【18】 『試練合格者を確認』
【2,青コイン】
【差別をやめよう平等社会。命とチャンスは公平河海。それならやる気が出てきたかい】
ねっとりとした糊が分泌される。よって殆ど水っ気が残っていない口内で舌の動きは鈍らされた。だらといって何がどうなったのかとか、これといって大袈裟な衝撃に夏樹は苛まれたわけではないのだけれど、だがしかし、それに感化されたかのように、物事を判別する脳がとろとろに蕩け、鈍ってしまったようで、彼は人並み以下の判断力で息をしていた。
酸素を吸い、巡らせ、吐き出す。
スピーカーのカウントする数字が秒刻みで減っていく。
七、六、五。……四、三、二。カウントダウンの非情さと云ったらない。一、ゼロと数え終えるまで仕事、義務は全うし、処罰と称して対象を死に至らしめるのだろう。
せめて。
夏樹が一般平均よりも僅かにお人好しで、他方、臆病でなければ。このさき訪れる結果に、顛末に、泣き痛み喚き、我が身を呪うことは無かっただろうに――。
――【委託】か【強奪】かだって? なんだ、なんのことだ。
……否、質問の意味をぶつける動作対象は紛れもなく潤の拾った赤コイン、および三恵潤本人そのものなのだろうけど、俺が理解に苦しんでいるのはそこではなく、もっと上面の部分。スピーカーの指示そのもの。指定だか指令だかそのものに対し疑問符を浮かべたのだ。
スピーカーからの指示。まるで二択を迫っているように聞き覚える。
そんなはずはない! これに選択肢は存在し得ないじゃあないか。
仮に。もしも、俺が【強奪】を宣言したらどうなるのか。……なんて分かり切っていることだ。
だって月島が自ら注意を促していたのだから。『禁止』だと、つまり潤は刑罰を執行されるのだと、そういう事なんだろう。潤は歪んでも親友だ。根幹によこしまな思しをひた隠ししようとも、『親しい友』、そう。親友である。
親しい友人が刑罰に処される様子に知らんぷり。親しい友人を見捨てる、背信行為。――そんな偏った趣味は生憎持ち合わせていない。
ほらやはり。一見二択を迫っているように見せかけ、その実【委託】以外の選択肢は選ぶに選べない仕様になっているじゃないか。
殆ど水っ気が残っていない口内は舌の動きを鈍らせた。
「いたっ、いたく、いたく!!」たった三つの仮名を叫ぶだけなのに舌が足らず、呂律の乱れた調子で夏樹は続け様に【委託】を宣言する。と、素早く放送が流された。
『コインの委託を確認しました』それに教室中が動揺したのを感じる。
特に龍治の反応は分かりやす過ぎで、見るからに驚きを隠せない面構えであり……わなわなと握り拳が揺れ、大股数歩で急接近し夏樹の襟元を捻じりあげた。
「てめえ。なんのつもりだ、なんなんだよ、あぁ!?」
体格では大差ないはずの夏樹ではあるが、喧嘩慣れが所以の龍治の腕力では爪先立ちにならざるを得ない。ふらふらと、体が揺れる。
「お、お前こそなんだよ……。がッ……暴力は禁止行為だ、やられるぞっ」
「知ってるよんなことあ! だけど……だけどよお、てめえはあ――」凄んだ龍治は鬼の形相、まさにそれであった。「――よりにもよってコインを、潤に無償で譲っちまったんだぞ。自分が何をしたのか分かってんのか、なんのつもりなんだって聞いてんだっ」
「譲るって……」
口から発射された唾液が顔に纏わりつき、大々的な声に耳が痛む。
夏樹は黙って睨み返す。かぶりを振る。彼は腹が立っていた。
「見てたんだろ、だったら分かんだろ!」
「いいや、分かんねえな。てめえの脳味噌が蛆虫並にちっぽけだったって事ぐらいしか分かんねえよ!!」
「な、んだとぉ……」憤慨衝動をぎりぎりで圧し、龍治の握った襟を引き延ばしつつ白壁のドアへと身を捩る。「――ひっ」
水を向けられたもやし体形の彼は、ただでさえ心許ない胴回りをクロスした手で抑え、ひっそりと佇んでいた。――じゅん! 夏樹は彼へと引きつった笑みで語り掛ける。まだ多少の余裕を纏った笑顔だ。
小野寺龍治の言い分も一理ある気がしないでもない。
辛うじて手にした赤コインをみすみす手離すなんて愚の骨頂、それが為の怒り様は理に適っているだろうし。第一に潤の人間性を否定している節があるのだから。
廊下で後ろ姿を見かければ尻を蹴りあげ、教室で無意味に時間を潰していた彼を蹴りとばし、そのつど夏樹か恭介か……義心に厚いかえでが割って入って、仲裁して。そんな事だから、龍治は潤が嫌いだし、その逆もまた然りであって。そこには信頼の頭文字もない。
その分、夏樹にはあったのだ。
ごっこ遊び。嘘の親友ごっことは云え、そこに確実的に芽生えていた一種の信頼関係が――では誇張表現にしろ、ある一定の安心感、無害な小動物を前にした時のような『決して己へ危害を加えない』といった微妙な余裕が。夏樹にはあったのだ。
――じゅん!
夏樹の余裕ある語り掛けに、沈着を欠いた親友は伏し目がちに彼へと視線を送り、すぐに外し、首を垂れる。もごもごと頬を内側から噛み、膝を揺らす。
「悪いけど、そのコインだけは譲れないんだ! 拾ってくれたのに、ほんっとゴメンな」
「………」
「怖い思いさせて悪かったよ、謝る。だから、早く返してくれ」
「……え」
「ほら、早く! 時間がヤバいんだ」
「………――」
だんまりの親友は、呼起する親友を振り切り黙秘を決め込んでいる。思いつめた様な思案顔。――と、そんなこんなで異彩を放つ潤。これに対し三組の生徒が、龍治が、誰しもが。忍び寄る不穏な調和を恐れていた。
たった一人、夏樹を除いては。
余裕を残す、夏樹を除いては。
・・・・・・。
・・・・。
音もなく、なにもなく、ゆっくりと夏樹の余裕が、信頼が薄らいできた頃合い。
沈黙を潤が破った。「――なあ、夏樹」
龍治の五本指が制服から解ける。
表情の冴えた夏樹は、心置きなく親友へと向き直った。「どうした、潤」
「俺等って親友だよな。……親友って『親しい友』って書くんだよな、なあ、夏樹」
「ああっ、そうだな」
「――じゃあさ、あのさあ。だったらさ、友達が困ってたら、そ、それを助けるのが親友だよな。だ、だって親しいんだもんな、そうだよな。おれ、なにも間違ってないよな……なあっ」
夏樹が一歩、親友へと歩み寄る。
「その通りだ。それなら早く、赤コインを渡してくれ。とても困っているんだ――」
潤が一歩、親友から遠ざかる。
「――じゅん?」どうして俺から逃げるんだ?
掴み所のない違和感が下腹部を固くする。刹那、電気のように駆け抜けた最悪の展開。ストーリー。常識の破綻。
当たり前だと高を括っていた常識に裏切られる、裏切られた者にしか分からない脱力感。息がひくひく詰まり、どっと汗が噴き出すこの感じ――。根拠ある悪い虫の知らせ――。
夏樹は再度、口を開く。「どうしたんだ、じゅん?」
「――お、おお、俺が助けてやっからな。こ、困ってるんだからさ、夏樹が、だったら、俺が助けてやるからな。安心しろ、なっ、俺が、助けっから……」
慌てふためく潤は、呂律が可笑しいなんて次元の発声ではなかった。もっと滅裂で、必死で、精一杯で。必死に建て前を探していて、言い訳を乱立させていて――。まさか、嘘だろ……? 冗談だよな。
変なことを考えるな、やめろ、やめろ、じゅん。
「じゅんっ! そこを一歩も動くなっ」と、荒ぶる夏樹が言い切るより先に「おれ、職員室行って先生呼んでくる!」潤は逃げ出した。
駆け出した。
その先には教室の出入り口、平べったい補強済みのドアがあって。
「やめろ、ざけんな! ざけんな、ふざけんなあ! おい、止まれ、じゅんっ、止まれええっ」平べったい補強済みのドアがあって。
そのぴったり、手元の高さに窪んだ洞窟が空いていて。それはもう、自販機のコイン投入口の外観設計そのもので。誰でも、彼でも、そこにコインを通せば良いのだという結論を導くのも他愛無くて。
後方を振り返らず、潤は窪みへとコインを押し込む。彼には抵抗だとか、後腐れがないのだろう。次に、一同は騒然と沸き立つ。――白壁から安物のエフェクトが発せられたのだ。
ぷしゅー。空気の抜ける音。
そしてズズズゥー……っと重量ある物体と床の擦れる音。右の扉が、吸引されるように左の扉と一体化して……そんな過程を踏まえ、潤の目先でドアは神々しく、無情に大口を開いた。
そこへ即座に身を滑り込んだ、親友は。
嬉々として絶叫し、廊下へ雑に寝転がり。夏樹は絶叫し、膝から崩れ落ち。身を迫り出し、右手を白いドアへ、関節が軋むほどに伸ばして――。
ぷしゅー。空気の抜ける安い音。
ズズズゥー……扉は再び閉ざされた。
赤コイン一枚と人間一人の脱出を見届けてから、作業的に、与えられた役割に忠実に、二十八人の男女を閉じ込めた……『試練合格者を確認』
今となってはもう、逐一スピーカーへ視線を飛ばす輩も少ない。
多くても五人か、六人か。それだけの観衆の注目を受け、スピーカーからの放送は当然心なしか喋りが明るくなるわけでもなく、つらつらと切羽詰まったこの現状を、事細かに説明してくれていた。
『男子出席番号十六番、三恵潤による“ゲートⅠ”からの脱出を確認。赤コインを回収します』
時計の長針が【十一】を真っ二つに裂いた。
―――****
残り五分。
石像のように指先一つ、毛先一本動かない二十八人。
咳払い一つ、啜り泣きすらもない教室。
二十八人の聴覚は生きている。正常に活動している。
だが二十八人の感性では生きた心地がない。死者となんら違いのない時間経過に己を委ね、虚を仰ぎ、口を開かぬ観葉植物となっている。生きているのか。死んでいるのか。はたまた生きることを忘れ、死んだように生きているのだろうか。死んでいるのだろうか。――『彼女』は掠れた意識で、灰色のノイズが邪魔する。そんな三組の画に見蕩れていた。
牽制し合っているのではない。
遠慮しているのではない。脱力からの、絶望からの……逃避。思考の放棄、現実逃避。それに近いのかもしれない。一人残らず死んでいるのだろう。
コッ。コッ。コッ。
龍治が革靴を踏み鳴らす。歩く、歩く。そして止まる。
両の脚、両の腕を床と密着した夏樹の脇腹近くで止まる。それから言い捨てた。――もう比良乃は死ぬ。助からねえ。
虫の変死体でも見る目つきで、そう静かに言い捨てた。そして付け足す。――お前のせいだ、と。
うねった頬の溝を、ほろり、ほろほろ。
一滴の水粒が、龍治の顔をしたたる……。
次回――潤の裏切り。龍治の見限り。夏樹、為す術なし。
まずは一人、脱出成功。




