【3】 教室は工事中
ヒロインの名前、『比良乃亜矢』について。
当初は上記したものではなく、ヒロインの名前は『比良ノ亜矢』で統一していたのですが、いざ投稿してルビを振ろうとすると『ノ』のみ振れない事が判明致しまして、急遽名前を総入れ替えしました。
ですのでその辺、誤字が多発している可能性があります。
公立中目黒高校は明治の頭に創立された、長い歴史と伝統を持った、由緒正しき高等学校だ。
北校舎を軸とし、一階を昇降口が、二階から最上階に掛けてを壁に灰色を帯びた渡り廊下が、数十メートル先の北校舎と対を成す建造物、ひいては南校舎とを連結させている。
中々に中目黒高校、その校内は広く、なにかと専門の分野のみに打ち込む事が許される、それ専用の教室も数多く配備されているほどだ。音楽室一つをとっても、音楽準備室、メインホール、サブホール、所狭しと楽器の並ぶ空き教室と、総計五つも完備されている。
こればかりは親の金で学校に通わせて頂いている身分である夏樹から見ても、工事費の無駄遣いではないかなと、引いてしまう。
だが、何事もモノは言いようで、高校が広いに越した事は無く、それがうちの強みなのだと考えれば良い。比良乃風に表現するならば、プラス思考に捉える、である。
校門を踏み越え、下駄箱で革靴そのまま廊下へと上がり、そこから多少距離の空いている『二年三組』の教室へ向かうのに体力を軽く浪費するが、それも一年を経て、慣れた。体力が備わった証拠じゃないのかな。プラス思考に捉えれば。
学生ズボンのポケットに両腕を突っ込む村上夏樹が、体格上の問題から必然的にグループを先導する形となり、数歩後方を現在進行形で仲良く言葉を交わす、比良乃亜矢と鷹迫かえでが続く。
三人の所属するクラスは二年三組。
全六組の二年生クラスで、もっとも半端で、地味で、和やかなクラスだと評判だ。というか、大多数の人間が(スポーツ少女である鷹迫かえで等を除く)消極的なことで知られている。
その中の端末に、村上夏樹を片足を突っ込んでいる。そして甘んじて受け入れている。
二年三組。
場所にして北校舎三階。
第二階段を上がり、夢と希望に胸を高鳴らせる一年生が集う二階を通り過ぎ、行き先不安な将来と無限に湧く課題の山の板挟みを受ける二年生が集う三階へと真っ先に到着したのは、言わずもがな集団の先頭を進んでいた夏樹であった。
――つまり、一見して誰しもが不可解に思う『ちょっと変わった風景』に初めに気付いたのも、夏樹であった。
二年三組と記されたネームプレートの下付近で、教室の前後に一つずつ立脚するうち、前方のドアを手で押さえる担任教諭、月島へと夏樹が挨拶をする。「おはようございます」
「おお、村上か、おはよう。すまないが、少し手を離せないんでな。あっちの、後ろのドアから入ってくれ」と、今年で四十を迎える中年成りたての月島からの指示。
その周囲には紺色の作業衣に身を包んだ見知らぬ男達の姿もある。
どうやら月島は業者の男達と協力し、生徒が通行する廊下で片膝をつき、ドアを補強するように、金属板のような黒い物体を組み立てている最中のようであった。夏樹の眼力では見抜き難い黒いそれは、てかてかと光沢を帯びていた。
夏休み明けから、人力によるドアの補給工事。――ちょっと変わった風景だった。
「先生。ドアの脚、部品とぴったり嵌ってます。どうでしょうか」
「よくやった。どれ、ちょっと見せてみろ」
三組学級委員長の門倉恭介も、その立場上から手伝わされていた。
「……あの、先生」細身の黒縁メガネ越しに、恭介は細めた眼を月島へと浴びせる。それから訊ねた。「一体なんの為に、わざわざこんな事をしているんですか?」
御尤もな質問を背中に受け、苦笑いをしながら月島は、「朝のホームルームで、皆には説明する」と即答。有無を言わせぬ物言いであった。取り付く島も無いので、恭介も渋々といった感じで肩を竦める。
生徒間のいざこざでは率先して解決への導きを示す正義感の熱い男ではあるが、相手が教師では主導権など握れるわけがない。大人しく引き下がり、補強工事を黙々と再開させた。
クラスでも数少ないリーダーシップの素質がある恭介でさえ、この始末だ。外観だけ厳つく、中身がスカスカな夏樹が口を挿める隙間は無い。
ところで、こんな時に頼りになるのが今朝方、心底良い奴あらため空気の読めない奴と化した、かえでなのだ。彼女はデリカシーに欠ける面を持ち合わせてはいるが、これがまた授業中では飽きを感じさせない、積極的な発言の目立つ、剽軽な奴となり得るのだ。
事実、教師の間でも、そのユニークな言動からか知名度は高い。
成績の伸び悩んでいる面からの知名度も、高いようではあるが。
「月島先生! 誰にも言わないから、私にだけは教えてくださいよー。なんだか薄気味悪いっすもん」甲高い声色と反り上がるテンションのまま、かえでは疑問を投げかける。
月島は目尻にシワを寄せる笑い顔で、振り向いた。「はは。心配は無用だ。ほんの細やかな理由だよ」
「だったら教えてくれても良いじゃないっすかー。夏休み明けで気分が沈んでる繊細な女子高校生がこんなに頼んでいるのに、それでも先生は先生ですかっ?」
「気分が沈んでる? そうか、なら丁度いい。きっと鷹迫も、どえらく盛り上がるぞ。はは」
「はいぃ??」茶を濁す発言の連続にも屈せず、しつこくかえでは食い下がる。
彼女には、少なからず『変だな』と思う気持ちが生じているのは、確かだった。
中年とはいえ、自分と似たように童心の心を忘れない太陽みたいな月島が、言い澱んでいるように見えたからだ。言い澱んでる――これでは言葉の綾な気もする。
筆舌に尽くし難い、違和感。――拭い切れない違和感を、感じていたのだ。
その頃、月島の指示に従順して後部ドアから二年三組の教室へと入った夏樹と亜矢の、二人。
真っ先に補強工事を目の当たりにした為、「もしかすると教室の中も可笑しな工事を?」と不安に駆られていたが、それは杞憂に終わった。
二年三組。
場所にして北校舎三階。
在籍生徒数、三十一名。
そして、教室の中で思い思いの時を過ごしている、多くの明るい顔色のクラスメート達が、そこには居た。
工事に駆り出された恭介や、廊下で月島と話し込むかえで以外の全員とまではいかないが、およそ九割のクラスメートは既に登校済みであったのだ。時間は八時二十五分。点呼を行うのが八時三十分であるから、まあ妥当な人数なのだろう。
効果音に変換するなら、ワイワイガヤガヤ。
校門の外ではあんなに暗い顔色であったのに、多くの友人と再会するや否や、自然とテンションが上がったのだろうか。人の事を分かった風に言える身分ではないが、単純な奴らだなと夏樹は思う。
「……夏樹君」と、教室の和気藹藹とした雰囲気から一転、幼馴染である亜矢の何故か小声寄りの、自分を呼ぶ声。「これ、なにかな」
そう言って人差し指で促す先には、たったいま夏樹と亜矢の入ってきた出入り口のドアが佇んでいる。あ、と素っ頓狂な声を上げる夏樹。本日二度目の、ちょっと変わった風景を発見したのだ。
明治時代からの老舗が故に痛んでいる木製のドアに、さながらどこぞの近未来SF映画の宇宙船のパーツとして登場するような、白を基調とした無機質な壁が――。
訂正。
夏樹は刹那、見間違えた白いコレは、ただの壁ではなかった。
目を凝らせば、辛うじて見える。
白い壁のようなコレには、人の全身に毛細血管が張り巡らされているように、ピカピカと光りを発する極細のケーブルが蔓延っている。言うなれば、科学技術を駆使して製作された、時代の最先端を行くロボットの一種にも思える造形品であった。
開けっ放しにしてあった後部ドアをピッタリと覆うように、それは異様な存在感を放っている。
唯一、ドアをスライドさせる取っ手の部分だけ造りが異なる事に、夏樹は気付く。
それは黒くて、長細い、穴。――直径三センチほどの、歪な楕円形の、穴であった。
――分からない。
――わけが、分からない。
「ほんと、なんなんだろうなこりゃ。大規模な衣替えに学校長が踏み切ったのか、もしくは俺達が夢でも見てるのか」まともな受け答えは無理だと判断し、自然とはにかんだ表情で夏樹は亜矢へと向き直る。が、彼女の顔には陰りが見える。夏樹より幾重も真剣にビューポイントを絞っているようだ。
「……ちょっと怖いよ、私。――夏樹君は、怖くないの?」穢れの一点も知らない瞳で、亜矢は上目使いを繰り出す。穢れがなくとも、その目には不安の気がくっきりと表れていた。
「怖いっつうか、気分悪ぃな」
でも、と夏樹が付け足す。
でも――。
「どうせ、気に掛けるだけ損だろうよ」そう言って、夏樹は自分の席へと足を運んだ。
九月一日。
午前八時二十五分。
公立中目黒高校、二年三組在籍、村上夏樹。
どちらかと言われれば用心深い性格の彼が、この工事を怪しんでいたのも、ほんの数十秒間のみであった。
教師と業者、更には学級委員が一丸となって敢行しているドアの補強。――それは廊下側は黒く、教室内側は白い、そんな壁のような機械をドアに万遍なく、もとい隙間なく設置する工事のことである。