シーイス公国動乱⑬
ラーナを含む特殊部隊の獣人族は、森の中で息を潜めていた。リシュナンテ達、指揮官や隊長達は更に後方で待機している。
最後の襲撃に犠牲は出たが、討伐隊を上手く誘引することが出来た。輸送隊を護っていたカール軍は、狙い通りシーイス公国領へと侵入した。
砦が建設されていたことは計算外だったが、カール軍は短期決戦をはかるため、一気に大戦力を投入してくれた。問題は無い筈だった。
――轟!
今にも、攻撃を開始しようとしていたカール軍。その前面に信じられない光景が起こった。見る間に膨れ上がる竜巻、立ちのぼる水柱、そして、天を覆う紅蓮の炎。
(あれは魔術師部隊による一斉攻撃なんてものじゃない。精霊術だ! それも、それぞれに特化した妖精種族が一斉に放たないと、あんなことにはならないっ!)
あまりの出来事に、ラーナ達は息をすることも忘れた。
そして始まる暴走。重騎獣が回れ右をして味方をその蹄にかけた。いくら鍛えられた重騎獣といえども無理はない。許容範囲を超えていた。
惨劇の後、迅速に撤退を決定した指揮官。ラーナは、思い切りの良さに感心しながらも歯噛みした。愛するリシュナンテの目的の一方が破綻しそうだからである。
カール帝国にシーイス公国を敵と認識させることには成功した。一番の作戦目的である。
そして、もうひとつ――リシュナンテの立場を窮地に追い込んだ『黒髪の精霊術師』の抹殺。戦闘に紛れて実行されるはずだった作戦が、戦闘自体が無くなってしまったのだ。
ラーナ達、待機していた獣人族の娘達に動揺が広がる。
《単身で突出する者がいます。あれは――『黒髪』! 目標です》
遠目の効く者が念話を発した。
リシュナンテから待機命令が出た。ラーナ達が様子を窺っていると、血溜まりの中から人が立ち上がる。カール軍の兵だ。助かるべくもない者しか残されていなかったはず。魔法陣は展開していない。精霊術による治癒だと判断出来た。
先程の精霊術だけでも、相当の魔力を消耗したはず。それなのに次々治癒術を使っている。完全に治癒された兵の数が増えていく。念話報告する者も、それを聞くリシュナンテも驚嘆の中に怖れと畏れを抱いた。
そして命令が下される。
油断を誘い抹殺せよ、と。
事前に獣人族に甘いと、直時の趣味趣向は伝えられている。それでも、直前に見た光景が、彼女達の身体を強張らせていた。本能的に敵う相手ではないと認識していた。
手を出せば死、在るのみ――。
同時に、偽りの愛情で心を囚われていた彼女達は死を厭わなかった。
しかし、死の形には拘った。
《リッテ、あいつは私達が必ず止める。だから、貴方の手でとどめを刺して!》
ラーナは懇願した。愛する男の手に掛かって死ぬならば本望だ、と。
次々に同意の念話が、他の隊長、副隊長達にも届く。
男達は迷った。情では無い。後方で潜伏している自分達の安全。それが不意になるかもしれない。代わりに『黒髪の精霊術師』を討ち取ったという名声を手にすることが出来る。
数瞬の後、リシュナンテは同意の念話を送った。何より、手ずから直時へ引導を渡す事が出来る。その誘惑に抗えなかった。
少しでも罠の成功率を上げるため、自らを傷付けた娘達。その中にラーナもいた。
(隙があれば私が! その後、リッテが私を殺してくれる――)
決意と共に踏み出すと、たちまちカール兵に囲まれた。割って入る『黒髪』。
彼は心配そうにラーナへと駆け寄り声を掛ける。
(ガラム? 兄? 誰のこと? 何か、何か……。駄目! これで私の想いは完結する!)
幾つかの言葉に頭が痛くなるが、直ぐにリシュナンテのことでいっぱいになる。
ラーナは、よろめく素振りで急所を狙った。低い体勢からの狙いは、鳩尾から心臓を突き上げるか、首を裂くかだ。
(っ! 腕が邪魔!)
直時は両腕を密着交差させていた。所謂、クロスガードの形である。心臓と頸部が防御されていた。
ラーナとて、腰の入った攻撃なら骨ごと急所を貫くことが出来たが、所詮は不意打ち。致命傷を与えることが出来ない。
内心で舌打ちしたラーナは頭を低くして胴体へと抱きついた。しっかりと両手を回し、魔力を爪に――。
直時の脇腹を貫いた爪でがっちりと捕まえた。同時にリシュナンテへと叫ぶ。ありったけの力と想いを込めて――。他の娘達が続き、直時へ全員が突撃した。
攻撃魔術の発動を感じて、ラーナはキツく目を瞑った。
死の瞬間は――来なかった。
「砦の防壁を抜けない程度の魔術じゃ、火力が全く足りないよ。しかし、玉砕覚悟とは思わなかったなぁ」
苦り切った笑いを見せる直時に、ラーナが呆然と顔を上げた。
陽の光を遮る岩壁がリシュナンテ達の放った攻撃魔術を完全に防いでいた。土の精霊獣、岩亀のゲンが誇らしげに首を大きく伸ばしていた。瞬時に発動した精霊術は、直時ではなく、ゲンのものだった。
「傷がっ?」
貫いたはずの胴から出血は見られない。
「最近はずっと治癒術を使ってたからね。異物をそのままに、周辺組織の治癒と痛覚遮断くらいなら軽いもんだよ。刺された瞬間は、すっげー痛かったけどね」
絶句するラーナへ言った。
ラーナの爪が刺さった瞬間から、直時の肉体は損傷する毎に修復を繰り返し、生命維持を至上命令として実行した。
直時は、胴体に回されたラーナの腕を広げた。呆然とした彼女は為すがままだ。魔力で伸長した爪が抵抗もなくスルリと抜ける。体組織の収縮が無いのは、治癒術が完璧に発動しているからだ。身体に空いた穴は、直ぐに消えた。
この時点で、ラーナの戦意は折れた。リシュナンテ達の攻撃魔術が防がれ、油断を誘う自傷さえ瞬時に治癒され、無力感に身体から力が抜けた。他の娘達も力の差に腰が砕けている。
フィアが不安を見せながらも、おとなしく直時の単独行動を見送ったのは、異常に上達した治癒術と精霊獣の存在があった。
治癒術に関しては、極めていると言っても良い。
保護獣人族への治癒以外に、現在も左腕復元のため試行錯誤している。当初、本人は「まあ、いいか」と、考えていたのだが、フィアのなんとも言えない視線に耐え切れなくて、己の身体を実験台に、自傷と治癒を繰り返して完全治癒への道を模索していた。
当然、痛いのは嫌だ。傷も早く治る方が良い。その結果として、瞬間鎮痛と瞬間治癒に特化してしまった。今の直時は、即死でない限り負傷を認識した時点で治癒術の行使が可能である。
非常識な保有魔力と精霊との親和性により、「殺られる前に殺る!」ではなく、「死ななければ後はどうにかなる」という無茶が押し通せた故である。
「しかし、俺のことはともかく、獣人族を害してまでリシュナンテに与するかぁ?」
直時の疑問へ、ラーナ達が複雑な目を向けた。
獣人族と普人族の関係を思えば仕方ない。因みにアルテミアは、リシュナンテが確立した従属方法まで教えてはいない。
「どんな洗脳かは知らない。貴女達への対処は保留する。ガラムさんの悲壮な様子を聞いてもいるからね。けど、指揮官には責任を取ってもらう」
直時は攻撃魔術が放たれた方角へ、険しい顔を向けた。
直時も、殺し合いが頻繁に在るこの世界において、殺すことの必要性は納得して受け入れた。実際に両手では足りない数を殺しもした。
それでもなお、躊躇無く『殺す』決断が出来るほど馴れた訳ではない。くだらない理由でも良い。妥当だと思い込む事が出来る言い訳を必要とした。
そして、忍耐の結果得た『反撃条件』をクリアした。
明確に向けられた殺意。その行使。
一度決意した直時は、その相手に対して、牙を剥くことにそれまでの躊躇は無かった。
直時から溢れた魔力は地面へと吸い込まれた。土を材料に太い筍状の岩が一面に生える。やたらとずんぐりとして太い。それらの周囲に風が纏い付き、高速で旋回を始める。勢いを増した風は、岩筍を根本から折り取った。地面に近い低空で唸りを上げて回転を始める。
――ヴヴヴヴ……、キュィィィー。
不気味な低音が高音へと変わる。
「カール帝国宮廷魔術師リシュナンテ・バイトリ。肩書きがハッタリじゃないなら防いでみせろ!」
――ヒュンッ!
風切り音を残して、直径約四五センチメートル、高さ約二メートルの筍型の岩が放たれた。
ラーナ達が悲鳴を上げた。
リシュナンテを含む、特殊獣人部隊の士官はカール帝国の正規軍人である。そして、兵である獣人族は皆女性であり、士官は情人を兼ねるため男性であった。
ただのヒモではない。精神操作系の禁呪を扱えるだけの技量をもった魔術師達である。まして、宮廷魔術師としての序列は低いが、実戦経験豊富なリシュナンテが率いている部隊だ。乾坤一擲の攻撃をしくじった時点で即座に撤退を決意。移動系補助魔術により高速で離脱中であった。
彼等の誤算は、直時の精霊術を見誤っていたことと、改造人魔術による警戒魔術の索敵範囲を知らなかったことである。
高速移動の妨げになるが、森の木々は遮蔽物として有効だと判断していた。速度は落ちるが、何もない平地を逃走する場合とは、安心感が段違いである。
――キィー――ン。
甲高い音と共に、彼等は判断の甘さを身を持って知る。
風切り音と共に大質量体が、空気を押しのけて飛来した。
破壊は突然だった。巨木の幹が砕かれると同時に、地面が爆発した。
当たり前だが、炸薬は入っていない。質量弾が衝突し、運動エネルギーを開放した結果である。人魔術による高速移動で離脱中の彼等には、単発ならまだしも面の広さで同時に着弾し、破壊を撒き散らす攻撃に対処する暇は無かった。
幸か不幸か、巨弾の直撃を受けた者はいなかった。しかし、散弾の如く襲いかかった石礫は、彼等の身体に深く喰い込んだ。
リシュナンテ達の悲鳴は、鋭敏な聴覚を持つ獣人族の娘達へ届いた。それぞれが、上官であり、想い人である男の名を叫んだ。駆け出そうとする彼女等の足首を、岩の手が掴んだ。直時の精霊術だ。
次の瞬間、間近で呪文が聞こえ、魔法陣が光った。ラーナである。
(攻撃魔術? 人魔術程度ならっ)
直時は飛び退くと同時に岩壁で隔てた。彼の精霊術の方が早い。
直接攻撃での急所攻撃なら避けられたが、攻撃方法が多岐にわたる魔術ではそうもいかない。精霊術での防御を取った理由だ。
しかし、防御のための岩壁はラーナの姿を隠す壁にもなった。
「しまったっ!」
直時が短く叫んだ。
彼女の攻撃目標は直時ではなかった。捕まえられた自身の脚だった。氷の刃はやすやすと片足を切り落とし、逃れたラーナは、両の手と無事な足だけで見る間に駆け去った。
同じ方法を取ろうとした者が出たため、直時は足の縛めを解除。即座に岩のドームで覆い、彼女達を閉じ込めた。念入りに闇の精霊術で影を拘束し、抵抗を封じた。
「直ぐに追うわけにもいかないか……」
捕縛した獣人族の娘達と、息のあるカール兵の治癒。直時はラーナ追跡をミケに念話で頼んだ。
防壁の上では、やきもきした様子のフィアがいた。直時からの念話は彼女も聞いている。
直時が外でカール兵の救護と治癒した彼等への警戒、フィアが砦の防衛という体制だ。二人に隙がなければ、外敵の侵入は有り得ない。入植者の護衛と、比較的負担の少ないミケにラーナ追跡の役が振られた事は妥当だろう。
ミケは門を開けず、外壁から飛び降りた。音も立てず着地し、ラーナを追う。
「気を付けてっ!」
フィアが声を掛けた。そこへアルテミアが近付いた。
「ヒビノが使う精霊術は、風と闇だけでは無かったのだな?」
「――そうね」
フィアの返事は素っ気無い。視線は走り去ったミケと直時へ向いている。
アルテミアの疑問も当然だろう。リスタル戦役で一躍有名となった直時だが、ヴァロア空中騎兵団への攻撃は風、そして、『リスタルの悪夢』と称される原因となったのは闇の精霊術の暴走である。
他に地味だが支援の人魔術を掛けまくっていたことに、異常な保有魔力量があった。一部の者には、魔石鉱山を隠し持っているという疑惑も掛けられている。尤も彼の装備等の目撃情報により、前者が有力だった。
アルテミアの疑問も流布する噂と情報部の報告で、直時が尋常でない魔力保有者と認識されていた。
普人族では稀にしか使い手が存在しない精霊術師。それも、二種類の精霊術を操る普人族。神器使いよりも稀有な存在である。
そして、それだけではなかった。
精緻な砦や住宅を作る土の精霊術、威嚇攻撃に使った水柱と炎舞は水と火の精霊術だった。
「普人族でありながら、彼はどれほどの神々から恩寵を受けたのか?」
単刀直入に言うアルテミア。普人族であるなら、純粋な保有魔力は少ない。それが劇的に増える理由は神々や神霊の『加護』しかない。
「タダトキは加護持ちじゃないわ。あと、普人族でもないからね」
「なにっ? 普人族ではないだと!」
フィアはさらっと爆弾発言を投下した。アルテミアだけでなく、真相を耳にした周囲の者達は大いに驚いた。
実は、直時を除いたヒルダ隊の面子で相談が在った。彼が普人族ではないことを、近いうちに公にするという話だ。フィアやヒルダから見ると、直時には神経質とも思える普人族への配慮があり、それが大きな足枷となっていると判断したのだ。ミケはもっと知見を広めてからと主張していたが、二人に押し切られた。
何より直時に『力』に見合った自覚を与える。そういう目的だ。
「外見に特徴が無いから仕方ないけどね。でも、普人族じゃない」
「いやっ、しかしっ! だがっ、そうなの……か? なら、彼は『何』なのだ?」
アルテミアがフィアに問う。
利用、抹殺、懐柔等カール帝国内だけでも意見が乱れ飛んでいた対象である。但し、普人族であるという前提があった。世界において多数派(人族の中では)となった普人族だが、彼等の力が及ばない種族は未だ多い。人族の中でも竜人族、高位妖精族、高位魔人族等への干渉は禁忌とされている。
知らずに『竜の鱗を逆撫でする』(虎の尾を踏むと同義)ということもあるのだ。彼女の動揺も無理は無い。
(確かにあれほどの魔力量。普人族だと言う方がおかしかった!)
しかし、アルテミアを始め、他の者が勘違いしたのも無理は無い。直時は冒険者登録に『普人族』と明記しているし、初めて会った存在が神霊メイヴァーユや妖精族フィアだったとしても、『社会』として接したのが普人族社会であり、その社会になるべく沿うように行動してきたからである。
波風を立てないようにと、配慮をし過ぎた直時にも原因がある。
(こ、これまでの謀でヒビノの不興を買っていたとすれば……)
アルテミアは、嫌な汗が滲むことを自覚する。
「『神人』よ」
「し、神人族っ? 何処の神々の? 伴侶となった種族は?」
彼の出自を知り、根本的な対応を変えなくてはならない。
しかし、大国カールの王族でも、知らない事は存在する。彼女の意識では、神人=異世界人という認識ではなく、あくまでも神々との落とし子である神人族という括りである。
「貴女に教える義理は無いわ。彼が言わないのならそれなりの理由があるのでしょう?」
フィアは、アルテミアの誤解をただすことを、敢えてしなかった。本当の事を説明するには面倒が多過ぎる。
この事実は、カール帝国、シーイス公国中枢へと即座に伝えられた。
僅かな混乱が生じ、その乱れが更に混乱を生むことになる。
大きなうねりに巻き込まれたひとつの悲劇。その終焉が訪れた。
手負いの獣のように、片足と両手を地に突いてラーナは駆けた。氷系魔術による影響で、自ら切り飛ばした脚の傷口は凍っていた。感覚は無く、痛覚も麻痺していたのは僥倖だった。目指したのは直時の精霊術が襲った森の中、その場所である。
幹を引き裂かれ、根まで露出した大木。擂鉢上に掘り起こされた大地。飛来した石礫が低木をズタズタにし、その中で呻吟する声が聞こえた。
「リッテ! 何処にいるのっ。返事をしてっ!」
ラーナは呻く男達、ひとりひとりを確かめた。彼女達を率いていた特殊部隊、その小隊長と副隊長達しかいない。かろうじて生きてはいるが、皆、酷い傷だ。
弾け飛んだ石が半身にめり込んだ者、倒れた大木に挟まれている者、生木の破片が突き刺さった者……。誰も彼もが血と土に塗れていた。だが、そこに探し人がいない。
「リッテはっ? リッテは何処っ?」
比較的傷の軽い男の胸ぐらを掴むラーナ。想い人に必死なため、相手の傷を考慮する余裕も無い。
「た、たいちょう、は――、て、撤退、した――。カール軍へ、救援、要請……。獣人、は、来るな……」
第二小隊の隊長が、自由になる左手でラーナを力無く押した。
リシュナンテと副官のヘルマンがいない。二人は動けない部下を置いて、攻撃を仕掛けていた輸送隊へと逃走していた。救援要請云々は、勿論建前だけである。
「リッテの怪我はっ? 無事なの?」
ラーナの意識にはそれしかなかった。
「止血しなが、ら、行った……」
途切れ途切れ答えた小隊長を解放し、ラーナはリシュナンテを追った。
「リッテの臭い! 見つけた! リッテーっ!」
片足でも虎人族の身体能力は高い。移動系魔術で逃げる二人に追いついた。
ラーナの声を聞いたリシュナンテは足を止めた。副官のヘルマンが小さく舌打ちする。術をキャンセルすることで、要した魔力が無駄になったからだ。二人共、出来るだけの治癒を施したとはいえ、人魔術のそれは精霊術には及ばない。リシュナンテもヘルマンも満身創痍。リシュナンテの傷の方が深い。片腕はズタズタで根本を縛っていたが、出血が止まっていない。
「ラーナ、良く生きていてくれた!」
リシュナンテは無事な腕でラーナを抱き止めた。耳元に軽く口付けし、彼女にしか判らないよう念話を伝えた。
いらつきを隠せないヘルマンへ、ラーナが向いた。呪文を唱え、魔法陣が編まれる。
「お前っ! なにをっ?」
現れた魔法陣はふたつ。ひとつはヘルマンの足元に、もうひとつはリシュナンテの足元に――。
『肉体再生』。治癒系人魔術最高位にして、触媒となる同種族の生贄が必要な術式。普人族にとっては大きな魔力を要する人魔術だが、彼等より魔力量の多いラーナにとって、負傷した現状でも使うことは可能だった。
リシュナンテは、万一を考えてラーナにこの術を覚えさせていた。
ヘルマンの足元に現れた魔法陣から光の粒子が立ち昇る。彼の叫びは途中で切れた。準備無しで発動した『肉体再生』は、健康な部位が触媒として供されるため、無事だった頸部を失ったのだろう。
完全に治癒を果たしたリシュナンテとは逆に、ヘルマンの肉体は虫食いのような形で転がっていた。適正な施術ならば、あるいは生きていたかもしれない。
「ラーナ、有難う。よくやってくれた」
「良かった……。リッテが無事で」
元通りになった身体を確かめるため、腕や足を回すリシュナンテ。その様子に安堵の息をつくラーナ。
「後は、僕がカール軍に合流するに不都合なモノは消去しないとね」
リシュナンテとしては、襲撃の実行犯である獣人族を連れて行く訳にはいかない。本当なら、残してきた正規の軍人である部下も始末しておきたかったところである。
「君が最期にと望んだ結末。今こそ叶えて上げるよ」
口角を釣り上げたリシュナンテは、攻撃魔術の呪文を唱えようとした。
その視界を覆い隠す影。影は高々と振り上げた手を、リシュナンテの顔面に叩きつけた。
「――っ!」
衝撃に地面を転がるリシュナンテ。金髪をまとわりつかせた頭皮が千切れ飛び、左の眼球が掻き出された。頬から入った鋭利な爪が、口蓋を裂き歯と歯茎の一部を削って通り抜ける。
「――このっ! 馬鹿がっ!」
異変を察したラーナの頭蓋を拳が襲った。一瞬で意識が持っていかれる。くずおれた彼女を苦渋の目で一瞥した人影はガラム・ガーリヤ、ラーナの兄だった。
獣人族が行き来していることを知り、ラーナの手掛かりを聞こうと近くまで来ていたのだ。ギルド経由でのミケからの念話で経緯を知り、駆けつけたのである。
「イひぃーっ!」
ガラムは、地に伏して痛みに震えるリシュナンテを軽々と片手で持ち上げ、焼け付くような怒りを込めて吐き出した。
「俺はなぁ……。お前のことを好きじゃ無かったが、嫌いでも無かった。腕だけは買っていた。軽い男だが、やる時にはやる奴だと、な……」
胸元を掴む手が震える。
「ははっ! 俺の目の玉は石ころか? まさか、女を利用して同族を生贄にする外道だったとはな……」
自嘲めいた乾いた声を絞り出す。
ガラムは、腕を高々と差し上げた。暴れるリシュナンテは、ガラムの腕を叩き、胴を蹴りつけるが微塵も動かない。
「ラーナがしでかした事は、兄も背負って償う。が、お前にその機会は与えん。与えてなどやらん!」
激昂したガラムの爪が伸びた。横殴りの一撃は、リシュナンテの腹の肉を削ぎ、中身をまき散らした。腸が飛び出し垂れ下がる。
断末魔の絶叫が放たれた。その場に居る者の他には、誰の耳に届くこと無く森の木々に吸い込まれた。
リシュナンテを彼が流した血と内臓の中へ落とし、ガラムはラーナを担いで踵を返した。ガラムが離れたことで、血の臭いを嗅ぎつけ、様子を窺っていた鳥系魔獣が次々に舞い降りる。
虫の息だが、リシュナンテは未だ生きていた。
先刻のように、再生人魔術を身に付けた魔術師と普人族の生贄がいれば、もしかすると命を拾ったかもしれない。しかし、伸ばされたのは救いの手ではなく、捕食者の爪と牙だった。それも大型魔獣ではなく、ハゲタカに似た小型の鳥魔獣であった。彼は動かない身体に意識を保ったまま、全身を啄まれることになった。
カール帝国宮廷魔術師リシュナンテ・バイトリは、シーイス公国の森の中で魔獣に食い散らかされながら死んだ。
リシュナンテ懲罰はガラム兄ちゃんに譲りました。