲の友人が思っているほど、強い女ではない。 その本質は、もっとデリケートで、傷つきやすい。繊細な淑女だ。
器用に舌を回らせ、月島は語る。「教師って職に就いてからは毎度ながらに感じるんだが、自分の教え子ってな、実の子供みたいに思えて来るんだ。ついつい不躾に接しちゃう。大切だからな。だから夏休み中、気が気じゃなかったんだぞ。近年、水に関する事故が多発してるからな」
「話、長いな……」潤が、欠伸混じりに愚痴を溢す。図らずも夏樹は同感だ。
論点から逸脱した、回りくどい前置きが月島の悪い癖だ。「だけど、こうして皆は元気な顔を先生に見せてくれた。本当に喜ばしいことだ。嬉しいなあ、嬉しいなあ。いいね。いいねえ」
パンッ――と、月島が手を叩いた。
「でも、君たちは学生だ。学生の本分は学問に有り。甘やかしてばかりじゃあ駄目だ。腐っちゃう。――俺はね、自分の子供には人としての道を外して欲しくないんだあ。そうなんだあぁ」時刻は、八時三十五分をまわっている。
くるりと三十一名の生徒へ背を向け、月島は黒板に添えられた白チョークを親指と人差し指で持ち上げる。「そーんなわぁーけでえーー」と語調を伸ばしながら、黒板に文字を書き殴った。荒く、全身を使うように――。協奏曲を指揮する、指揮者のように――。がっ、がっ、と下品な効果音を発して、月島の持つ白チョークはその身を粉にして、擦り減っていく。
夏樹はぎょっとした。
夏樹のみならず、亜矢も、潤も、誰もが月島の言動に抵抗を覚えた。「えーーっとねえーー、そこでぇえ、せんせいはぁあーー」心なしか、言葉使いまで幼児化している。それはもう目も当てられないほどに、目を背けたくなるほどに、月島は楽しそうだ。
最後の文字を書き殴ったと同時。ぷつりと、月島の奇行は途絶えた。
ぐるん、首がまわる。大量のシワを作って教師は笑う。それから間も無くして、月島は言い放った。「みんなに、抜き打ち“シレン”を受けて貰おうと思います」
ぴったりと顔に張り付いた月島の笑顔が、今だけは薄気味悪く、夏樹には感じられた。