【16】 はあい、ざぁあんねえん
慣れない一人称視点&謎解き回。
『赤コイン』に至る過程で、あれほど紆余曲折を経たり肝を冷やさざるを得ない事態に発展しようとも、いざ暗号を種明かししてみれば、なんてことはない、暗号と称するにはあまりにお粗末な子供騙しであった事に気付かされる。
なぜ、というのも。
コインの隠れ家へと誘うヒントは、すべからく誰しもが怪しいと踏み、クラスの誰もが剣呑がままの眼光を照っていた対象物――つまりは『黒板に板書された短文に施されている』といったものである……だから恭介は、美野助は、巧巳は、ひいては多勢のクラスメートが男女問わず目の色を変えて教室中を引っくり返した。――その成果として、結婚指輪でも納品されていそうな小振りの『赤い箱』『青い箱』を発見する。したらば彼等は奇しくも、折しも早合点した。……この中にコインはある、と、空虚なる誘惑を喫してしまった。
赤コインは赤い箱の中にある。――勘違い。
青コインは青い箱の中にある。――御門違い。
……悪意をひしひしと感じるミスリードだ。よほどコインを死守したいように見受けられる。
村上夏樹のように――俺のように生意気にも斜に構えた人間でなければ、この根本的本質詐称には、その微々たる可能性ですら喚起は困難であっただろう。そう思う。裏付けるように、相変わらず我を忘れて小箱に搭載された計算問題、漢字パズルに専念している顔触れが揃っているのだから。
さも当然のことで、それを超えた先にはコインの欠片もないわけで……いたたまれない悲観に毒されるのも、時間の問題であって。
少々あらぬ方へ脱線した話を戻すと――既述した通り、かの文は暗号と称するにはあまりにお粗末な子供騙しであった事に気付かされる。いや、子供でも教養の有無によっては惑わされないのかもしれない、という位に浅く、且つ厭らしい子供騙しだ。
単刀直入に、そうだな、これは子供騙しであって暗号ではないと言い切れる。
なぜなら暗号とは、そのもの自体に暗喩された法則を解したり、別途に思われた無印の記号を「あっ」と驚く逆転の発想でぴったり嵌める、其れとない手掛かりを足掛かりに真実を組成するといった、云わば……羅列された字面の表面を事細か丁寧に釈義するのではなく、その裏に潜んだ、暗にある別のニュアンスを汲むといったもの。
それが暗号であり、暗号を解くにあたっての心構えだからだ。
ところがこの文章は、しつこく念を押すように、暗号ではない。
絶妙に真意をカモフラージュされた、暗にある別のニュアンスを汲む、暗号ではない。そうなると、この駄洒落が見え隠れする語呂のよい小文は『なに』を意味しているのか……。
いったい、『なに』を意味して……。
と、これも前記したように深く考察したら負けである。
……疑っては駄目なんだ。
嗚呼、そうだったんだ、それだけのことだったんだ。
『これ』は暗号にあらず、したらば『なに』を擬えていたかなんて――もう分かるだろう。
『直観力と推理力、これに長けてりゃやい容易。胸中秘めたる故意使い、見いだすべきはもとい甲斐』
……これがそのまま首尾一貫ことごとく、赤コインの在り所を示した『答え』なのである。
洒落も華も持たざる貧相な答えに「あえて遠回しな言い回しを用いている」と、それだけなのだ、この文章は。種明かししてみれば、どうという事はない。
ならば喚起すべき行動は限られたもので、「遠回しな言い回し」を「貧相な答え」に逆戻りさせてしまえば良い――答えに上乗せされた余分な贅肉を根こそぎ落としてしまえば良いのである。となると、つまりはこうなる。
『直観力と推理力、これに長けてりゃやい容易』これの余分な贅肉を根こそぎ落としたならば、『直観力と推理力に富んだ者には容易いことである』となる。
『心中秘めたる故意使い』ならば、『胸の内へ“意図的に隠したコイン”を使い』となる(のだが、この場合、前者の“故意とは”、辞書的な意味である“意図的”もしくは“わざと”と解釈してやるか、もしくは荒業ではあるが語句の響きから“コイン”と置き換えてやるかで迷う処ではある。そこで決めあぐねた俺は、両者のニュアンスを半ば無理に合致させることにした)
『見いだすべきはもとい甲斐』であるなら、『見つけ出せたのならば成果を得られる』となり、三分割したこれらを急場凌ぎの助詞、助動詞、接続詞、代名詞をもってして統括してしまえば――。
『直観力と推理力に富んだ者には、胸の内へ意図的に隠したコインを見つけ出し、それを使い、これに見合う成果を得ることなど容易いことである』と、このように綺麗にまとまるわけだ。
この答えによれば、『胸の内』をくまなく洗えばコインは見つかるとのこと。――なのだが、ここで新たな謎が浮き彫りになる。
さて、『胸の内』とは十中八九如何にも『胸ポケットの中』なのだろう――なぜなら読んで字の如く胸筋の内側だとすれば、それはつまり体内にあるぞと誇示したに同じく、入手するには比喩抜きに身を削らなければならない為だ。だったら漏れなく全員お手上げだろう、対抗する術が見当たらない。……よって消去法に頼った結果、『胸の内』イコール『胸ポケットの内』に落ち着いたのである。そこそこ妥当な機転であろう。
……であるからして『どこに』に関しての謎語は大雑把ながらに看破した。
……そして残る謎は『だれの』胸ポケットか、というビューポイントのみだ。
規定に則り、試練は教室内のみで行われているとする。
ならば三組の名を背負ったこの空間内に実在する胸ポケット、要するに今日、二年三組の教室へと登校してきた総計三十一人分の胸ポケット、合計三十一個の胸ポケットのいずれかに赤コインは存在するのかも――といった類推。考え得る中でいの一番に閃いたのではあるが、事実上不可能だという当たり前の断が下った。
村上夏樹、比良乃亜矢は云うまでもないこと、小野寺龍治の胸ポケットも空っぽに決まっている。
三恵潤も、門倉恭介だって……、猛然と扉の突破に尽力した鷹迫かえでや、そこへ爽やかに加担した芝浦元康も……、愛し合う木村巧巳も布佐莉奈子も、赤コインを所持していないからこそ一様に泡を食っていたのだろうから……。といった感じで、消去法でじりじり該当者を減らしていくとなると、自然に『だれの』胸ポケットであるかは焙り出されて――。
――二年三組担当教諭、月島真史。
彼しかいない、彼以外に考えられない――幸か不幸か先生の羽織った無地のワイシャツには、彼から見て左胸の上に胸ポケットは備わっていた。
これに継ぎ足し、記憶の連鎖反応は月島に携わる『ぎこちない』奇行を思い起こさせた。
彼は出刃包丁で胸板を傷付け、自刃し、虫の息で横たえる肉体にスピーカー曰く『刑罰を執行』されたとのことで、首を折られ、永久の闇へと精神を埋めた――って、ああ……やっぱりそうだ。月島の死は『特別』なんだ。
鷹迫かえで、芝浦元康への刑罰とは異なる、特別な条件での首折りであったのである。
特別な死。
特質な死。
……月島は切れ味抜群の刃物で胸を割った。……むね、を割ったのだ。――月島は、生命を司る神経の束が密集する喉ではなく、生存に必要不可欠な臓器の犇めく腹部でもなく、心臓部とはいえ頑丈な骨に守られた、よりにもよって激痛を禁じ得ない、即死は望めない部位、自殺には不適切な部位……胸に刃を突き立てた。他の何処でもない……胸に。
『ぎこちない』のは、それだけじゃない。
彼に巻きつく違和感の謎はこれだけではない。――ずばり『時間差』。
言い換えれば『タイムラグ』。そう、月島を処した刑罰のみ……かえでと元康が『試練内』で刑罰を執行されたのに相反し、先生は『試練外』で刑罰を執行されたのである。
スピーカーの声が『それでは始めて下さい』と告げるより前に――試練の幕が上がる直前に、彼は殺された。……それが何を意味するのか、俺は俺なりに考えてみた。
月島真史が、可笑しなことにわざわざ胸部を抉り――それによって胸ポケットを己が血で隅々まで浸す事に成功した。……それが何を意味するのか、俺は俺なりに考えてみた。
考えてみた末に、これしかないと思える彼の思惑に漕ぎ着けた。それは、否、それらはありていに言って――口封じ。
――生理的抵抗の助長。
月島がうっかり口を滑らせないように、あらかじめ彼の急所へ致命傷を与える。――こっちが口封じ。
月島の胸ポケットへ忍ばせた赤コインが見つからないよう、搾りたての鮮血を胸ポケットへびちゃびちゃになるまで浸からせる。――こっちが生理的抵抗の助長。
もう確定したも同然だろう。
まず間違いなく、月島の胸ポケットには赤コインがある。あるに決まっている。それ以外は許せない、認められない。……認めたくない。
赤コインは月島の遺体、その胸ポケットにある――。
今し方、口では些細な謙遜をしたものの、其の実、俺はこの目論みを信じて疑わず、膨れ上がった膨大な自信と龍治からの後押しとを背中で受け止め、気を抜けば卒倒してしまいそうな死臭を御した月島真史の心臓部へ――胸ポケットへ、手を差し伸べた。
蹠に血糊が絡む。あたかも月島の執念が血に溶け込んでいるかのようだ。
教壇に乗った、革靴を履いたはずの右足に沁みている。足の甲から指にかけての接合部分、それと指の付け根裏が特に、ねっちょりと粘着質を帯びたそれによって嫌悪感が弱火でふつふつ音をたてた。
親指がポケットのへりに接触し、夏樹の緊張は峠を迎えた。死者の衣服に生者が干渉を試みる……その事実の重要性にやっと気が付いたものの、乗り掛かった船を途中下船しようものなら、待っているのは空騒ぎする骨折り損の『ない』もの探しなのであって。そんな選択肢は頭の隅にもなかった。
赤コインは、眼前の胸ポケットで気配を消しているのだから。
鉛が指先に埋没しているのか、異様に震え、異常に重い中指の角度をひらく。
鉤の形にするべく第一、第二関節を折った。これは死霊の隠し財産を盗掘する、唯一無二の道具である。彼は右利きだ。
強力な睡魔に襲われたかのように後頭部がむず痒く疼き、耳の奥では不可抗力の耳鳴りが、がーん、がーんと暴力を振舞っている。竦む己を勇み、鉤となった中指を胸ポケットの口へ放り込む。綽々然とポケットは指をしゃぶり、むさぼり、その半身を享受した。……ぬらぬらと、だがべたべたと、月島の血は糸をひいていた。
ぞっとする。
指先の感覚神経を稲妻が如く信号は奔走し、脊髄を駆け抜け、脳細胞を殴った。――コインの手応えを良しとせず、夏樹はムキになって筋肉の縮こまった体を前傾し、嫌々中指を、ぐいと幽界の洞穴へ食らわせる。ポケットの外から親指で、内から中指でシャツを隔ててコインを擦り上げようという作戦のようだ。その指に、妙な手触りが。ぬらぬら……ぬらぬら……。此の世のものとは思えぬ奇妙なねめりが、涙腺をツンとつついて……、ぬらぬら……ぬらぬら……。
ぬらぬら……ぬらぬら……。
ぬらぬら…ぬらぬら…ぬらぬら…。――こつん。
あ、と喉を突いた声を咄嗟に有耶無耶にし、一瞬だけ指先に感じ取った『それ』を再度なぞる。なぞる……浅い凹凸が爪に食い込んだ。ぎざぎざとしている。どこまで擦っても断壁はなく、それが円形の弧を描き、丸みを帯びた物質であることが分かった。
その側面は薄く、平ら。……と、一度は我慢した喉を震わせ「やったっ」と夏樹はほくそ笑む。――間違いない、コインだ。彼は早々と勝ちを実感した。
肉の皺が鮮血を挟む。気のせいか、月島の胸の傷口からは際限なく液状の赤が体外へと追いやられている。これでは胸ポケット内にあるコインもただでは済んでいないだろう。試しに中指と、シャツ一枚を隔てた親指で摘まんでみる。が、やはりと言うべきか平滑で、手元をぬらりと離れてしまう。
もどかしい――。
頭に血が昇り、膵臓を起点とした如何ともし難い熱に苛々する――。
夏樹は更に肉体の傾斜を低くし、指を血溜りの脚下まで挿入して……、自分の重心を胸ポケットに注いで……コインを持ち上げようとした。
丁度その時である、彼が手首を掴まれたのは。
「うあぁああああ!!」肺がパンクせんばりの絶叫と共に、手首を『掴んだ』ものを振り払おうと無我夢中に右手を虚空で泳がせた。しかし手首を『掴んだ』それは、むしろ怨念深く、万力を彷彿とさせる握力で獲物を逃がそうとしなかった。
そう――。
人間とは思えない、異形の怪物としか思えない握力で……。ぬらぬらと……ぬらぬらと……。
『彼』は氷雪のように体温を一切感じない、節くれ立った五本の指で夏樹を捕まえ、折れた首を有り得ないほど激しく上下に揺らした。それから、逃げ腰の夏樹の方へと拉げた顎をむけ、片端を釣った邪気のある笑みで、『彼』は怒鳴るような、楽しんでいるような抑揚で、教え子へとこう語った。
――はあい、ざぁあんねえん
容姿は劇的な変貌を遂げたものの、その肉塊に抉じ開けられた穴から発せられたのは、まさしく月島真史の声そのものであった。




