婚約解消の理由は、妹に奪われたから。――そう思っていたのは、私たちだけでした
「お姉様。私、ユリウス様を好きになってしまったの」
夕食を終えた直後、妹のミレーヌはそう言った。
私は手にしていた紅茶のカップを、静かに受け皿へ戻した。
「……ユリウス様は、私の婚約者だけれど」
「分かってるわ」
「そう」
分かっているのなら、話は終わりだ。そう思ったのだけれど、ミレーヌは席を立たなかった。それどころか、向かいに座ったまま、じっと私を見ている。
「それでね、お姉様」
「ええ」
「私に譲ってほしいの」
「何を?」
「ユリウス様を」
思わず黙った。聞き間違いかと思った。けれど、ミレーヌの表情は真剣だった。
「……婚約者は、ドレスや宝石ではないのよ」
「そんなこと分かってるわ。でも、お姉様はまだ若いでしょう? きっと他に素敵な方が見つかるわ」
「あなたも若いでしょう」
「私はユリウス様でなければ嫌なの」
「私は?」
「え?」
「私なら、ユリウス様でなくてもいいの?」
ミレーヌは答えなかった。代わりに困ったような顔をした。どうして分かってくれないの、とでも言いたげな顔だった。
私は小さく息を吐く。
「ともかく、私が決められる話ではないわ。ユリウス様にも失礼でしょう」
「じゃあ、ユリウス様が私を好きになってくださったら?」
「そのときは、ユリウス様と私で話し合います」
「だったらいいのね?」
「何が?」
「私がユリウス様に好きになってもらえるよう頑張っても」
「よくないわよ」
どうしてそうなるのだろう。頭が痛くなってきた。
けれど、これで終わりだと思っていた。ミレーヌが妙なことを言い出しただけ。両親が知れば、当然止める。
そう思っていた。翌日の朝食までは。
「クラリス。少しぐらいミレーヌにも機会を与えてやったらどうだ?」
父の言葉に、私はフォークを止めた。
「……何の機会ですか?」
「ユリウス殿と話す機会だ」
私は母を見る。母も穏やかに微笑んでいた。
「ミレーヌも遊びで言っているわけではないのよ。本当にユリウス様をお慕いしているの」
「だから何ですか?」
「クラリス」
母が少しだけ眉をひそめる。
「姉妹でしょう?」
「はい」
「だったら、もう少し妹の気持ちも考えてあげなさい」
私は今度こそ言葉を失った。姉妹だから。その言葉が、どうして妹の恋心だけを優先する理由になるのだろう。
「私はユリウス様と三年前から婚約しています」
「分かっている。だが、まだ結婚したわけではないだろう」
「だから妹が近づいても構わないと?」
「そうは言っていない。ただ、二人が話すくらいなら――」
「ユリウス様の意思は?」
父が黙った。
「私が譲る、譲らない以前の問題です。ユリウス様は物ではありません」
「だからこそ、ミレーヌのことも知ってもらえばいいじゃない」
母が言った。
「そのうえでユリウス様があなたを選ぶなら、ミレーヌだって諦められるでしょう?」
私は食事を終えることなく席を立った。それ以上話していたら、何を言うか分からなかった。
◇
それから、家族は本当にミレーヌとユリウス様を近づけ始めた。
ユリウス様が我が家を訪ねれば、いつの間にかミレーヌが同席している。庭を案内しようとすれば、
「ミレーヌも連れていってあげなさい」
と母が言う。
お茶を飲んでいれば、ミレーヌがユリウス様の隣に座る。
「ユリウス様は、どんな女性がお好きなんですか?」
「特には」
「髪は長い方がお好き?」
「考えたことがありませんね」
「今度、私も乗馬を教えていただきたいです」
「それはご家族にお願いしてください」
ユリウス様は、明らかに困っていた。
私は何度もミレーヌを止めた。
「いい加減にしなさい」
「話しているだけじゃない」
「私の婚約者よ」
「だから、まだ婚約者でしょう?」
意味が分からなかった。
父と母にも訴えた。けれど返ってくる言葉は同じだった。
「ミレーヌが納得するまでだ」
「少しくらい大目に見てあげなさい」
そして、ある日。ユリウス様が我が家を訪れた。いつもとは違って、供の者を連れていた。
「クラリス嬢。少し、お時間をいただけますか」
「はい」
「二人でお話ししたいのですが」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。何となく分かってしまった。
応接室に入り、向かい合って座る。ユリウス様はしばらく黙っていた。
やがて、まっすぐ私を見る。
「申し訳ありません」
その一言で、予感は確信に変わった。
「クラリス嬢。私との婚約を、解消していただきたい」
胸が痛んだ。
三年間、婚約者だった。恋物語のような激しい恋ではなかったけれど、私はこの人と夫婦になるのだと思っていた。一緒に領地を支えて、いつか子供が生まれて、年を取って。そんな未来を、当たり前のように考えていた。
それがなくなる。
けれど。
「……分かりました」
私は答えた。
ユリウス様が少し目を見開く。
「よろしいのですか」
「ご本人がそう望まれているのなら、私がしがみついても仕方ありません」
「……そうですか」
「今まで、ありがとうございました」
頭を下げた。
「クラリス嬢」
「はい」
「あなたに非があるわけではありません」
それが、余計につらかった。
「こちらの事情です。本当に申し訳ありません」
「お気遣いなく」
最後まで、私は笑えていたと思う。
ユリウス様が帰ったあと、自室で少しだけ泣いた。
やっぱり、ミレーヌを選んだのだ。そう思った。
◇
「お姉様、本当にありがとう!」
婚約解消を知ったミレーヌは、満面の笑顔だった。私に抱きつこうとする。
私は一歩下がった。
「クラリス?」
母が咎めるように私を見る。
「ミレーヌは喜んでいるのよ」
「そうでしょうね」
「これで丸く収まったな」
父まで満足そうに頷いた。
その瞬間、何かが、すとんと落ちた。
悲しいとか、悔しいとか。そんなものではなかった。
もういい。
そう思った。
「お父様、お母様」
「なんだ?」
「私、叔母様のところへ行きます」
三人の顔から笑みが消えた。
「突然、何を言っているの?」
「以前から、遊びに来るよう誘われていましたから。ちょうどいい機会です」
「しかし……」
「婚約もなくなりました。私がここにいなければならない理由もありません」
父が眉をひそめた。
「お前が出ていけば、伯爵家はどうする」
「ミレーヌがいるでしょう」
「ミレーヌが?」
「ユリウス様と結婚するのでしょう? でしたら、ミレーヌがこの家を継げばいいではありませんか」
父はしばらく黙ったあと、息を吐いた。
「……仕方ない。ミレーヌを跡取りにする」
「お父様!」
「いずれユリウス殿と結婚するのだ。問題はないだろう」
ミレーヌは一瞬驚いたものの、すぐに嬉しそうに笑った。
母もほっとしたようだった。
それを見て、私の気持ちは完全に決まった。
「では、何も問題ありませんね」
「別に家を出なくてもいいでしょう?」
母が困ったように言った。
「ここにいたくありません」
初めて、はっきりと言った。
父がまた眉をひそめる。けれど私は、もう目を逸らさなかった。
「少しだけ、離れたいんです」
結局、数日後。私は叔母の住む土地へ向かった。
ミレーヌは見送りながら、
「結婚式には絶対帰ってきてね!」
と手を振っていた。
私は笑って、
「ええ」
と答えた。
そのときは、本当に帰るつもりだった。
◇
叔母の暮らす土地は、思っていたよりずっと居心地がよかった。
「好きなだけいなさい」
叔母は、それしか言わなかった。事情を話したときだけは、しばらく絶句していたけれど。
「……あなたのお父様とお母様、そんなことになっていたの?」
「ミレーヌがかわいいのでしょう」
「あなたも娘でしょうに」
その一言に、私は答えられなかった。
叔母の家では、領地の仕事を少し手伝うようになった。そこで知り合ったのがローレンだった。近隣の子爵家の跡取りで、叔母と仕事上の付き合いがある人だった。
最初はただ、一緒に帳簿を確認したり、村を回ったりするだけ。けれど、一緒にいる時間が少しずつ増えた。
「クラリスさんは、何でも先に相手へ譲りますね」
ある日、ローレンに言われた。
「そうでしょうか」
「昼食を選ぶときも、馬車の席も。何でも『私はどちらでも』と言う」
「その方が揉めませんから」
「嫌なものまで譲る必要はないでしょう?」
私は黙った。
「嫌なら嫌と言っていいと思いますよ」
簡単な言葉だった。でも、なぜかずっと心に残った。
◇
それから数か月が過ぎたある日、ミレーヌから手紙が届いた。
実家を出てから何度か手紙は届いていたけれど、今回はいつもよりずっと長い。
『お姉様、ユリウス様が意地悪なの』
最初の一文から、私は首を傾げた。
『いつまで待っても、私に婚約を申し込んでくださらないのよ。お姉様との婚約はちゃんと解消したのに、どうして私との婚約のお話をしてくださらないのかしら。お父様とお母様も困っているの』
「…………え?」
思わず声が出た。
続きを読む。
『お姉様からもユリウス様に言ってくれない? 私がずっと待っているって』
私は手紙を置いた。
もう一度、最初から読む。それから、もう一度読んだ。
何度読んでも同じだった。
「まだ婚約していないの……?」
私はてっきり、もう結婚式の日取りくらい決まっているものだと思っていた。
ユリウス様は私との婚約を解消した。ミレーヌはあれほど彼を慕っていた。父も母も二人を近づけようとしていた。
だから、当然そのための婚約解消なのだと思っていた。
けれど。
考えてみれば、私は一度も聞いていない。
ユリウス様の口から、ミレーヌと結婚したいなどとは。
「どういうこと……?」
◇
答えは、思いがけず早く分かった。
数日後、叔母の家を仕事で訪ねてきた客の中に、ユリウス様がいたのだ。
顔を合わせた瞬間、お互いに足を止めた。
「クラリス嬢」
「お久しぶりです」
「ええ。お元気そうで何よりです」
以前と変わらない、穏やかな態度だった。
少し気まずかったけれど、今は聞きたいことがある。
「ユリウス様。少し、お尋ねしてもよろしいですか?」
「もちろんです」
「ミレーヌとのご婚約についてなのですが」
ユリウス様が黙った。
「……妹君との?」
「はい」
「何のお話でしょうか」
今度は私が黙った。
「婚約のお話が進んでいないと、ミレーヌから手紙が届きまして」
「進むも何も」
ユリウス様は、本当に分からないという顔をしていた。
「私は妹君に求婚したことなどありません」
「……え?」
「もちろん、婚約の申し込みもしていません」
「でも」
頭が追いつかない。
「私との婚約を解消されましたよね?」
「はい」
「ミレーヌのために」
「違います」
即答だった。
「では、どうして?」
ユリウス様はしばらく迷った。それから、大きく息を吐いた。
「婚約者の妹が私に言い寄り、ご両親がそれを止めるどころか後押しする家と、姻戚になれると思いますか?」
「…………」
「父とも相談しました。このままあなたと結婚すれば、あの方々は私の家族になります」
私は何も言えなかった。
「あなたには何の落ち度もありません。だからこそ、あのとき詳しい理由を申し上げるのをためらいました。あなたのご家族を悪く言うことになりますから」
「では……」
ようやく声が出た。
「ミレーヌを選んだわけではなかったのですか?」
「なぜ私が?」
心の底から不思議そうだった。
私は思わず額に手を当てた。
そうだ。
ユリウス様は、一度もそんなことを言っていない。
私との婚約を解消したいと言っただけだ。
ミレーヌが好きだとも、ミレーヌと結婚したいとも、一言も。
私も、ミレーヌも、父も母も。
勝手にそう思い込んでいただけだった。
「申し訳ありませんでした」
ユリウス様が頭を下げる。
「結果として、あなたまで巻き込んでしまった」
「いいえ」
私は首を振った。
不思議と、怒りはなかった。
「今なら分かります。ユリウス様が何から逃げたかったのか」
私も、そこから逃げてきたのだから。
あの家では、誰かが我慢すれば丸く収まると思われていた。そして、その誰かはいつも私だった。
ユリウス様は、それを外から見ていた。
だから逃げた。
私より先に。
「クラリス嬢」
「はい」
「今さら言う資格はないかもしれませんが、あなたがこちらで穏やかに暮らしているようで安心しました」
「ありがとうございます」
それで十分だった。
私たちはもう婚約者ではない。もう一度やり直したいとも思わなかった。
ただ、三年間一緒に未来を考えていた人と、最後にきちんと話せた。
それだけで、胸の奥に残っていたものが少し軽くなった。
◇
それから間もなく、実家から何通もの手紙が届き始めた。
今度はミレーヌだけではない。父からも、母からも届いた。
どうやら両親は、ようやくユリウス様の家に正式な話を持ちかけたらしい。
当然、断られた。
しかも、困ったことはそれだけではなかった。
父はすでにミレーヌを伯爵家の跡取りにすると周囲へ話していた。ユリウス様との結婚を前提にしていたため、その話まで宙に浮いたらしい。
それでもミレーヌに婿を迎えれば済むはずだった。
けれど、その縁談までまとまらなくなっていた。
一度は良いところまで話が進んだ相手もいたらしい。けれど、先方から断りの連絡が来たという。
母からの手紙には、その理由まで書かれていた。
『自分の娘の婚約者に、もう一人の娘を近づけるご両親と姻戚になることには不安があります、と言われました』
私は手紙を読み終え、静かに畳んだ。
驚きはしなかった。
ユリウス様が考えたことを、別の家も考えただけだ。
そして父からの手紙には、こう書かれていた。
『お前から先方へ、誤解だったと説明してくれ。ミレーヌも反省している。家族なのだから、こんなときくらい力を貸しなさい』
以前の私なら、悩んだと思う。
父を怒らせたくない。母を悲しませたくない。ミレーヌが困っているなら助けなければ。
そんなことを考えて、何枚も便箋を無駄にしただろう。
けれど、今は違った。
私は一枚だけ便箋を取り出した。
『誤解ではありません。実際に皆さんがしたことです。私から説明することはありません』
それだけ書いた。
書き終えてから読み返してみても、付け加えたい言葉はなかった。
◇
それからしばらくして、ミレーヌには婿入りを前提とした縁談の話そのものがほとんど来なくなったと聞いた。両親も方々に説明して回ったらしいけれど、一度広まった評判は簡単には消えなかった。
一方で、私とローレンは以前より多くの時間を一緒に過ごすようになった。
そして季節が一つ変わる頃、彼から結婚を申し込まれた。
「クラリスさん。私と結婚していただけませんか?」
結婚すれば、私はローレンの子爵家へ嫁ぐことになる。
以前の私なら、実家のことを考えて迷ったかもしれない。
でも今は、答えに迷わなかった。
「はい。喜んで」
差し出された手を、私は自分から取った。
今度の婚約について、妹に譲れと言う人は誰もいなかった。




