【17】 村上夏樹と小野寺龍治は悪徳漢だ
【2,青コイン】
【差別をやめよう平等社会。命とチャンスは公平河海。それならやる気が出てきたかい】
あらぬ力で、不規則に振り乱した拳。
ぬらりと拘束する指。大声を上げているのだが、その声を荒げているという自己見解も儘ならぬ錯乱、危惧、狼狽。それらが夏樹を殺す。徹底的に、ぬらぬらと……ぬらぬらと……。
「やめろぉおおっ――離しやがれぇえええっ!!」周りを顧みず、取り繕う余地もなく、夏樹は吠える。
しかし月島は、彼の五本指は、猛り立つ教え子を頑として解放しようとしない。普通ではない笑顔で、普通ではない首の角度で、夏樹の手首に走る動脈をぺちゃんこに潰し、ぬらぬらと……ぬらぬらと……。――むぅらかみくぅうん。
「あああああああっ!! はなせ……って言ってんだよおっ」と――すんなり。拍子抜けするほど楽に月島の呪縛は緩み、手の甲は重量感溢れる落下音を発して教壇を這った。
あれだけ頑丈に絡んでいたのが嘘のようだ。
左肩からみるみる体幹を倒し、水っ気ある音と共に血の海へと寝そべった。……とても、生きているようには見えない。脈を取るまでもなく事切れている。
――よくよく考えてもみれば、胸部からバケツ数杯分の血を噴水させ、さほど間髪を入れず脛骨を破壊された人間が息をしているはずがない……なのだから断言できよう。月島真史は死んでいる、まあ厳密には、死んでいた、と。
遡ること数分前、彼が己の両脚のみでは上半身を支え切れなくなり、胸に植えた出刃包丁をぐっと握りながらバランスを崩した時のことだ。
奇跡的にも――ではなく、悲劇的にも生じた不運によって壁という名の背凭れにあいあたり、背骨を擦るようにして、まるで着床する体裁で倒れ込んだ。というよりも、座り込んだと云うべきか。それから息を引き取り、彼は仰々しい屍へと降格した。
そういった朧ろげ程度の基盤なのだから、彼の座る態にあるのは不均衡そのものだ。つまりアンバランスである。小さなショックを被れば、いとも容易く座る体勢から倒れる体勢へと移行するのは自然の摂理であるから……。
胸ポケットに指を。
それも奥深くまで。――重点が一ヶ所に集い、彼の肉体は左側へとかしいだ。
そのまま夏樹の二の腕へと重なる。
出刃包丁の柄を握っていた片手がそこから外れ、やや開いた指が奇跡的にも――悲劇的にも『引っ掛かった』のである。云わずと知れた、夏樹の手首に、がっちりと。死後硬直が中途半端に始まっていたのが災いしたのだろう。親指は、人差し指は、中指は、薬指は、小指は怨念の鬼神と化して夏樹の度肝を抜いた。
正常な能力を焼く熱気、あと一歩の領域まで邁進したが為の客観的な判断能力の欠落。これらが恐れ戦く若者に、結果的にはありもしない幻覚を創り出させたに過ぎなかったのだ。
幻覚……夢魘……非現実……。
至極当然、月島真史は既に、俗世の住人ではなかった。
「あ、あぁ……ひぃ……」無様にも尻餅をつき、夏樹は教卓の前から逃げるように後退りする。まさしく命辛々といったさまである。眼だけは教壇に臥した担任に吸い込まれており、後頭部と金属製の机の脚とが衝突するまでは、肩で息をしっぱなしであった。
低声の苦悶があがる。「痛ってえ」と打撲した頭を撫でる夏樹へと龍治が忙しく近づいた。
「村上夏樹、大丈夫か? お、大丈夫そうだな、元々たいした脳味噌じゃあないんだし」
「……いってえ。大きなお世話だし、どっこいどっこいだろが」
「で、コインは!? 赤コインはあったのか?」と龍治が急き立てたあわや、ほぼ同時に夏樹は半開きの右手に何も感触が宿っていないことに気付いた。きゅっと胃袋が重圧で圧縮される。短時間、浅いパニックに陥った。
そんなはずはない。
無い筈がない。赤コインはどんぴしゃり、月島の胸ポケットに隠されていて、その曲線を描いた輪郭を指でなぞったのだ。絶対にだ、気のせいなんかじゃあない。――無くてはならない、確かに厳存していたのだから。
つい今まで――そう、不愉快な幻に驚かされるまでは。二本の指でコインの両サイドを摘まんで、それから……でたらめに幻影を振り払って……。それから……。あっ……。
「ああっ!!」食道に突っ掛った小骨がとれたように、もやもやとした薄霧の立ち込めた記憶の一部始終が呼び起される。が、それによって満足感に浸かることはなく、むしろ焦燥感に駆られた。
痛切に取り乱した自分を恨む、悔いる。愚かだ、頓馬にも程がある。――しまった。しまった、しまった、しまった。不味い、不味い、不味い。
「ど、どうしたんだ夏樹。さっさと教えろって、コインはどこに……」
「投げちまったんだよ、きっと俺が阿呆丸出しで夢中に腕を投げ出した時だ――手元を離れて、まだその辺に転がってるはずだ! どこにある、どこだ、どこだっ」
「はぁあっ、なんだよそれ。ふざけんな!」
「どこだ、どこだよお。探してくれ小野寺、急げっ、なあ頼むよ、探してくれえ」
頭の天辺から脚の爪先まで、燎原の火のように爆発的に広がった自己嫌悪。思わず半べそをかく始末で、出産直後の小鹿がごとく眼球をあっちへ転がしこっちへ転がし這い這い。匂いを嗅ぐ警察犬もどき、相当に夏樹は参っていた。
プライドを捨て、外聞も打っ棄る夏樹に腹が立つも、龍治は哀願されるがままに黙って目を光らせる。――赤コイン、赤いコイン。心覚えするワードを小音量で呟く。と、「さっきからなにしてんだ、おいっ……おいぃ! お前らの事だよ、訊いてんのかっ」後方から誰かの怒声が射出された。
男の嗄れたものだった。すると男子学生だけじゃない、あからさまに夏樹と龍治の行為を咎める声は四方八方から飛び交っているではないか。
――てめえら揃って抜け駆けかよ。――自分でやってて嫌にならないのかしら、一体なんのつもりなの。――もうお前なんか友達じゃねえ。――自分が良ければそれでいいのか、善がってんのか悪党。
――コインを独占しようとしたんだろ。
――自分達だけ助かりたかったんだろう。
「――村上夏樹と小野寺龍治は悪徳漢だ」誰かがそんな事を叫んだ。張り上げた男の声だった。
「――繰り返す、村上夏樹と小野寺龍治は悪徳漢だ! 全員でコインを探すという潔癖なる決まりを破棄し、自身の保身へと逃げた愚漢なのだ! みんな、悪に負けるな、遅れをとるな! なんとしても先にコインを奪取するんだ、急げえっ」
「どこかに赤コインは落ちています、あの男が話しているのを訊きました! 急ぎましょう、君たち青少年少女が卑怯者に道を譲ることはありませんからっ」他の男が発破をかけた。誰かは分からない、だが先程の男同様、自分を敵と見做しているとは図らずとも知り得た。
益々腫れぼったく膨れ上がる、恐れにも似た焦り。
尻に火を付けられた心境だ。残り時間も六分を切ろうといった猫の手も借りたい現況にして、クラスメートから非難を受けようとは――。夏樹の片目から……ぽろり。透明な水玉が流れ、それは涙だと認識した。何が原因の落涙かは断定に困る……だが、とにかく胸が締め付けられる辛く、哀しい、耳を覆いたくなる苦行だ。
「タクっ、私達も探しましょう。二人で力を合わせればあんな奴等には負けないわ」莉奈子と巧巳のカップルが参戦したようだ。
教室内に隔離された三組の面々、そのほぼ全員が床に視線を落として同一の対象を隈無く模索しているのだから雰囲気は戦々恐々としている。その上、メンバーの不特定多数と対立を喫しているのだから心が痛い。もう嫌だ……すべてを投げ出し、逃げ出したくなる。しかし逃げる場所など存在し得ないのだから、これは空しい妄想話になってしまって……。
――それにしても、コインが見つからない。
ここ付近は調べた。机と椅子の下も調べた。膝で踏んでいないか調べた。……ない。
ない、ない、ない。何処にもない。――ならば教壇だろうか。
もしかすると月島の胸ポケットから抜いたコインを、抜いた直後に血溜りへと又もや落としたのかもしれない。それはない……とも言い切れないパターンだ。
とても憂鬱だし悦んでとは云えないが、背に腹は代えられない。
再度、接近を試みるしかない――夏樹は決意する。俺が的中させた隠し場所だ、俺が赤コインを手にして然るべきだろう。――と、『コインの移動を確認』……さっと血の気が引き、顔が左右に大きく揺れた。それは夏樹の不意を突いた放送によって齎された、遠隔からの襲来であった。
涙の後が薄く残る夏樹の目が、龍治の瞳孔が濁った目が、中性的な声色を発したスピーカーへと向けられる。幾多の生物が固唾を呑んで意味もなく警戒する中、スピーカーは台本を読み上げるように(というか事実、常套句を並べ連ねるだけだ)無感情に、一定のテンポで、機械的に宣告した。
『男子出席番号十六番、三恵潤による、男子出席番号十四番、村上夏樹の有するコインの移動を確認』
(コイン所有者からのコイン強奪も禁止だ。ここ重要な)月島の台詞が一字一句余す処なく、脳裏を瞬時に通り過ぎた。
夏樹は呆けた顔で首をまわしてみる……と、教室の前方ドアの前でぱちぱち瞬きする親友――潤が視界に入ってきた。その手には、二本の指で両サイドを摘まんだ、両サイドを摘ままれた真っ赤なそれ――赤コインが月島の血に濡れて、一風変わった色彩を醸している。
『十秒以内に――』と、スピーカーは続ける。淡々と、機械的に……。『十秒以内に――コインの所有者は第三者に対して【強奪】もしくは【委託】の宣言を完了させて下さい。――時間内に宣言を完了させない場合は、コインの所有者、およびコインを有する第三者を違反扱いとします』
カウント開始、十、九……。
夏樹は一瞬、自分はスピーカーの主に何を求められているのか、なにが最善であるのか、理解に苦しんだ。
次回――【強奪】か【委託】か、夏樹に迫る究極の二択!!




