【14】 三恵潤の見る教室
※次回への布石を打つ回ということで、わりかた短いです。
【1,赤コイン】
【直観力と推理力、これに長けてりゃやい容易。胸中秘めたる故意使い、見いだすべきはもとい甲斐】
【2,青コイン】
【差別をやめよう平等社会。命とチャンスは公平河海。それならやる気が出てきたかい】
八時五十二分……十八秒。……十九。……二十。
現代社会における電子時計の精密性能は誓って信頼できるものであり、寸分の狂いなく秒針は淡白な音を発しつつ、その時を刻んでいる。
まさしく正確無比の時刻を正確に知る、唯一の手法であり大発明だ。これがなくては生活に大きな支障を来す事であろう。それほど肌身離さず、そして無くてはならない道具である。――が、哀しいかな残酷で、そして無情な二面性とをあわせ持った道具でもある事を忘れてはならない。
小柄で華奢な三恵潤は、口角を下降させ、掛け時計を静観しつつ逆算していた。
忌まわしき試練が火入れされた時よりはやうつろい、長針は十を優にオーバーし、もう間もなく五十三分を迎えようとしている。四十五分にスピーカーからの開始合図が流れたのだから、五十三から四十五を引いた……八分間、およそ四百八十秒間、潤は羊を合計百匹も数えていた事になる。
月島から許諾された十五分という有限の時を、その五割弱を、潤はぶつぶつぶつぶつ唇を震わせながら羊をカウントしていたのであった。それはもう大きな、とても悔やみ切れない大きな痛手だ。
「ほ、ほっほぉう。これはまた、なんとまあ……。ご、ごほんっ。呼吸をおけ……、クールダウンするんだ、ミエ・ジュン……。サーイエッサーッ、ボスッ」視界を目蓋で覆い込み、潤は狼狽極まりない挙動でそう呟いた。
次いでゆっくりと、そーっと目を開ける。そんな彼の絵画はホラー映画をおっかなびっくり観賞する子供のようで、もうじき高校も卒業する男として示しがつかない事この上ない。
恐る恐る、今の時間は確かめる。
八時五十三分である。「あらまっ! あらまあっ!!」と素っ頓狂なコメントを残し、潤はやっとこさ自分が遅きに失した窮地に立っているのだと理解した。
「は、ははっ。羊に気をとられてたらこのザマだぜぇ! 後の祭りにも程があるだろお」と、がちがちのニヒルを気取り、言葉を付け足したのであった。
――それでもって、クラスのみんなは何に勤しんでいるんだ?
ぐるりと視線を散りばめてみれば、正座を崩したかの横座りをし、とても清潔とはいえない床に腰を下ろしたまま微動だにしない亜矢の姿が飛び込んでくる。その両目は虚ろに前方を見詰めていた。
彼女の視線の先には――教卓があり、ペンキを引っくり返したかの大量の赤黒い液体に没落する担任教諭の、変わり果てたそれ。咄嗟に、潤は不快感を覚えて別の方向へと体を向けた。
「うわっ……」地に伏せ、そこらの無機物と混合し同化した元康と、かえでを見つけた。
三組自慢のスポーツ万能コンビだ。第二学年の敷地内において、このアグレッシブな男女を知らない生徒は限られた少数に過ぎないだろう。あまりにも多くの名声を得ているからである。のだが、どのような経緯をへて地面に這うだなんて屈辱的なことをしているのだろう。そして何故、誰も二人に肩を貸さないのだろう。
そこはかとない違和感を醸している原因はなにか、潤は現場検証をざっと行った。それからだ、かえでと元康の首が明後日へと捻じれ、損傷していると気付いたのは。
月島を足すと、これで三人分の仏を拝んだことになる。
より一層、潤の脳みそは泥泥に掻き乱された。
このまま孤独に放置されていたら冗談では済まない厄病にまみえそうだ、だけど俺はどうすれば良い、と潤は逡巡し、結局は頼れる親友の元へ合流しようと落ち着きなく体を曲げる。どうやら夏樹は、教室の後方付近で立ちながらにしてノートに何かを記述しているように見受けられた。その表情からは焦燥に駆り立てられている様子が窺える。
「おい、終わったか!?」潤の体が自然と反応してしまう龍治の刺々しい声は、夏樹に食指が動いていた。「まだだよっ、気が散るから黙ってやってくれ」と、これは夏樹の怒鳴り返し。
はたと視野を広めれば、なにも夏樹と龍治ばかりが紙にペンとを使用しているのではなかった。
あっちでは巧巳と莉奈子のカップルが、こっちでは女友達同士で顔を寄せ合う三人組が、一人で男子学生が、十人は居ようかという大所帯が、雁首揃えて筆を進めている。潤は、置いてけぼりだ。
大規模なグループの中心には三組学級委員長の影もある。
門倉恭介だ。役職の都合上、彼が皆を統率しているのはすんなり呑み込める――手に持った青い箱はよほど大切な品なのだろう、まんじりと睨みつけ、離そうとしない――のだが如何せん、空気がぴりぴりしている。混ざる気にはなれなかった。
となると消去法で、夏樹と龍治のペアに籍を置くのが無難であろうと迷走した思考は行きついた。巧巳と莉奈子は論外だ。肩身が狭いだなんて可愛いレベルの居心地の悪さではない。油断すれば窒息死か圧死の末路を辿る。
「なーつきー!」潤は気持ち高音を意識した呼び掛けと同時に、親友へと足早に近づく。すると「気が散るから黙ってろっつってんだろ、ブッ飛ばすぞ」と、流れる小川のせせらぎが如く静かに、そしてナチュラルに親友は折檻による強請りをかけた。しかし絶句する潤へ顧みると、「……ああ。なんだ、ジュンか」と肩を落とした。
「『なんだ』とはなんだ! その気落ちした感じ!」しつこく絡む潤を疎ましく感じ、夏樹は獰猛な肉食獣の目つきで威圧する。
潤は蛇と対峙した蛙のように身を引いた。が、呑気におちおちしてはいられない。ワンテンポ遅れて彼の疑問は勢いよく決壊した。
「――っていうか、なにがあったんだよ、この惨状! もう二度と羊なんて数えねえから事のいきさつを教えてくれよ!! それと羊の正しい単位もな。『一匹二匹』なのか『一頭二頭』なのか曖昧なんだよ。……あ、それより、なあ! コインは見つかったのか? 教室からは出られそうなのかよっ!?」
「うるせえ、ブッ飛ばすぞ」潤の質問攻めは夏樹の暴言リフレインで素っ気なく跳ね返された。まさかの強調表現だ。――こういうふうな、率直な語句で他者をあしらう夏樹は決まってばつが悪い時であり、潤の頓馬な観察力ごときでも看破するのは容易い。余計な怒りを買うことを敬遠し、
潤はそれ以降の言及を遠慮する。
「いま……、やってる、ところだろうが。……邪魔すんじゃ、ねえよ……、集中……して……」と、夏樹は不良のカセットテープさながら断続的に呟き、それでも手は蔑ろにせず動かしている。仄かに紅葉した頬をみると、熱があるのではと勘繰ってしまう。この修羅場で龍治にちょっかいを出せるわけもないし、潤はどっちつかずの根無し草となり、ぴりっと走った痛みに胸郭を手で庇った。
静電気にも似たこの感じにも、もはや慣れたものだった。
――いくつになっても、一人ぼっちは苦手だ。
胸がむず痒く痛み、自分が透明人間に姿かたちを変えられた気がして、心身が凍えてしかたない。
深呼吸するだけで人目を憚る日があれば、いよいよ凍死してしまうのではと心がざわつく日もある。 ひとたび胸に穴が出現すれば、それは後から後から血を噴出し、生気も胆力も溢した空っぽの器だけを打ち捨てて霧散してしまう。
淋しい……。さむい……。なんで、なつきぃ……無視すんだよぉお……。
潤の、憂き目の念は空っぽの容器で見る見るうちに嵩を増し、次第にそれは業腹へと累進を直向きに突き進んだ。のだが、満潮に至るより早く夏樹は起立。
親友はペンを捨て置き、文字の綴った用紙にも目を暮れず、「――そうか。なら、コインの隠し場所は……」と、過呼吸に瀕した際の症状と似通った息の乱し方をし、意味有り気な短文を喉から衝いた。 なんだろう、幼馴染というのは考え方や感性までも同一化するのだろうか。
夏樹の微かに翳った眼差しは、幼馴染の亜矢と同様に――教室の前方の、教壇を上がった教卓の、更に前の板書してある黒板の、それらの境目で壁に凭れかかり、執拗に異臭と血液を迸らせる――担任、月島の死体へと向いていた。
『ナニ』かに閃いた夏樹のとった、驚きの行動とは!? 次回に続く!!




